悪の華は恋を廻る
「ルーチェ! ……ルーチェ! ダメだ! 行かないで!!」

 手を伸ばして飛び起きたアーロンの右手は、そのまま空を掴んだ。
 誰もいない薄暗い部屋の中、アーロンの荒い息遣いだけが聞こえる。
 グッと拳を握り、頬を流れる汗をぬぐった。

「ハァ……ハァ……」

 初冬だというのに、アーロンの全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
彼の性格を表すかのような明るい金髪も、今は汗で額に張り付いている。それを乱暴に払いのけると、グッと握りしめたままだった手のひらを開いてぼんやりと見つめた。
 手は冷たく、かすかに震えている。

「……また、間に合わなかった……」

 かすれた声を絞り出し、アーロンはそのまま力なくベッドに倒れ込む。
 カーテンから漏れる光はまだ早朝のそれで、使用人が起こしに来る時間までだいぶあるようだった。

(このまま起きても寝覚めが悪いな……)

 そう思って目を閉じるが、瞼の裏にはもう会うことのできない、愛しい恋人の姿がチラつくばかりだ。
 それでもいい。
 現実世界は、君に会えないという事実をアーロンに突き付ける。それならば、どんな形であっても君に会いたい……いつか、僕の差し出す手が間に合うかもしれない。そんな淡い想いを胸に、アーロンは再び浅い眠りに落ちた。


 いつもより遅く起きたアーロンは、朝食を持ってやって来た執事に湯浴みを勧められた。

「朝からかい?」
「今日は果樹園への視察の予定が入っております。一日冷えるようですし、お風邪を召しては大変です」

 明け方かいた汗にしっとりとした寝間着は肌を冷やし、気持ち悪ささえ感じる。アーロンは、執事の申し出を有難く受けることにした。
 既に温かな湯が用意されているところを見ると、明け方の出来事を執事は知っているのだろう。
 それでもなにも言わない執事の態度はとてもありがたかった。


 湯浴みを終えると、執事が来客を告げた。

「今日は来客の予定はあったかな」
「いえ……。ございませんが、ゾフィ様が……」

 その名前を聞いて、アーロンの口角が少し上がる。
 それはほんの些細な変化だったが、そんなアーロンの様子に執事はわずかに目を見開いた。

「いかがいたしましょう……。サロンにお通ししておりますけれども……」
「視察まではまだ時間があるのだろう?」
「はい。お茶を一杯お飲みになる程度は……」
「そうか、では、姫を待たせてはいけないな。行こう」

 サロンへと向かうアーロンの足取りは軽やかだ。その様子は、湯浴みに向かう時に比べると明らかに違っていた。
 アーロンに続いて後ろを歩きながら、執事はアーロンの変化を嬉しく思っていた。
 過去に捕らわれ、ふさぎ込んでいたアーロンが、このところ明るい表情を見せるようになっていた。
 サロンで待つ少女の存在が、大きく影響していることは間違いない。
 いつか、悪夢にうなされることもなくなればいいのだが……執事は心の中でそう願った。

「おはようございます。アーロン様ったらお寝坊さんですわね」
「ゾフィ嬢、お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ。美味しい紅茶をいただきながら、お庭を眺めておりましたの。ここの庭園は本当に素晴らしいですわね」

 そう言いながら庭に目をやるゾフィの隣に、アーロンが自然と近づく。

「それは良かった。春には色とりどりの花が咲きます。そうだ。その頃、庭園にテーブルを用意してお茶会をしましょうか」
「まあ、それは楽しみですわ」

 ゾフィが嬉しそうに手を合わせて声を弾ませる。アーロンはそれにつられたように笑みを返した。

「ところで、今日はどのようなご用でお越しになったのですか?」
「ええ。この辺りを少し案内していただきたくて」

 目鼻立ちがハッキリし、燃えるような赤い髪を持つゾフィ・アンベールはにっこりと微笑んだ。

「それは構いませんが……休んでいなくて良いのですか?」
「えっ? ええ! 今日はとても気分が良いのです」

 ブランシャール伯爵家の嫡男であるアーロン・ブランシャールは、苦笑しながらゾフィに紅茶を勧めた。

 * * *

 ラーニアス王国の辺境にある、ブランシャール家の領地セラーノに、ゾフィ・アンベールがやって来たのは少し前のことだ。
 ラーニアスの同盟国である、遠方の小国オルガディアの貴族の娘というゾフィは体が弱く、療養地としてセラーノを選んだのだと言う。
 連絡もなく現れた他国の貴族令嬢に驚きはしたが、同行したジョルジュという執事は大変優秀で、オルガディア国そしてラーニアス国、両国王からの文書を持っていた。
 オルガディアは一年のほとんどを雪に覆われる寒い国と記憶している。穏やかな気候のラーニアスに比べれば、日々の生活も大変だろうと想像できた。

「ここは緑が多く空気がとても良いでしょう? ですから体調もだいぶ良くなりましたのよ」

 ゾフィの言う通り、色白ではあるがその顔には血色が戻っている。めったに手袋を外さないことが気になったが、病気の後遺症で手がとても敏感なのだと言う。だが、それ以外はとても調子が良さそうに見えた。これなら、少し馬に乗っても大丈夫だろう。

「わかりました。では、当主代理として、領地をご案内いたしましょう」
「嬉しい! お願い致しますわ」

 父であるブランシャール伯爵は、王都での仕事が忙しく、長く領地を留守にしている。その間、領地のことはアーロンに任されていたため、アーロンは執事を呼んだ。

「本日のご予定は、果樹園の視察以外はございません」
「う~ん、そうか……。では、一緒にまいりませんか? 見回りついでで申し訳ありませんが、その後領地内を少し回りますので、ご案内もできますよ」

 アーロンは申し訳なさそうに言うが、ゾフィはそれに飛びついた。

「ええ! 是非ご一緒させていただきますわ!」

 見回りだろうがなんだろうが、ゾフィにとって、アーロンと一緒に出掛けるならば理由はなんでも良かった。
 ブランシャール家の馬を借りて向かった場所は果樹園と呼ぶには寂しいもので、腰の曲がった初老の男がたったひとりで収穫作業をしていた。

「果樹……園?」

 あまりにみすぼらしいその情景に、思わず問いかけると、それが通じたのだろう。アーロンが苦笑した。

「ええ。ここ数年天候に恵まれず……小作人も、領地を離れ、外で仕事をする者が増えているんです」

 粗末な獣除けの柵を開けて中に入ると、アーロンが男に声をかけた。

「アルバン!」

 アルバンと呼ばれた男は、アーロンとゾフィに気づくと、作業を中断して小走りでやって来た。ふたりの前にやって来ると、帽子を脱いで、深々と頭を下げる。

「これはこれは若さま……ええと……」
「こちらは、オルガディア王国アンベール侯爵家のご令嬢、ゾフィ・アンベール嬢だ。丘の上の洋館に療養のため、滞在中なんだ」
「は、はぁ……。侯爵様で……。あれ? ですが若さま。あの丘の上の洋館はとてもじゃねえが、住める状態じゃねえです」
「え? 何を言って――」
「ゾフィ・アンベールですわ。ここセラーノは良いところですわね。私、すっかり気に入りましたわ」

 アーロンの言葉を遮ると、ゾフィは一歩進み出てアーロンに見えないようこっそりと手袋を外し、アルバンの手を両手で握った。

「いけません……! 俺の手は土に汚れて……」

 貴族のご令嬢に手を取られ、アルバンは驚いてその手を抜こうとした。
 だが、次の瞬間カッと目を見開くと、その瞳はとろりと蕩けた。

「丘の、洋館に……さようでございますか。なにか、ご不便なことがありましたら、このアルバンにお申し付けくだせえ」
「まあ、ありがとう。アルバン」

 にっこりと笑うと、ゾフィはすぐに手袋をし、アーロンに向き合う。

「住める状況ではないとは……なにかご不便でも?」

 ゾフィたちが引っ越してすぐに、他国の貴族を領地で預かることになったブランシャール伯爵家の当主代行として、アーロンは洋館を訪ねていた。
 年季が入ってはいるが、由緒ある建物は手入れが行き届いており、その時は特に不便を感じなかった。

「いいえ、なにも問題はありませんわ。古いですが、とても快適なよいお屋敷ですわ」
「そうですか……。なにかありましたらすぐにご連絡を。このアルバンも、大工の心得がございますから」
「へえ! お任せを! お嬢様のためでしたら、このアルバン、なんでもいたします!」
「ア、アルバン?」

 張り切って胸を叩くアルバンを見て、アーロンは驚いた。
 アルバンは口下手で引っ込み思案な性格だ。このように初対面の人の前で自己主張するタイプではない。
 まるで人が変わったように饒舌に話すアルバンの、このような姿を見るのは初めてだった。

「ところでアルバン。収穫の方はどうだい」
「へ、へえ……。この有様で」

 アルバンの足元にならぶカゴの中には、小ぶりなリンゴが入っている。
 いずれも形は悪く色もまだらで、とてもではないが、そのまま売れるような代物ではなかった。

「――そうか……」
「へえ……。リンゴ酒ならなんとか作れるかと……」

 ゾフィもアーロンにならってカゴを覗き込むと、続いて果樹園を見渡した。
 細く痩せこけた木々は葉も満足についていない。木そのものが栄養不足である証拠だ。これでは、果実が実ってもまともな物は望めない。
 話し込むふたりをよそにゾフィはその場を離れると、一本の木に近づいて、そっと幹に素手で触れた。
 表面は乾き、ゾフィの柔らかな手にゴツゴツとした感触を伝える。
 かろうじて命を保っている――そんな印象を受けた。

(これは……土のせい?)

 その場でしゃがみ込み、汚れることを気にもせず根本の土に触れる。すると、軽く触っただけで土はボロボロと細かく崩れた。こんなに乾いていては、木々に栄養が行き渡るはずがない。
 ゾフィは手のひらをしっかりと地面に当てると、目を閉じた。
 魔力が手のひらに集まるのを感じる。

(まだよ。もっと……もっと)

 じんわりと手のひら全体に魔力が行き渡ると、ゾフィはそれらを土へと流し込んだ。
 ゾフィの目の前で乾いた土は徐々に色を変え、乾いてボロボロになっていた土はしっとりとした感触になった。それと同時に、木々もグングンと土から栄養を吸い込むのを感じた。

(ま。こんなモンかしら)

 ゾフィは立ち上がると、手の土を払った。
 こっそりと魔法を使ったことで心臓が高鳴っている。
 バレてはいけない。でも、アーロンの役に立てるかもしれないと考えると、嬉しくて興奮を抑えることが難しかった。
 これから収穫するのだろうか。数個、形が悪くて見るからにみすぼらしい果実をつけた小さな木が残っている。
 ゾフィはそちらにも近寄り、先ほどと同じように木の幹に触れた。すると、ざわり。と木が中でなにかがうごめいたのが分かった。カサカサだった葉は青々と色づき、果実は赤く、丸くなった。その重みで痩せた細い枝がしなる。

「美味しそうな、真っ赤な果実……」

 ゾフィが思わずそう呟くと、アルバンがその様子に気づき、目の前の光景に目を見張った。

「あんれまあ!」
「アルバン。良い木があるではないか」
「いや、若さま。こいつは一番ちっこい木でして……おや、どうしたことか……まあなんと!」

 急いで木に駆け寄るアルバンの足跡が、しっかりと地面につく。
 当のアルバンはその変化に気が付いていないようだったが、ゾフィの魔力が果樹園の土全体に行き渡ったようだ。
 やって来たアルバンは、口をあんぐり開けて赤い実をつけた木を見上げている。

(……やりすぎたかしら?)

 こっそりと手袋をはめると、ゾフィは赤い実をひとつ手にした。
 カゴの中に入っている不揃いの果実と違い、それは真っ赤に色づき艶やかな輝きを放っている。
 顔を近づけると、それだけで甘い蜜の香りがした。

「これ、ひとついただいてもよろしいかしら?」
「も、勿論でごぜえます! 若さま! これでしたら市場に持って行けます!」
「そうか。それは良かった」

 嬉々として収穫作業に戻ったアルバンを見て、アーロンは胸をなでおろす。
 そんなアーロンを眺め、ゾフィは真っ赤なリンゴを手でもてあそびながら、クスリと微笑んだ。
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