銀の姫はその双肩に運命をのせて
書棚に頭をぶつける、そう思ったとき、ディアナを守ってくれたのはグリフィンの腕だった。だが、ディアナの重みでグリフィンの体も沈み、棚との激突だけは避けられたものの、ふたりの体は大切な巻物の上に投げ出されてしまった。
「きゃ……あっ」
しかも、倒れ込んだ拍子に、ディアナの唇とグリフィンのそれとが、かすかに触れ合ってしまった。暗がりでのほんの一瞬とはいえ、お互いの顔の角度、位置からしても間違えようがない事実。
はたから見れば、王子がディアナを襲っているようにしか写らないだろう構図。
ふたりの手と足はもつれ合い、絶妙に絡まっていた。昨日の、キールと王太子妃よりもなまめかしいだろう。
ディアナは、自分が今、どんな状況に置かれているのか、理解するまで時間がかかった。先に正気に戻ったのはグリフィンだったが、王子の腕はディアナの体の下にまわされている。床と棚にぶつかるのを防ぐため、腕は犠牲となっていた。
「だいじょうぶか。けがは、ないか。痛いところは」
「は、はい。どうにか」
「ディアナ、体を起こせたら、起こしてほしい。腕が、かなりつらい」
言われて、ディアナは身を上げかけた。
「待て、もっとゆっくり」
グリフィンの注意も空しく、書物はびりびりと音を立てて破れてしまった。ディアナが姿勢を急に起こしたせいで、紙に断裂が入ってしまったようだ。
「うわっ。私、な、なんてことを」
巻物の惨状を照らし出し、夕陽は雲の向こうに消えた。巻物は、途中でふたつに切れていた。残った部分も皺だらけだ。
「どうしよう、グリフィンさま。私、取り返しのつかないことを」
「落ち着け。だいじょうぶだ。俺がやったんだ。『出来心をいだいたグリフィンはディアナに迫り、無体を働こうとしたため、勢いあまって巻物を傷つけた』。ディアナに非はない」
「そんなの、だめです。もとはと言えば、私がうっかりだったから。ごめんなさいっ」
「ディアナは、客人だ。俺はもともと嫌われ者で、王族の数にも入っていない、取るに足らない存在だ。王だって、できればディアナをキールと娶わせたがっている。俺が横恋慕したことにしよう、うん。いい案だ」
「今のは、私の失態です。王さまも、きちんと説明すれば分かってくださるはず」
「失態ではない。俺がディアナを奪うように仕向けた罠だとしたら? 例えば今ここで、再びディアナの唇を強要したとしたら? それはもう、立派な嫌がらせだ」
熱い吐息が顔にかかるほど、グリフィンはディアナの前に迫っていた。
「いやです! 私はグリフィンさまを、城内で孤立させたくありません。私の唇ひとつで王子を救えるなら、どんどん吸ってくださいっ。双方合意の上でなら、嫌がらせでも無体でもありませんね。私はグリフィンさまに、口づけてほしいと思います」
「……お前、自分でどんな危険な発言をしているのか、分かっているのか? とんでもないことを口走っているぞ、ディアナ」
「だいじょうぶです。覚悟しています。私を罰してください。宝の書物を傷つけた罪を、共に背負います」
ディアナの頑なな態度に、グリフィンは苦笑した。
「ただの世間知らずの姫さんかと思ったら、とんだ強情者だな。よし、ふたりの責任ということにして、王に謝ろうか」
「はい」
「俺が報告するまで、絶対誰にも言うなよ。口止め料だ」
今度こそ確実に、グリフィンはディアナの唇を捕らえた。やわらかなあたたかい感触。陶酔する感覚に全身を委ねると、思考回路は格段に鈍くなった。
唇を塞がれたことで、反射的に息を止めていたディアナは苦しくなり、王子の胸を数回たたいた。
「おい、死ぬぞ。不器用なやつだな。息は止めなくていい。鼻で吸え。それか、こうやってだんだんと口をずらして……片方が息を吸い、もう片方も……さあ、これで同罪だ」
頭の片隅ではいけないと考えつつも、ディアナはグリフィンに翻弄されてゆく一方だった。自分から言い出したのだ、こうしてほしい、と。罪をひとりで着てほしくない、と。城で寂しくなってほしくない、と。
こんな気持ちは初めてだった。もっと一緒にいたい。もっと、この人のことを知りたい。
ふたりは息を弾ませながら唇の味を堪能していたけれど、外から従者の声が聞こえはじめた。
「王子、グリフィン王子ーっ」
「ディアナさまっ」
「日が暮れました」
「退出の、ご用意を」
どうやら、ふたりを呼んでいるらしい。暗くなっても、書庫から一向に出てこないので、なにか起こったのではないかと警戒しているのだ。かといって、王の許しがなければ、書庫の中には入れない。従者としては、もどかしいはずだった。
「いいところで邪魔が入ったな」
「……いいところって、どこでしょうか」
「一応、邪魔されたということにしておけ」
王子は身づくろいをして、立ち上がった。手にはぼろぼろになった巻物。ディアナも続く。
「今の要領で、キールにも授けてやってくれ。治療だからな。コツは、覚えたな」
「ち、治療って!」
「治療がどういうものか知らなかったから、怖気づいていたんだろ。俺と実地で体験したし、もうだいじょうぶだな」
「じじじ、実地。今のは、治療の実習ですか」
「ああ。それ以外に、なにがある」
「そんな! 私、初めてだったのに。初めてが、実験だなんて」
しかも、気持ちが大きく揺らいだというのに。
「こういうふうに取り乱さないように、本番ではがんばれよ。まあ、キールのほうがよく馴れているし、上手いかな。それとも、ディアナは今ので俺にうっとりしたのか」
「ちょ……っと、からかうのもいい加減にして! それに、巻物を持ち出してどうするのですかっ」
「直すんだよ。修復師に依頼して」
王子は巻物を袖の中に入れて隠した。
「ってそれ、持ち出し禁止の資料でしょ。勝手に動かしたら、どんなお咎めを受けるか」
「もう一度口止めしようか、ディアナ?」
ディアナはぶんぶんと、首を横に振った。甘々な気持ちに取り込まれたら、どんなことになるか自分でも予想できない。
「これは複製だとかなんとか説明して、うまくやるさ。ディアナは忘れてくれていい。それより後日、『たてがみを見る』の件を解決したいから、また厩舎に来てくれないか」
「……はい。それは、了解です」
「よし。じゃあ帰ろう。暗いから、ゆっくり進むぞ」
行きと同じように、グリフィンはディアナの手をつないで、書庫の扉まで案内した。
ディアナに負担をかけないように、はぐらかしたと思えば平気で唇を奪ったり、やさしくすると見せかけて毒を吐いたり、まったく本心が分からない。
けれど、離れてしまうのは、胸が痛んで少し切ない。
「夕餉に遅れないようにな、ディアナ。服に、書庫の匂いが染みついている。着替えたほうがいい」
「グリフィン……こそ」
「俺は馬の世話があるから、今晩は欠席する」
「ええ? おなか、空きますよ」
「だいじょうぶ。厩舎の連中と、軽く飲むから。また明日な。ああ、明日はキールとおデートか」
「飲むって、ちゃんと食べてください。細いのに」
「自分の体のことは自分でよく分かっている。第一、太ったら馬に乗れなくなるだろう。それに」
「それに?」
「極上のご馳走を、いただいた。今宵は、胸がいっぱいでなにも食べられそうにありませんよ、ディアナ姫さま。威勢のいい姫も、おもしろかった」
ほほ笑みながら、グリフィンは自分の唇をにやにやしながら指でなぞった。記憶が、よみがえる。
「お……、王子っ!」
「じゃあな。おやすみ」
「グリフィンの、バカっ」
「おやおや。ディアナ姫さまともあろう高貴なお方が、そんな下々の放つようなことばをお口にするのは、よしなさい」
「って、全部あなたが言わせているのに!」
すっかり、グリフィンのペースだった。
「きゃ……あっ」
しかも、倒れ込んだ拍子に、ディアナの唇とグリフィンのそれとが、かすかに触れ合ってしまった。暗がりでのほんの一瞬とはいえ、お互いの顔の角度、位置からしても間違えようがない事実。
はたから見れば、王子がディアナを襲っているようにしか写らないだろう構図。
ふたりの手と足はもつれ合い、絶妙に絡まっていた。昨日の、キールと王太子妃よりもなまめかしいだろう。
ディアナは、自分が今、どんな状況に置かれているのか、理解するまで時間がかかった。先に正気に戻ったのはグリフィンだったが、王子の腕はディアナの体の下にまわされている。床と棚にぶつかるのを防ぐため、腕は犠牲となっていた。
「だいじょうぶか。けがは、ないか。痛いところは」
「は、はい。どうにか」
「ディアナ、体を起こせたら、起こしてほしい。腕が、かなりつらい」
言われて、ディアナは身を上げかけた。
「待て、もっとゆっくり」
グリフィンの注意も空しく、書物はびりびりと音を立てて破れてしまった。ディアナが姿勢を急に起こしたせいで、紙に断裂が入ってしまったようだ。
「うわっ。私、な、なんてことを」
巻物の惨状を照らし出し、夕陽は雲の向こうに消えた。巻物は、途中でふたつに切れていた。残った部分も皺だらけだ。
「どうしよう、グリフィンさま。私、取り返しのつかないことを」
「落ち着け。だいじょうぶだ。俺がやったんだ。『出来心をいだいたグリフィンはディアナに迫り、無体を働こうとしたため、勢いあまって巻物を傷つけた』。ディアナに非はない」
「そんなの、だめです。もとはと言えば、私がうっかりだったから。ごめんなさいっ」
「ディアナは、客人だ。俺はもともと嫌われ者で、王族の数にも入っていない、取るに足らない存在だ。王だって、できればディアナをキールと娶わせたがっている。俺が横恋慕したことにしよう、うん。いい案だ」
「今のは、私の失態です。王さまも、きちんと説明すれば分かってくださるはず」
「失態ではない。俺がディアナを奪うように仕向けた罠だとしたら? 例えば今ここで、再びディアナの唇を強要したとしたら? それはもう、立派な嫌がらせだ」
熱い吐息が顔にかかるほど、グリフィンはディアナの前に迫っていた。
「いやです! 私はグリフィンさまを、城内で孤立させたくありません。私の唇ひとつで王子を救えるなら、どんどん吸ってくださいっ。双方合意の上でなら、嫌がらせでも無体でもありませんね。私はグリフィンさまに、口づけてほしいと思います」
「……お前、自分でどんな危険な発言をしているのか、分かっているのか? とんでもないことを口走っているぞ、ディアナ」
「だいじょうぶです。覚悟しています。私を罰してください。宝の書物を傷つけた罪を、共に背負います」
ディアナの頑なな態度に、グリフィンは苦笑した。
「ただの世間知らずの姫さんかと思ったら、とんだ強情者だな。よし、ふたりの責任ということにして、王に謝ろうか」
「はい」
「俺が報告するまで、絶対誰にも言うなよ。口止め料だ」
今度こそ確実に、グリフィンはディアナの唇を捕らえた。やわらかなあたたかい感触。陶酔する感覚に全身を委ねると、思考回路は格段に鈍くなった。
唇を塞がれたことで、反射的に息を止めていたディアナは苦しくなり、王子の胸を数回たたいた。
「おい、死ぬぞ。不器用なやつだな。息は止めなくていい。鼻で吸え。それか、こうやってだんだんと口をずらして……片方が息を吸い、もう片方も……さあ、これで同罪だ」
頭の片隅ではいけないと考えつつも、ディアナはグリフィンに翻弄されてゆく一方だった。自分から言い出したのだ、こうしてほしい、と。罪をひとりで着てほしくない、と。城で寂しくなってほしくない、と。
こんな気持ちは初めてだった。もっと一緒にいたい。もっと、この人のことを知りたい。
ふたりは息を弾ませながら唇の味を堪能していたけれど、外から従者の声が聞こえはじめた。
「王子、グリフィン王子ーっ」
「ディアナさまっ」
「日が暮れました」
「退出の、ご用意を」
どうやら、ふたりを呼んでいるらしい。暗くなっても、書庫から一向に出てこないので、なにか起こったのではないかと警戒しているのだ。かといって、王の許しがなければ、書庫の中には入れない。従者としては、もどかしいはずだった。
「いいところで邪魔が入ったな」
「……いいところって、どこでしょうか」
「一応、邪魔されたということにしておけ」
王子は身づくろいをして、立ち上がった。手にはぼろぼろになった巻物。ディアナも続く。
「今の要領で、キールにも授けてやってくれ。治療だからな。コツは、覚えたな」
「ち、治療って!」
「治療がどういうものか知らなかったから、怖気づいていたんだろ。俺と実地で体験したし、もうだいじょうぶだな」
「じじじ、実地。今のは、治療の実習ですか」
「ああ。それ以外に、なにがある」
「そんな! 私、初めてだったのに。初めてが、実験だなんて」
しかも、気持ちが大きく揺らいだというのに。
「こういうふうに取り乱さないように、本番ではがんばれよ。まあ、キールのほうがよく馴れているし、上手いかな。それとも、ディアナは今ので俺にうっとりしたのか」
「ちょ……っと、からかうのもいい加減にして! それに、巻物を持ち出してどうするのですかっ」
「直すんだよ。修復師に依頼して」
王子は巻物を袖の中に入れて隠した。
「ってそれ、持ち出し禁止の資料でしょ。勝手に動かしたら、どんなお咎めを受けるか」
「もう一度口止めしようか、ディアナ?」
ディアナはぶんぶんと、首を横に振った。甘々な気持ちに取り込まれたら、どんなことになるか自分でも予想できない。
「これは複製だとかなんとか説明して、うまくやるさ。ディアナは忘れてくれていい。それより後日、『たてがみを見る』の件を解決したいから、また厩舎に来てくれないか」
「……はい。それは、了解です」
「よし。じゃあ帰ろう。暗いから、ゆっくり進むぞ」
行きと同じように、グリフィンはディアナの手をつないで、書庫の扉まで案内した。
ディアナに負担をかけないように、はぐらかしたと思えば平気で唇を奪ったり、やさしくすると見せかけて毒を吐いたり、まったく本心が分からない。
けれど、離れてしまうのは、胸が痛んで少し切ない。
「夕餉に遅れないようにな、ディアナ。服に、書庫の匂いが染みついている。着替えたほうがいい」
「グリフィン……こそ」
「俺は馬の世話があるから、今晩は欠席する」
「ええ? おなか、空きますよ」
「だいじょうぶ。厩舎の連中と、軽く飲むから。また明日な。ああ、明日はキールとおデートか」
「飲むって、ちゃんと食べてください。細いのに」
「自分の体のことは自分でよく分かっている。第一、太ったら馬に乗れなくなるだろう。それに」
「それに?」
「極上のご馳走を、いただいた。今宵は、胸がいっぱいでなにも食べられそうにありませんよ、ディアナ姫さま。威勢のいい姫も、おもしろかった」
ほほ笑みながら、グリフィンは自分の唇をにやにやしながら指でなぞった。記憶が、よみがえる。
「お……、王子っ!」
「じゃあな。おやすみ」
「グリフィンの、バカっ」
「おやおや。ディアナ姫さまともあろう高貴なお方が、そんな下々の放つようなことばをお口にするのは、よしなさい」
「って、全部あなたが言わせているのに!」
すっかり、グリフィンのペースだった。