南国王子の婚活事情
ラーナサスが大広間に入ると、人々は一斉に彼を見た。
堂々とした振る舞い。豪華な作りの頸飾はシャンデリアの光に反射して眩しく光る。真紅の大綬はガレージナの王族の証。彼のために作られた夜会服は、線の細い都会の子息とは違い、男らしい逞しさをあらわにしていた。
あちこちでほぅっと感嘆の声が漏れる。だが、ラーナサスはそんな周りの視線も気にせず、ロザンヌを探していた。
だが、どこにもロザンヌの姿は見えない。
(おかしいな……朝会ったときには、確かに夜会に行くと言っていたのに……)
周りにいるのは香りの強い香水とこれ見よがしに大きな宝石を身に着けた令嬢たちだった。
彼女たちはラーナサスの登場に色めきたち、お互いをけん制している。その中でも力のある一際豪華なドレスをまとった令嬢が近づいた。周りの令嬢は悔しそうにしている。
「ごきげんよう、殿下」
「これはこれはクリスティン様。今宵も一際お美しい」
「あら、わたくしたち、どこかでお会いしまして?」
クリスティンは谷間を強調するように腕で胸を挟み込み、手を口にあてて驚いた顔をした。
もちろん、会っている。今シーズンの夜会で何度も。だが、ガレージナの民族衣装を着たラーナサスに興味をもたなかったのだ。それなのに、クリスティンは「これは運命ではなくて?」と軽やかに笑っている。
クリスティンは侯爵家の令嬢で、家柄も申し分ない。父も喜んでくれることだろう。だが、ラーナサスはまったく嬉しくなかった。
洗練された立ち居振る舞いに堂々とした佇まい。歌うような軽やかな話し声に肌荒れに縁のない柔らかな美肌。興味深くラーナサスを見上げてくる視線はパッチリとして愛くるしい。
求めていた妃は、このような令嬢だったはずだ。
それなのに頭に思い浮かぶのは、表情豊かで面倒見の良いロザンヌだった。ロザンヌを引き寄せ、踊ったときの感覚がラーナサスは忘れられない。髪からほんのりと香る花の香りが漂い、見下ろした先で頬が上気していた。まさか見ているとは思わなかったのか、チラリとラーナサスを見上げて視線が合うと、目を見開いて慌ててそらす。背中に置いた手に力をこめると、驚いたように身体をこわばらせたが、困ったように視線を泳がせるとおとなしく身を預けた。そのときの昂揚感をクリスティンからは感じないのだ。
他愛のない話をしていると、クリスティンが焦れた様子で大胆にもラーナサスの腕に触れた。
広間の中央では、両陛下の最初のダンスが終わり、人々もダンスを始めようとしていた。
「陛下のダンス、素敵でしたわね。ねえ、殿下はダンスお得意ですの?」
クリスティンはあからさまに誘いをかけてくる。
すると、そこに救世主が現れた。
「ラーナサス殿下。今宵お会いできることを楽しみにしておりましたのよ」
ダンスを終えた王妃が隣国の王子であるラーナサスに声をかけたのだ。
クリスティンは慌てて身を引き、腰を落とす。ラーナサスはその機会を逃さず、王妃にダンスを申し込んだ。
エキゾチックな黒い瞳に見つめられ、王妃は少女のような微笑みを見せてラーナサスの手を取った。
踊りながら広間を見渡しても、やはりロザンヌの姿は見えない。
「想い人がいらっしゃるの?」
その言葉にラーナサスはドキリとした。
王妃が意味深な笑みを浮かべている。
「陛下よりお話は伺っておりますわ。お妃探しにいらしたのでしょう?」
「ええ。そうなのですが……」
「わたくしの仕事もなかなかのものでしょう?」
「え……」
すると王妃はこっそりウインクをした。
視界の端には、おなかのでっぱりが目立つ男性のリードで踊るクリスティンが入り込む。
なるほど。王妃はクリスティンから自分を引き離してくれたのだ。
ラーナサスがお礼を言うと、「ここからはご自分でなさいませ」と返した。
ダンスが終わると、王妃には次々にダンスの申し出が現れる。ラーナサスは次の相手と交代すると、通りがかったウエイターから飲み物を受け取った。ダンスはひとまず休みという合図だ。そのまま壁際に移動すると、今飲み物をくれたウエイターが空になったグラスを扉の向こうに渡す。
それを見たラーナサスはグラスの中の飲み物を一気に飲み干し、通りがかった別のウエイターに押し付けると急いで扉へと向かった。
途中何人かに声をかけられたが、何も耳に入ってこない。ラーナサスは軽く挨拶を返してすばやく扉に近づいた。
「ロザンヌ」
突然声をかけられ、メイド姿のロザンヌはあやうくトレーを落としそうになった。なんとか体勢を整えたものの、振り返ることができない。
「ロザンヌ!」
シーズン最後の夜会、ロザンヌは宮殿に努める友人の紹介で、裏方として参加していた。
厨房の隅の洗い場の手伝いをしていたのだが、人手が足りなくなり洗い物を取りに行ったところを見つかってしまった。
聞こえなかった振りをして、そのまま厨房に向かおうかと思ったが、足が震えて動かない。トレーの上でカシャカシャとグラス同士がぶつかる。
振り返らないロザンヌにしびれを切らし、ラーナサスは大股で近づくと、ロザンヌの前に回り込んで彼女の行く手を遮った。
「ロザンヌ! これは一体どういう……」
苛立ちをぶつけるように声を荒げたラーナサスだったが、目の前でロザンヌが顔色をなくしていることに気がついた。
「……すまない。大きな声を出して脅かすつもりはなかったのだ。だが、その恰好は……」
ラーナサスの言葉に、ロザンヌは恥ずかしさでいっぱいになった。
こんな姿をラーナサスに見られてしまった。貴族の娘がメイドの恰好をし、少しの給金のために夜会で洗い物を片付けている姿など情けなく思っているに違いない。
ラーナサスの腕がロザンヌに向けて伸ばされたが、ロザンヌはとっさに身を引いた。
乱入者が現れたのは、ラーナサスが空を掻いた手をぎゅっと握ったときだった。
「殿下、そこでなにをしておりますの?」
「く、クリスティン様」
ロザンヌの慌てた様子にクリスティンは蔑んだ視線を送った。
「ロザンヌ……あなた、最近夜会でもお茶会でも顔を見ないと思ったら……なぁに? その恰好。お父様が見たら嘆きますわよ? あぁ、お父様は領地で羊小屋を作ってらっしゃるんでしたわね。 子も子、というところかしらね?」
ほほほと笑う声に、ロザンヌが手にしたトレーの上でグラスがカタカタと揺れた。
ロザンヌは必死に我慢していた。
この屈辱にも、羞恥にも耐えなければならない。
自分の行動でこれ以上家の立場を危うくすることはできないのだ。失うのは、この恋心だけで十分だ。
視線の端で、クリスティンがラーナサスの腕に手をかけるのが見えた。
「わたくしはこれで……」
いてもたってもいられず、その場を離れようとしたロザンヌを引き留めたのはクリスティンだった。
「お待ちなさい。わたくしのグラスもさげてくださる?」
そう言うと、クリスティンは赤い液体が入ったグラスをロザンヌに向けた。
量は十分に残っており、一口ほどしか口をつけてないだろう。もったいない。そう思いながらロザンヌはクリスティンが差し出すグラスを受け取るために彼女に近づいた。
だが、グラスに手が触れた瞬間、グラスはクリスティンの手を離れて大きく傾いた。
「あっ!」
借り物のメイド服に中の液体が飛び散り、赤く染めていくのをロザンヌは茫然と見ていることしかできなかった。
クスクスと耳障りな笑い声が聞こえる。
「あらぁ。早く受け取らないんだもの。わたくしのドレスにも飛び散りましたわ」
ほんの数滴、裾のレースを汚しているのを見てクリスティンが口を尖らせる。
「も、申し訳ありません」
ロザンヌは自分が身に着けた白いブラウスに赤い染みが広がるのを構わず、クリスティンに頭を下げた。
逃げ出してしまいたかったが、それはかえって事を荒立てることになる。だが、この後のことを思うと心が凍り付いてしまいそうだった。
自分のこんな姿を、ラーナサスは軽蔑の視線で見ているのではないかと思うと辛くて仕方がない。
「殿下。参りましょう。わたくし、不愉快ですわ」
「では、おひとりで行かれるがよい」
ロザンヌが肩に何かがかけられる感触を感じて顔を上げると、そこには心配そうに見下ろす黒い瞳があった。
ラーナサスは上着を脱いでおり、仕立てたばかりの高級な上着は赤い染みで汚れたロザンヌの体をすっぽりを隠していた。
「ラーナサス様?」
「行こう。ロザンヌ」
ラーナサスはそう言うと、ロザンヌが戻って来ないのを心配して厨房から顔を出した別のメイドにトレーを押し付けてロザンヌの手を引きさっさと歩きだした。
「ラーナサス様? あ、あの……夜会はよろしいのですか?」
「よい」
「ですが、まだ始まったばかりではありませんか!」
「もう、よいのだ」
「でも! さきほどの方はベリング侯爵家のクリスティン様ですよ? よろしいのですか?」
宮殿の回廊を出て、庭園に差し掛かったところで突然ラーナサスが立ち止まった。
ロザンヌはその背にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
振り返ったラーナサスの姿を目にし、ロザンヌは慌てて羽織っていた上着を脱いでラーナサスに差し出した。
「上着! 申し訳ありませんでした! 飲み物で汚れていなければいいんですけれど……」
「そんなことはいい。服が濡れて冷たいだろう。羽織っておけ」
「そういうわけにはまいりません! せっかくラーナサス様にピッタリの夜会服をあつらえましたのに……。私などが羽織っているわけにはまいりません! それに……あんな風にクリスティン様を置いてきてしまっては……」
なおも上着を返そうとするロザンヌに、ラーナサスはとうとう声を荒げた。
「俺がよいと言ったらよいのだ!」
「ラーナサス様……」
「それに! 俺は最初のダンスはロザンヌと、と決めていた! それなのに……」
ロザンヌは赤い染みを作ったメイド服姿を見下ろした。
対するラーナサスは国一番の仕立て屋があつらえた最先端の高級夜会服に身を包んでいる。とてもではないが、釣り合うものではない。
「ロザンヌは、俺と踊るのが嫌か?」
「それは……」
「嫌なら嫌だと言え」
強い眼差しに抗えず、ロザンヌは弱弱しく首を振った。
「嫌なはず、ありません……」
「ならば、わたくしと踊っていただけますか?」
ラーナサスが少し身を屈めて手を差し出す。
ロザンヌは、今日だけ……この一度だけ、と言い聞かせて荒れた手をその手に預けた。
広間から漏れ聞こえる小さな音に合わせて、ふたりは踊りだした。
冬が近いこの時期は庭園に出る者もおらず、ラーナサスとロザンヌは二人だけの時を過ごした。
曲が変わり、二人は足を止めた。だが、ラーナサスはロザンヌの手を放そうとしない。
「あの……ラーナサス様?」
「夜会には、もう戻らぬ。俺は今日やっと気づいた。ロザンヌ、君を俺の妃に迎えたい」
「えっ?」
ロザンヌの心臓は喜びにときめいた。
だが、すぐに脳裏に浮かんだのは領地の両親のことだった。
ロザンヌは静かに首を横に振った。
ラーナサスならば、もっと素敵な貴族の令嬢がふさわしい。そう、クリスティンのように、他を圧倒する存在感と華やかさ、そして家柄を兼ね備えた女性だ。
ロザンヌは、父の願いを聞き入れて領地に戻ることを心に決めていた。
来年の社交シーズンも戻って来るつもりはない。
王都の屋敷は管理をウィリアムに任せ、当分は領地の立て直しに専念しなくてはならない。そして、いずれはどこぞの貴族の次男か三男と見合いをし、家を守らなければ……。
見合いより自分で相手を探すために王都にやって来たラーナサスの求婚を断り、自分は見合いに逃げるなんて、なんて皮肉なことだろう。
ロザンヌはとてもではないがラーナサスの顔を見ることができなかった。
「私は、あなたのお傍にはいられません」
「なぜだ? 俺と一緒にガレージナに行くのは嫌か?」
「私は、家族と領民を見捨てることはできません」
その気持ちは、ラーナサスにも痛いほどわかります。
かつては国のため、国民のため愛のない見合い結婚を受け入れようとしたのだ。
ラーナサスはそっと、ロザンヌを抱きしめた。
うつむいたまま小さく震えるロザンヌを見ているのは辛かった。
* * *
社交シーズンを締めくくる華やかな夜会が終わり、しばらくすると王都にも冬がやって来た。
人々は荷造りを始め、恋人たちはつかの間の別れを惜しんだ。
そしてラーナサスもまた、ガレージナに帰国するための荷造りを終えて慣れ親しんだパウロー家のエントランスへとやって来た。
「それでは、お元気で」
「ああ」
ふたりの間に沈黙が流れる。
後ろに控えるウィリアムとカレンはそんなふたりをじっと見守っている。
「来年の社交シーズンもこちらにいらっしゃるのですか?」
「いや」
「えっ?」
「もう、探す必要はない」
そう言ってロザンヌを見つめる視線は熱い。
ラーナサスはロザンヌへの想いをあきらめるつもりはなかった。
「ロザンヌ。俺はもうロザンヌしかいらない。お前が家族や領民を大切にする気持ちはわかる。だが、お前をあきらめるつもりはない」
ラーナサスはロザンヌの心が揺らぐ言葉を置いて、屋敷を出ていった。
あきらめないとラーナサスは言ったが、ふたりが一緒に過ごせる未来はない。
ラーナサスはこれからもロザンヌの心の中に生き続けるだろう。いつかはこの切ない想いも、よい思い出になる日がくるだろうか。
さきほどまでじっと見つめていた扉が叩かれたのは、ロザンヌがそう思いながら踵を返したときだった。
まさかラーナサスが戻ってきたのだろうか?
訪問者を確認しようと扉に向かったウィリアムを追い越し、ロザンヌは急いで扉を開けた。
だが、そこに立っていたのはヒョロリと背の高い赤毛の男だった。
「あなたは?」
「お手紙をお持ちいたしました」
「まぁ……それはどうもご苦労様」
男は薄っぺらい封筒を渡すと、さっさと出て行った。
封筒の宛名は父親である。よほど急いだのか、少し字が乱れていた。
母の容体がよくないのだろうか? ロザンヌは気が急いてその場でビリビリと破き、便箋を取り出した。
「急ぎの手紙ですか? 奥様のご容体は……」
「妊娠……だそうです」
「えっ? なんとおっしゃいました?」
「私に……弟か妹ができるそうです……だから……想いを通わせた方がいるなら大切にしなさいと……ど、どうしてそんなこと……」
こほんと咳払いが聞こえ、そちらを向くと、荷造り途中であったロザンヌのカバンを持ってウィリアムが立っていた。
「差し出がましいかとは思いましたが、旦那様にお嬢様のご様子をお伝えするものわたくしの仕事ですので」
「はっ? ウィリアム? どういうこと?」
「ラーナサス様より正式に結婚の申し込みを預かりまして、旦那様にお送りいたしました。そのお返事が今届いたようでございます」
「えっ? えっ?」
ウィリアムは無表情でロザンヌにカバンを持たせると、カレンにコートを用意するよう言いつけた。
「ラーナサス様は帰国前に国王陛下への謁見されるそうでございます。その後宮殿の前でガレージナの迎えの者と合流なさると……」
「ウィリアム?」
「お嬢様。わたくしの話を聞いていましたか? 旦那様は、ラーナサス様との婚姻をお認めになったのです。あとはお嬢様がラーナサス様を追うだけなのですよ」
ロザンヌはカバンをぎゅっと握りしめると、外に走り出した。
* * *
数年後、南の国では華やかな結婚披露宴がおこなわれた。
あの日、屋敷を飛び出したロザンヌが向かったのは宮殿ではなく、北の領地だった。
いくら父の許しがあっても、家族の危機からひとり抜け出すことはできなかった。
ロザンヌの行き先を知り、慌てたのはウィリアムだ。
慌ててガレージナに便りを出すと、ラーナサスは怒りも呆れもせず、「ロザンヌらしい」とただ笑うだけだった。
跡継ぎとなる男子が生まれ、ロザンヌは出産で思うように動けない母の代わりに父と共に朝から晩まで働いた。そんなロザンヌを、ラーナサスは陰でそっと援助していた。
だが弟が歩くようになり、少しの言葉を話すようになった頃、とうとうしびれを切らしたラーナサスがロザンヌを迎えにやって来た。
ふたりが離れ離れになって三年が経っていた。
離れても、ふたりの想いは離れることはなかった。
お互いそれを確認すると、ロザンヌはやっとラーナサスの求婚を受け入れたのだ。
この特別な日、ガレージナの王宮の大広間は色とりどりの花で飾られた。
沢山の笑顔の中で、ラーナサスはロザンヌに手を差し出す。
「わたくしと踊っていただけますか?」
「はい!」
ふたりは幸せそうにお互いを見つめあいながら踊りだした。
堂々とした振る舞い。豪華な作りの頸飾はシャンデリアの光に反射して眩しく光る。真紅の大綬はガレージナの王族の証。彼のために作られた夜会服は、線の細い都会の子息とは違い、男らしい逞しさをあらわにしていた。
あちこちでほぅっと感嘆の声が漏れる。だが、ラーナサスはそんな周りの視線も気にせず、ロザンヌを探していた。
だが、どこにもロザンヌの姿は見えない。
(おかしいな……朝会ったときには、確かに夜会に行くと言っていたのに……)
周りにいるのは香りの強い香水とこれ見よがしに大きな宝石を身に着けた令嬢たちだった。
彼女たちはラーナサスの登場に色めきたち、お互いをけん制している。その中でも力のある一際豪華なドレスをまとった令嬢が近づいた。周りの令嬢は悔しそうにしている。
「ごきげんよう、殿下」
「これはこれはクリスティン様。今宵も一際お美しい」
「あら、わたくしたち、どこかでお会いしまして?」
クリスティンは谷間を強調するように腕で胸を挟み込み、手を口にあてて驚いた顔をした。
もちろん、会っている。今シーズンの夜会で何度も。だが、ガレージナの民族衣装を着たラーナサスに興味をもたなかったのだ。それなのに、クリスティンは「これは運命ではなくて?」と軽やかに笑っている。
クリスティンは侯爵家の令嬢で、家柄も申し分ない。父も喜んでくれることだろう。だが、ラーナサスはまったく嬉しくなかった。
洗練された立ち居振る舞いに堂々とした佇まい。歌うような軽やかな話し声に肌荒れに縁のない柔らかな美肌。興味深くラーナサスを見上げてくる視線はパッチリとして愛くるしい。
求めていた妃は、このような令嬢だったはずだ。
それなのに頭に思い浮かぶのは、表情豊かで面倒見の良いロザンヌだった。ロザンヌを引き寄せ、踊ったときの感覚がラーナサスは忘れられない。髪からほんのりと香る花の香りが漂い、見下ろした先で頬が上気していた。まさか見ているとは思わなかったのか、チラリとラーナサスを見上げて視線が合うと、目を見開いて慌ててそらす。背中に置いた手に力をこめると、驚いたように身体をこわばらせたが、困ったように視線を泳がせるとおとなしく身を預けた。そのときの昂揚感をクリスティンからは感じないのだ。
他愛のない話をしていると、クリスティンが焦れた様子で大胆にもラーナサスの腕に触れた。
広間の中央では、両陛下の最初のダンスが終わり、人々もダンスを始めようとしていた。
「陛下のダンス、素敵でしたわね。ねえ、殿下はダンスお得意ですの?」
クリスティンはあからさまに誘いをかけてくる。
すると、そこに救世主が現れた。
「ラーナサス殿下。今宵お会いできることを楽しみにしておりましたのよ」
ダンスを終えた王妃が隣国の王子であるラーナサスに声をかけたのだ。
クリスティンは慌てて身を引き、腰を落とす。ラーナサスはその機会を逃さず、王妃にダンスを申し込んだ。
エキゾチックな黒い瞳に見つめられ、王妃は少女のような微笑みを見せてラーナサスの手を取った。
踊りながら広間を見渡しても、やはりロザンヌの姿は見えない。
「想い人がいらっしゃるの?」
その言葉にラーナサスはドキリとした。
王妃が意味深な笑みを浮かべている。
「陛下よりお話は伺っておりますわ。お妃探しにいらしたのでしょう?」
「ええ。そうなのですが……」
「わたくしの仕事もなかなかのものでしょう?」
「え……」
すると王妃はこっそりウインクをした。
視界の端には、おなかのでっぱりが目立つ男性のリードで踊るクリスティンが入り込む。
なるほど。王妃はクリスティンから自分を引き離してくれたのだ。
ラーナサスがお礼を言うと、「ここからはご自分でなさいませ」と返した。
ダンスが終わると、王妃には次々にダンスの申し出が現れる。ラーナサスは次の相手と交代すると、通りがかったウエイターから飲み物を受け取った。ダンスはひとまず休みという合図だ。そのまま壁際に移動すると、今飲み物をくれたウエイターが空になったグラスを扉の向こうに渡す。
それを見たラーナサスはグラスの中の飲み物を一気に飲み干し、通りがかった別のウエイターに押し付けると急いで扉へと向かった。
途中何人かに声をかけられたが、何も耳に入ってこない。ラーナサスは軽く挨拶を返してすばやく扉に近づいた。
「ロザンヌ」
突然声をかけられ、メイド姿のロザンヌはあやうくトレーを落としそうになった。なんとか体勢を整えたものの、振り返ることができない。
「ロザンヌ!」
シーズン最後の夜会、ロザンヌは宮殿に努める友人の紹介で、裏方として参加していた。
厨房の隅の洗い場の手伝いをしていたのだが、人手が足りなくなり洗い物を取りに行ったところを見つかってしまった。
聞こえなかった振りをして、そのまま厨房に向かおうかと思ったが、足が震えて動かない。トレーの上でカシャカシャとグラス同士がぶつかる。
振り返らないロザンヌにしびれを切らし、ラーナサスは大股で近づくと、ロザンヌの前に回り込んで彼女の行く手を遮った。
「ロザンヌ! これは一体どういう……」
苛立ちをぶつけるように声を荒げたラーナサスだったが、目の前でロザンヌが顔色をなくしていることに気がついた。
「……すまない。大きな声を出して脅かすつもりはなかったのだ。だが、その恰好は……」
ラーナサスの言葉に、ロザンヌは恥ずかしさでいっぱいになった。
こんな姿をラーナサスに見られてしまった。貴族の娘がメイドの恰好をし、少しの給金のために夜会で洗い物を片付けている姿など情けなく思っているに違いない。
ラーナサスの腕がロザンヌに向けて伸ばされたが、ロザンヌはとっさに身を引いた。
乱入者が現れたのは、ラーナサスが空を掻いた手をぎゅっと握ったときだった。
「殿下、そこでなにをしておりますの?」
「く、クリスティン様」
ロザンヌの慌てた様子にクリスティンは蔑んだ視線を送った。
「ロザンヌ……あなた、最近夜会でもお茶会でも顔を見ないと思ったら……なぁに? その恰好。お父様が見たら嘆きますわよ? あぁ、お父様は領地で羊小屋を作ってらっしゃるんでしたわね。 子も子、というところかしらね?」
ほほほと笑う声に、ロザンヌが手にしたトレーの上でグラスがカタカタと揺れた。
ロザンヌは必死に我慢していた。
この屈辱にも、羞恥にも耐えなければならない。
自分の行動でこれ以上家の立場を危うくすることはできないのだ。失うのは、この恋心だけで十分だ。
視線の端で、クリスティンがラーナサスの腕に手をかけるのが見えた。
「わたくしはこれで……」
いてもたってもいられず、その場を離れようとしたロザンヌを引き留めたのはクリスティンだった。
「お待ちなさい。わたくしのグラスもさげてくださる?」
そう言うと、クリスティンは赤い液体が入ったグラスをロザンヌに向けた。
量は十分に残っており、一口ほどしか口をつけてないだろう。もったいない。そう思いながらロザンヌはクリスティンが差し出すグラスを受け取るために彼女に近づいた。
だが、グラスに手が触れた瞬間、グラスはクリスティンの手を離れて大きく傾いた。
「あっ!」
借り物のメイド服に中の液体が飛び散り、赤く染めていくのをロザンヌは茫然と見ていることしかできなかった。
クスクスと耳障りな笑い声が聞こえる。
「あらぁ。早く受け取らないんだもの。わたくしのドレスにも飛び散りましたわ」
ほんの数滴、裾のレースを汚しているのを見てクリスティンが口を尖らせる。
「も、申し訳ありません」
ロザンヌは自分が身に着けた白いブラウスに赤い染みが広がるのを構わず、クリスティンに頭を下げた。
逃げ出してしまいたかったが、それはかえって事を荒立てることになる。だが、この後のことを思うと心が凍り付いてしまいそうだった。
自分のこんな姿を、ラーナサスは軽蔑の視線で見ているのではないかと思うと辛くて仕方がない。
「殿下。参りましょう。わたくし、不愉快ですわ」
「では、おひとりで行かれるがよい」
ロザンヌが肩に何かがかけられる感触を感じて顔を上げると、そこには心配そうに見下ろす黒い瞳があった。
ラーナサスは上着を脱いでおり、仕立てたばかりの高級な上着は赤い染みで汚れたロザンヌの体をすっぽりを隠していた。
「ラーナサス様?」
「行こう。ロザンヌ」
ラーナサスはそう言うと、ロザンヌが戻って来ないのを心配して厨房から顔を出した別のメイドにトレーを押し付けてロザンヌの手を引きさっさと歩きだした。
「ラーナサス様? あ、あの……夜会はよろしいのですか?」
「よい」
「ですが、まだ始まったばかりではありませんか!」
「もう、よいのだ」
「でも! さきほどの方はベリング侯爵家のクリスティン様ですよ? よろしいのですか?」
宮殿の回廊を出て、庭園に差し掛かったところで突然ラーナサスが立ち止まった。
ロザンヌはその背にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
振り返ったラーナサスの姿を目にし、ロザンヌは慌てて羽織っていた上着を脱いでラーナサスに差し出した。
「上着! 申し訳ありませんでした! 飲み物で汚れていなければいいんですけれど……」
「そんなことはいい。服が濡れて冷たいだろう。羽織っておけ」
「そういうわけにはまいりません! せっかくラーナサス様にピッタリの夜会服をあつらえましたのに……。私などが羽織っているわけにはまいりません! それに……あんな風にクリスティン様を置いてきてしまっては……」
なおも上着を返そうとするロザンヌに、ラーナサスはとうとう声を荒げた。
「俺がよいと言ったらよいのだ!」
「ラーナサス様……」
「それに! 俺は最初のダンスはロザンヌと、と決めていた! それなのに……」
ロザンヌは赤い染みを作ったメイド服姿を見下ろした。
対するラーナサスは国一番の仕立て屋があつらえた最先端の高級夜会服に身を包んでいる。とてもではないが、釣り合うものではない。
「ロザンヌは、俺と踊るのが嫌か?」
「それは……」
「嫌なら嫌だと言え」
強い眼差しに抗えず、ロザンヌは弱弱しく首を振った。
「嫌なはず、ありません……」
「ならば、わたくしと踊っていただけますか?」
ラーナサスが少し身を屈めて手を差し出す。
ロザンヌは、今日だけ……この一度だけ、と言い聞かせて荒れた手をその手に預けた。
広間から漏れ聞こえる小さな音に合わせて、ふたりは踊りだした。
冬が近いこの時期は庭園に出る者もおらず、ラーナサスとロザンヌは二人だけの時を過ごした。
曲が変わり、二人は足を止めた。だが、ラーナサスはロザンヌの手を放そうとしない。
「あの……ラーナサス様?」
「夜会には、もう戻らぬ。俺は今日やっと気づいた。ロザンヌ、君を俺の妃に迎えたい」
「えっ?」
ロザンヌの心臓は喜びにときめいた。
だが、すぐに脳裏に浮かんだのは領地の両親のことだった。
ロザンヌは静かに首を横に振った。
ラーナサスならば、もっと素敵な貴族の令嬢がふさわしい。そう、クリスティンのように、他を圧倒する存在感と華やかさ、そして家柄を兼ね備えた女性だ。
ロザンヌは、父の願いを聞き入れて領地に戻ることを心に決めていた。
来年の社交シーズンも戻って来るつもりはない。
王都の屋敷は管理をウィリアムに任せ、当分は領地の立て直しに専念しなくてはならない。そして、いずれはどこぞの貴族の次男か三男と見合いをし、家を守らなければ……。
見合いより自分で相手を探すために王都にやって来たラーナサスの求婚を断り、自分は見合いに逃げるなんて、なんて皮肉なことだろう。
ロザンヌはとてもではないがラーナサスの顔を見ることができなかった。
「私は、あなたのお傍にはいられません」
「なぜだ? 俺と一緒にガレージナに行くのは嫌か?」
「私は、家族と領民を見捨てることはできません」
その気持ちは、ラーナサスにも痛いほどわかります。
かつては国のため、国民のため愛のない見合い結婚を受け入れようとしたのだ。
ラーナサスはそっと、ロザンヌを抱きしめた。
うつむいたまま小さく震えるロザンヌを見ているのは辛かった。
* * *
社交シーズンを締めくくる華やかな夜会が終わり、しばらくすると王都にも冬がやって来た。
人々は荷造りを始め、恋人たちはつかの間の別れを惜しんだ。
そしてラーナサスもまた、ガレージナに帰国するための荷造りを終えて慣れ親しんだパウロー家のエントランスへとやって来た。
「それでは、お元気で」
「ああ」
ふたりの間に沈黙が流れる。
後ろに控えるウィリアムとカレンはそんなふたりをじっと見守っている。
「来年の社交シーズンもこちらにいらっしゃるのですか?」
「いや」
「えっ?」
「もう、探す必要はない」
そう言ってロザンヌを見つめる視線は熱い。
ラーナサスはロザンヌへの想いをあきらめるつもりはなかった。
「ロザンヌ。俺はもうロザンヌしかいらない。お前が家族や領民を大切にする気持ちはわかる。だが、お前をあきらめるつもりはない」
ラーナサスはロザンヌの心が揺らぐ言葉を置いて、屋敷を出ていった。
あきらめないとラーナサスは言ったが、ふたりが一緒に過ごせる未来はない。
ラーナサスはこれからもロザンヌの心の中に生き続けるだろう。いつかはこの切ない想いも、よい思い出になる日がくるだろうか。
さきほどまでじっと見つめていた扉が叩かれたのは、ロザンヌがそう思いながら踵を返したときだった。
まさかラーナサスが戻ってきたのだろうか?
訪問者を確認しようと扉に向かったウィリアムを追い越し、ロザンヌは急いで扉を開けた。
だが、そこに立っていたのはヒョロリと背の高い赤毛の男だった。
「あなたは?」
「お手紙をお持ちいたしました」
「まぁ……それはどうもご苦労様」
男は薄っぺらい封筒を渡すと、さっさと出て行った。
封筒の宛名は父親である。よほど急いだのか、少し字が乱れていた。
母の容体がよくないのだろうか? ロザンヌは気が急いてその場でビリビリと破き、便箋を取り出した。
「急ぎの手紙ですか? 奥様のご容体は……」
「妊娠……だそうです」
「えっ? なんとおっしゃいました?」
「私に……弟か妹ができるそうです……だから……想いを通わせた方がいるなら大切にしなさいと……ど、どうしてそんなこと……」
こほんと咳払いが聞こえ、そちらを向くと、荷造り途中であったロザンヌのカバンを持ってウィリアムが立っていた。
「差し出がましいかとは思いましたが、旦那様にお嬢様のご様子をお伝えするものわたくしの仕事ですので」
「はっ? ウィリアム? どういうこと?」
「ラーナサス様より正式に結婚の申し込みを預かりまして、旦那様にお送りいたしました。そのお返事が今届いたようでございます」
「えっ? えっ?」
ウィリアムは無表情でロザンヌにカバンを持たせると、カレンにコートを用意するよう言いつけた。
「ラーナサス様は帰国前に国王陛下への謁見されるそうでございます。その後宮殿の前でガレージナの迎えの者と合流なさると……」
「ウィリアム?」
「お嬢様。わたくしの話を聞いていましたか? 旦那様は、ラーナサス様との婚姻をお認めになったのです。あとはお嬢様がラーナサス様を追うだけなのですよ」
ロザンヌはカバンをぎゅっと握りしめると、外に走り出した。
* * *
数年後、南の国では華やかな結婚披露宴がおこなわれた。
あの日、屋敷を飛び出したロザンヌが向かったのは宮殿ではなく、北の領地だった。
いくら父の許しがあっても、家族の危機からひとり抜け出すことはできなかった。
ロザンヌの行き先を知り、慌てたのはウィリアムだ。
慌ててガレージナに便りを出すと、ラーナサスは怒りも呆れもせず、「ロザンヌらしい」とただ笑うだけだった。
跡継ぎとなる男子が生まれ、ロザンヌは出産で思うように動けない母の代わりに父と共に朝から晩まで働いた。そんなロザンヌを、ラーナサスは陰でそっと援助していた。
だが弟が歩くようになり、少しの言葉を話すようになった頃、とうとうしびれを切らしたラーナサスがロザンヌを迎えにやって来た。
ふたりが離れ離れになって三年が経っていた。
離れても、ふたりの想いは離れることはなかった。
お互いそれを確認すると、ロザンヌはやっとラーナサスの求婚を受け入れたのだ。
この特別な日、ガレージナの王宮の大広間は色とりどりの花で飾られた。
沢山の笑顔の中で、ラーナサスはロザンヌに手を差し出す。
「わたくしと踊っていただけますか?」
「はい!」
ふたりは幸せそうにお互いを見つめあいながら踊りだした。