偽恋人からはじまる本気恋愛!~甘美な罠に溺れて~
一瞬、やっぱり水城さんなの?なんて思って恐る恐る顔をあげてみる。けれど、私の目の前に立っていたのは……まったく見覚えのない四十代くらいのサラリーマン風の男性だった。

「こ、こんばんは……あの、新宿にあるイルブールでいつもピアノを弾かれている方ですよね?」

今まで背後にいたかと思っていたのに、いつの間に回り込んできたのだろう。その男は薄ら笑って私を見ている。全身が硬直して目を反らすこともできない。

「あの、そこどいてください」

身長は高くなく、痩せて眼鏡をかけている。そう言いながら怯える私のことなんかお構いなしで、男はヘラッと笑った。

「今夜は……なんだか雰囲気が違いますね。いつも髪を束ねて眼鏡をかけているのに……でも、どんなあなたでも素敵ですよ。あ、僕の手紙を読んでくれましたか? 一生懸命あなたのことを想像しながら書いたんです。あ、花束も、あなた宛てに渡したはずなのになぜか店に飾られていましたが……もしかして迷惑でしたか? あの、せめて名前だけでも教えてくれませんか?」

男は私の言葉を挟ませたくないのか、立て石に水のようにしゃべり続けた。何度も眼鏡のフレームを押し上げてどことなく落ち着かない。

「人違いです」

ここで肯定したら、イルブールでピアノを弾いている演奏者であることを認めることになる。男が人違いをしたと思わせるために私は否定した。けれど、この人のしていることは明らかに付きまといで、ストーカー行為だった。気味の悪い手紙を送りつけてきた犯人も、きっとこの人だ。

「人違いだなんて、そんなはずありません。さっき、店にいたでしょう? ずっとつけて来たんですから。ああ、それにしても今夜のピアノも相変わらず素敵でした。けど、誰かと電話で話をしてましたよね? 誰なんです? あなたの頬が赤く染まっていくのを見ていたら……気になってしまって、誰と会うのか突き止めたくな――」

「もうその辺にしとけ、彼女がこれから会う相手は俺だよ」

そのとき、不意に低くて鋭い声がして恐怖ですっかり縮こまってしまった身体がふっと緩む。
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