銀の姫はその双肩に運命をのせて
「……ついていけない」

 ディアナはグリフィンに断って何度も書庫を抜け、適度に休憩し、お茶を飲んだ。書庫の外には厩舎から応援に来た者や、侍女のアネットも待機している。

 朝餉も、続く昼餉もすっかり平らげた。ほかにすることがない。薄暗い書庫の中でグリフィンとふたりで頭を突き合わせ、延々と書物を改めるなんて、真っ平だった。

 けれど。

 資料は持ち出し禁止というし、天馬の手がかりになるかもしれないものを放っておくわけにもいかない。ディアナは意を決して再び書庫に潜り込んだ。
 書庫内の構造はだいたい把握し、覚えた。移動に邪魔なのはわずかな段差よりも、グリフィンが広げた資料。ディアナが書庫に入り直すたびに、床に転がる書物がどんどん増えている。

「グリフィンさま、少しは片づけながら読み漁ったらいかがですか。足の踏み場もありませんよ、もう」

 片づけられない王子、の称号を与えたい。グリフィンの周りは書物の海だった。

「いいや。どれも興味深くて、捨てがたい」
「でも、暗くなってしまったら、どうするのですか。これ」

「ここで寝る」
「あなたの大切な馬たちが、厩舎でお待ちかねですよ」
「おう。それもそうだったな」

「とにかく、あまり重要でない書物は私に渡してください。並んでいた棚に戻しますから。これなんて、どうですか」

 ディアナは手っ取り早く、いちばん手近にあった巻物を指さした。

「待ってくれ、だめだ! それには、馬をより早く走らせる方法が書いてある。まだ書き写していない」
「では、こちらは?」
「それは、いかにして仔馬を母馬から離すかが詳しく書いてあった」
「覚えているならいいじゃないですか」

「いや、だいたい覚えたが、もう一度よく読みたいと思って、そのままにしておいてある」
「あれもだめ、これもだめ。そんなことばかりだと、ほんとうに夜になりますよ」
「全部片づけ終わるまで、一緒にいてくれ、姫さん。たとえ、陽が暮れても」

 グリフィンはディアナに訴えた。説得力に欠けているけれど、自分で片づけなさいとは突き放せなかった。それに、暗くなっても一緒に、とはよろしくない状況だ。

「けっこう、甘えたがりですね。グリフィンさまって。こんな女でも私、結婚前の姫です。真っ暗の書庫でふたりきりって、いくらなんでもちょっと、まずい状況ですよね。端から少しずつ、しまいますので。どうしても気になる資料があったら、声をかけてください」

 はっきり言われて、グリフィンはようやく悟ったらしい。薄暗がりでも認識できるほどに、頬を赤くした。

「……悪い。そんなつもりはなかったけど、誘ったみたいな言い方になってしまった。俺、興奮し過ぎだな。女に全部言わせるなんて、男として最低だ。片づけてくれ。馬のためになる記述はあちこちにあったが、天馬について触れているものは、ひとつもなかった」

 急にしおらしくなってしまったグリフィンに、ディアナは後ろめたい思いをいだいた。

「い、いえ、分かってくだされば、いいんです。あの、私も言い過ぎましたわ、グリフィンさま」

 意識しはじめると、どうにも恥ずかしい。書物を畳むときに触れ合う手が、お互いをますますぎこちなくさせた。

「姫、こっちは俺が」
「いいえ、私が」
「だが、出したのは俺で」
「いいんです。任せてください」

 綱引きのような押し問答を挟み、ふたりは夕陽が差しはじめるころにようやく、書庫の資料をもとに戻す目途がついた。

「ふう。汗をかきましたよ」
「俺もだ」

 結局、昼下がりは休憩もそこそこに、グリフィンが散らかした書物をもとに戻すことで大切な時間を使ってしまった。天馬どころではない。

「今日のところは収穫なし、か。確認できた資料は半分以下、といったところだ。また後日、来るとするか。厩舎で馬たちが俺を待っているから、帰るぜ」
「ええ。私も、くたびれました。さすがに半日も書庫にいたら、頭や体が埃っぽくなってしまいましたよ」
「そうだな。一時休戦」

 グリフィンが棚に寄りかかったとき、ひとつの巻物がころころと床に落ち、紙が広がった。

「やだ、片づけたばっかりなのに」

 急いでディアナは床の巻物を拾い取ろうとした。

「待て。触るな、ディアナっ」

 血相を変えたグリフィンが、至近で叫んだ。思わず、ディアナはびくっと体を震わせた。

「済まない、姫さん。驚かすつもりはなかったんだが、ほら、ここの絵を見てくれ」

 暗さが増す書庫の中。わずかな夕陽を頼りに、どうしたって体を寄せて巻物を見るしかない。ディアナは王子の脇に寄り添うようになりながら、身を乗り出した。

「遠慮するな。そっちからじゃ、棚の陰になってしまうから、暗いだろう」

 ディアナの思いも知らないで、グリフィンはディアナの細い肩をわしづかみにした。抱え込むような姿勢で、巻物に対面する。

「え、遠慮なんかしていませんってば」

 開き直ったディアナは、両手をまわしてグリフィンの脇腹にぎゅっとしがみついた。なにかにつかまっていないと、バランスが危うくて倒れそうだった。
 眩暈にも似たどきどき感が何度も押し寄せ、ディアナを翻弄する。

 おそるおそる、見開いた視線の先には。

 初めて目にした、難解な文字。横に小さく、羽の生えた馬の絵が描き込んであったため、記述の意味がディアナにも分かった程度だ。

「天馬……の、項目がありますね」
「ああ。イジュダルト語だ。読めるか」
「まさか、まったく分かりません」

「じゃあ、読み上げてやる」
「グリフィンさまは判読できるのですか」
「昨日行った宮殿。あの場所では、毎日やることがなかったからな。馬に乗るか、書物を読むかの二択だったから、言語もだいぶ覚えた」

「博学なんですね、王子」
「よせ。読むだけだ。会話はできない。なにせ、この言語を操る種族とは、会ったことがない。イジュダルト地方はこの国からも姫さんの国からも、だいぶ遠い。船で何十日もかかる、向こう側の大陸にあると聞いているが」

 グリフィンは、ゆっくりと唇を動かしはじめた。

「天馬。天を駆ける馬。瑞祥。天馬が駆けた後には、銀脈が走るという……ここまでは、ディアナ姫さんの話と同じだな」
「はい」

「天馬は、天馬として生まれてくるのではない。あらゆる馬に、天馬となる可能性が秘められている。可能性を引き出すのは、銀の一族。銀の血をひく識者が強大な力を持っている。すなわち、識者候補の姫さんは馬のたてがみを見る。天馬にもっとも近いのは、芦毛。ついで、栗毛」
「芦毛?」

 キールの馬・アカツキ、だろうか。ディアナはとっさに思いついた。

「たてがみを見る、ってどういう意味だろう。馬のたてがみ、か。毛そのものか、毛のツヤか」
「明日にでも、アカツキのたてがみを見せてもらいます。芦毛ですし」

 性急なディアナの結論に、グリフィンは吹き出し笑いをした。

「そう簡単に運べばいいがね。第一、この国には銀脈があるかどうかもわからないのに」
「我が隣国にあれだけ眠っていたんですもの。ルフォンと我が国は、地続きですよ。きっとあるはずです」
「おう、威勢だけはいいな」

 巻物は持ち出せないので、グリフィンはかすかな光だけを使って、持参した紙にさらさらと書き写した。言語に詳しいが、絵も上手だ。今にも紙から出てきそうな躍動感たっぷりの天馬が、そこにはいた。

「もとの絵より、天馬っぽいですね」
「そうかな。さ、戻ろう。残りの調査は後日だ」

 わずかに標となるようなものも発見できたし、書庫で一緒に寝るような事態にならなくてほんとうによかった。しかもなんとなく、グリフィンとも距離をつめることができたような気もする。

「いえ、もっと距離をつめたいわけじゃないけど。決して、仲よくなりたいとか、そういう感情はなく。普通よ、これぐらいで普通」
「ディアナ姫さん。ひとりごとも結構だが、そろそろ離れてくれるか。まさか、俺に特別な感情でもあるのかな」

 指摘されるまで、ディアナはグリフィンにくっついたままだった。

「ええっ? ああ、ご、ごめんなさいっ」

 軽率。そう呼ばれても、仕方ない。
 慌てたディアナは床に広げていた巻物を蹴っ飛ばしてひっくり返し、踏んで滑ってしまった。

「ディアナっ!」
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