悪の華は恋を廻る
視察という名のアーロンとのデートを終え、上機嫌で丘の上の洋館に戻ったゾフィを迎えたのは、見事な毛並みのグレーの大きな狼だった。
それはゾフィの気配を感じて、洋館の後ろにある森からのそりと現れると、険しい顔でゾフィを見る。
普通の人間が見たらそれだけで震えあがりそうな光景だが、ゾフィはチラリと見ただけで顔色ひとつ変えなかった。
「あら、ダミアン。その姿で麓に降りてはダメよ」
『なら、せめて人型に戻せ!!』
ダミアンはガウガウと唸るが、ゾフィは煩そうに手を振ると、玄関に向かった。
「人型にしたら、あなた逃げるじゃない」
『逃げるんじゃない! 帰るんだ!』
「いやだぁ~。まさかダミアンって、マザコン?」
『ちっがう!』
まったく、人間界に来てからというもの、この狼はガウガウと煩くて仕方がない。
人型のままでは、異界の門が開かれたそのタイミングで魔界に戻ってしまうと、ジョルジュの魔法でダミアンは豹から変化できないようにされてしまった。
獣人族のダミアンは、自由にその姿を他の生き物に変えることができる。そんな中でも、ダミアンの基本形態はグレーの大きな狼だった。狼になると、五感が研ぎ澄まされ、飛ぶように速く走ることができるが、この姿では異界の門を通れないのだという。さすがはジョルジュ、物知りだ。
だが厄介なことに、帰れないとしったその日以来、ダミアンはゾフィを見るとこうして文句を言ってくる。
この術をかけたのはジョルジュだ。そのジョルジュの主人であるゾフィに、こんな風に乱暴な口を利くのはいかがなものかと思う。だが、ジョルジュの主人とはいえ、ゾフィは落ちこぼれ魔女として疎まれていた存在だ。彼のように、馬鹿にしているともとれる態度の者は他にもいたため、ゾフィも慣れたものだった。
「大体、そういうのは術をかけたジョルジュに言いなさいよ」
『あいつはお前の専属執事だろう! お前から頼んでくれよ!』
「嫌よ。だってダミアン、魔界に戻ったら私たちの居場所をお兄様あたりに告げ口するでしょう」
『――し、しない!』
ダミアンの耳がぴょこんと動く。
まったく、嘘をつくのが下手な狼だ――ゾフィはため息をつくと、玄関のドアへと向かった。
「嘘ね。なら、やっぱり帰すわけにはいかないわ」
『ちょ、ちょっと待て! 嘘じゃねえ!』
ぴょこん、ぴょこん、とふさふさの耳が動く。ダミアンは、嘘をつくと自分の耳が動くことに気が付いていないのだろうか?
内心呆れながらドアノッカーに手を伸ばす。
獅子があしらわれたドアノッカーは重厚なデザインで、歴史ある大きな洋館にふさわしいものだ。
聞けば、この獅子には魔除けとしての意味があるのだという。そんな魔除けの獅子に守られた建物に、今は魔族が住んでいるというのは皮肉なものだ。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
ドアはノックするまでもなく、内側から開けられた。
開けたのは噂の専属執事、ジョルジュだ。
吸血族の中でも高位の貴族にあたる名家出身のジョルジュは強い魔力を有し、あらゆる魔法も自在に使うことができる。
家出はゾフィがひとりで企んだことではあるが、人間界の国王に書類を書かせたり、この洋館を用意したのはジョルジュだ。
(私の家出計画、随分前から知っていたみたいだったけど……いつから知ってたのかしら?)
出し抜けなかったことは悔しいが、今ではジョルジュが一緒にいてくれて良かったと思っている。
魔界を抜け出し、人間界に来ることを計画したものの、その先に関してはまったくと言っていいほど考えていなかったのだ。
だが、ジョルジュは魔法が使えるだけでなく、料理や掃除も得意だということが分かった。
毎日綺麗に屋敷を隅々まで掃除し、そして美味しい料理を作る。
まったく、有能な執事である。
「ジョルジュ。これ、アーロンの果樹園からもらってきたの。甘い香りがするんだけれど、どうやって食べるものなのかしら。知ってる?」
「これは……リンゴでございますね。ええ、存じ上げておりますよ。デザートのケーキに使用いたしましょう」
リンゴ……そうだ。確か、果樹園にいた小作人のアルバンもそんなことを言っていた気がする。
すると、ゾフィからリンゴを受け取ったジョルジュが眉をひそめた。
「――このリンゴから、お嬢様の魔力を感じます」
「え? な、なんのことかしら?」
「果実の蜜の香りに混じって……お嬢様の甘く濃密で、とろけるような香りがいたします」
誤魔化そうとしたゾフィの目の前で、ジョルジュはリンゴに鼻を擦り付けんばかりに近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎはじめた。
「人間のために……魔力をお使いになりましたね?」
リンゴに顔を近づけたまま、視線だけをゾフィに寄越す。
その咎めるような眼差しに耐えられず、ゾフィはプイと視線を外した。ここまで見透かされては誤魔化しようがない。ゾフィは諦めたように小さく嘆息した。
「……ほんのちょっとよ。本っ当~に、少しだけ」
「気づかれませんでしたか?」
「もちろんよ! やっとここまで来たのに、そんなヘマするわけないわ!」
「安心いたしました」
てっきり怒られると思っていたゾフィは拍子抜けした。
ジョルジュはゾフィが生まれた時から、専属の執事として最も長く、誰よりも近くで仕えてくれている。その時から、ジョルジュはゾフィの一番の理解者だった。
人間界に行きたいと初めから相談したら良かったのかもしれない。さすがに反対されると思ったのだが、思えばジョルジュはゾフィがどんなに失敗しても決して見捨てることはなかったのだから。
だけど……。
(こういうのを見るとちょっとねぇ……)
視線の先で、ジョルジュはゾフィの魔力がこもったリンゴに頬ずりしていた。
見なかったことにして、ゾフィは自室に向かうことにした。
果樹園があった場所への遠出は、アーロンの案内もあり快適だったが、空気がとても乾燥しており、ドレスの中がざりざりする。
『おい。どこに行く』
「わ。びっくりした。まだいたの。番犬は外よ」
『俺は犬じゃねえ!』
ダミアンがまたもやガルルルとうなった。
「じゃあ……番狼? 言いづらいわね」
『そうじゃねえ! 早くあの執事に、術を解くよう言ってくれ!』
「う~ん……」
仕方がない。こうもガウガウ煩くては敵わない。ゾフィはジョルジュに術を解くよう掛け合うことにした。
「ねえジョルジュ。ダミアンの術を解いてくれない?」
「なぜです? 解いてしまってはすぐに魔界に戻ってしまいますよ」
「そうだけど……ずっとこのままというわけにもいかないでしょ?」
ジョルジュがダミアンを面倒くさそうに見下ろした。その視線は、「別にこのままでもいいでしょう」と言っているようでダミアンは背筋が寒くなり、尻尾がくるんと足の間に入り込んでしまった。
「お嬢様。魔界側から人間界への干渉は、異界の門が開いている時です。それはご存じですね?」
「ええ。勿論よ。人間界は天界と魔界の中間世界。人間は寿命が短く、非力で魔力を持たない。少しの衝撃で簡単に死んでしまうわ。そんな人間が中間世界にあるのは、天界と魔界がお互いに干渉しないため。でしょ?」
「さすがでございます。ですが、魔界・天界・人間界はまったく関わらないわけにはいきません。それが人間の生と死です」
人間の生は天界が。
人間の死は魔界が。
その時だけ、異界の門は開かれる。
天界と魔界が人間界に干渉するのは門が開かれている間だけなのだ。
それは死神として死者の魂の回収をおこなっていた兄、バシルの手伝いをしていたから知っている。
「ええ。知っているわ。でも、どうして今その話をするの?」
「お嬢様が魔界の城から消えたことは、既に知られているでしょう。ですが、異界の門が閉じている間は魔界からも干渉ができないのですよ。それに、異界の門が開いている時間は限られている。簡単に探ることは難しいでしょう。要するに、この駄犬を大人しくさせることができれば、見つからずに人間界に住み続けられるのです」
「な、なるほど!!」
さすがジョルジュだ。そこまで考えていたとはもはや感心するしかない。
「じゃあ、このままペットにしようかしら」
『かんっべんしてくれ!!』
まさか、真面目に門番の仕事に戻ろうとしたことがこんな展開になるとは……ダミアンは項垂れた。
今の会話から、とてもではないが術を解いてもらえると前向きに考えることはできない。
このまま諦めて狼の姿のまま人間界で暮らすことになるのか……。そう諦めかけた時、意外な言葉を発したのはゾフィだった。
「そうだわ! ダミアン、私の使い魔になりなさい」
『はあ?』
「――私は賛成できませんね……」
珍しくジョルジュが反対したが、ゾフィはそれが一番いい考えのような気がした。
狼の姿のままガウガウうるさくつきまとわれても困る。それに、魔界からの干渉ができない状況で、居場所を知るダミアンを帰すわけにもいかない。
ならば、ゾフィの使い魔としてダミアンと正式に契約し、ゾフィに逆らわないように、契約で縛りつけるのが良いのではないだろうか。
『お前……なに考えてる?』
「え? 我ながらいい思い付きだなって。だって考えてみて? もし、ダミアンがこの場で私たちの居場所を言わないと約束して魔界に帰ったところで、将来の出世って望めるかしら?」
ダミアンが何か言いかけて、そのままグヌヌと黙り込む。
どうやら反論できないようだ。
「一緒に消えた時点で、私の家出に加担したと思われてもおかしくないわよね? しかも、その日の門番はダミアン。加担どころか、主犯だと思われているかもしれないわ。たまたま出くわした私とジョルジュが巻き込まれてしまったわけよ。ねぇ。そんなあなたが魔界で出世コースに戻れるかしら?」
考えれば考えるほど、いいアイデアのような気がする。
ゾフィのテンションは一気に高くなった。そんなゾフィの様子に、なんとか使い魔計画を阻止したかったジョルジュも折れた。
「――仕方ありませんね」
「やったあ! 良かったわね。ダミアン!」
『良くねえよ! 俺は承諾してねえ!』
ガウガウ文句を言ったところで、もうゾフィは聞いていない。
あっという間に術を解かれ、人型に戻ったダミアンは、抵抗らしい抵抗もできないまま、今度は拘束の術をかけられてしまった。
「本当に、契約を交わされるのですか?」
「本気よ」
動けないダミアンは、そんなやり取りを聞いていることしかできなかった。
ジョルジュに乱暴にイスに座らされても、ダミアンは恨み言のひとつも口から出すことができない。
使い魔の契約は、絶大な魔力が必要で、過去には死人も出たことから、禁術となった魔術だ。だが、その禁術を使うとゾフィは事もなげに言ってのける。
まさか、落ちこぼれと言われ冷遇されているゾフィに、その力があるとは思えない。
だが、異界の門でダミアンを片手で制したゾフィの力が本物ならば……? これから一体自分がどうなるのか――抗議するように睨み付けたダミアンの目の前に、ゾフィが立った。
「ダミアン・ラクロ。汝を、我が使い魔とする。我に仕え、我のためにその生を全うせよ」
ゾフィは手袋を外した手でダミアンの両頬をはさみこむと、そっと顔を近づけた。
(な、何だ――? これは……)
ゾフィが触れる頬が熱い。そこから感じる魔力に、すぐにダミアンの目から、剣呑とした光が消えた。
呆けた表情で見上げる先で、ゾフィが微笑む。
その妖艶ともいえる微笑みに、ダミアンの胸が熱く高鳴った。もはやダミアンには、ゾフィを見つめることしかできない。視線を外すことも考えられないほど、ダミアンはゾフィの挙動に魅入っていた。
さらにゾフィの顔が近づき、彼女の吐息を瞼に感じたと思った次の瞬間、ふたりの唇が重なった。
ゾフィの唇は柔らかく、温かく、そして甘い。
ゾフィの唇がダミアンの唇の上をゆっくりと動くと、あまりの気持ちよさにダミアンが口を開く。すると、そこから熱く、濃密な魔力がとろりとダミアンに注ぎ込まれた。それはとろけるように甘美で、とても美味で、ダミアンの舌を捉える。
魅力に抗えずそれを嚥下すると、その熱は一瞬でダミアンの全身に広がった。
そっと唇を離したゾフィを、ダミアンはとろけた視線で見上げている。
「今日からあなたは私の使い魔よ」
「…………」
「……おかしいわね。ジョルジュ、拘束の術は本当に解いた?」
「ええ。勿論でございます」
ダミアンは体の中を駆け巡り甘い熱に翻弄され、ただただ離れて行くゾフィの顔をぼんやりと見つめていた。
ジョルジュは、そんなダミアンを冷めた目で見下ろしている。
ダミアンはその視線に気づくことなく、遠ざかるゾフィの背中を見つめていた。
階段をのぼるゾフィの背中に波打つ豊かな赤い髪が、身体の動きに合わせて揺れる。ダミアンの目はまるで催眠術にかかったかのように、同じく左右に揺れた。
「美味だろう、お嬢様の魔力は。狂おしいほどに、甘く、熱い……。こうなることは本意ではなかったが……せいぜい、お嬢様のお役に立つのだな」
ジョルジュの言葉は、ダミアンの耳を素通りした。
それはゾフィの気配を感じて、洋館の後ろにある森からのそりと現れると、険しい顔でゾフィを見る。
普通の人間が見たらそれだけで震えあがりそうな光景だが、ゾフィはチラリと見ただけで顔色ひとつ変えなかった。
「あら、ダミアン。その姿で麓に降りてはダメよ」
『なら、せめて人型に戻せ!!』
ダミアンはガウガウと唸るが、ゾフィは煩そうに手を振ると、玄関に向かった。
「人型にしたら、あなた逃げるじゃない」
『逃げるんじゃない! 帰るんだ!』
「いやだぁ~。まさかダミアンって、マザコン?」
『ちっがう!』
まったく、人間界に来てからというもの、この狼はガウガウと煩くて仕方がない。
人型のままでは、異界の門が開かれたそのタイミングで魔界に戻ってしまうと、ジョルジュの魔法でダミアンは豹から変化できないようにされてしまった。
獣人族のダミアンは、自由にその姿を他の生き物に変えることができる。そんな中でも、ダミアンの基本形態はグレーの大きな狼だった。狼になると、五感が研ぎ澄まされ、飛ぶように速く走ることができるが、この姿では異界の門を通れないのだという。さすがはジョルジュ、物知りだ。
だが厄介なことに、帰れないとしったその日以来、ダミアンはゾフィを見るとこうして文句を言ってくる。
この術をかけたのはジョルジュだ。そのジョルジュの主人であるゾフィに、こんな風に乱暴な口を利くのはいかがなものかと思う。だが、ジョルジュの主人とはいえ、ゾフィは落ちこぼれ魔女として疎まれていた存在だ。彼のように、馬鹿にしているともとれる態度の者は他にもいたため、ゾフィも慣れたものだった。
「大体、そういうのは術をかけたジョルジュに言いなさいよ」
『あいつはお前の専属執事だろう! お前から頼んでくれよ!』
「嫌よ。だってダミアン、魔界に戻ったら私たちの居場所をお兄様あたりに告げ口するでしょう」
『――し、しない!』
ダミアンの耳がぴょこんと動く。
まったく、嘘をつくのが下手な狼だ――ゾフィはため息をつくと、玄関のドアへと向かった。
「嘘ね。なら、やっぱり帰すわけにはいかないわ」
『ちょ、ちょっと待て! 嘘じゃねえ!』
ぴょこん、ぴょこん、とふさふさの耳が動く。ダミアンは、嘘をつくと自分の耳が動くことに気が付いていないのだろうか?
内心呆れながらドアノッカーに手を伸ばす。
獅子があしらわれたドアノッカーは重厚なデザインで、歴史ある大きな洋館にふさわしいものだ。
聞けば、この獅子には魔除けとしての意味があるのだという。そんな魔除けの獅子に守られた建物に、今は魔族が住んでいるというのは皮肉なものだ。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
ドアはノックするまでもなく、内側から開けられた。
開けたのは噂の専属執事、ジョルジュだ。
吸血族の中でも高位の貴族にあたる名家出身のジョルジュは強い魔力を有し、あらゆる魔法も自在に使うことができる。
家出はゾフィがひとりで企んだことではあるが、人間界の国王に書類を書かせたり、この洋館を用意したのはジョルジュだ。
(私の家出計画、随分前から知っていたみたいだったけど……いつから知ってたのかしら?)
出し抜けなかったことは悔しいが、今ではジョルジュが一緒にいてくれて良かったと思っている。
魔界を抜け出し、人間界に来ることを計画したものの、その先に関してはまったくと言っていいほど考えていなかったのだ。
だが、ジョルジュは魔法が使えるだけでなく、料理や掃除も得意だということが分かった。
毎日綺麗に屋敷を隅々まで掃除し、そして美味しい料理を作る。
まったく、有能な執事である。
「ジョルジュ。これ、アーロンの果樹園からもらってきたの。甘い香りがするんだけれど、どうやって食べるものなのかしら。知ってる?」
「これは……リンゴでございますね。ええ、存じ上げておりますよ。デザートのケーキに使用いたしましょう」
リンゴ……そうだ。確か、果樹園にいた小作人のアルバンもそんなことを言っていた気がする。
すると、ゾフィからリンゴを受け取ったジョルジュが眉をひそめた。
「――このリンゴから、お嬢様の魔力を感じます」
「え? な、なんのことかしら?」
「果実の蜜の香りに混じって……お嬢様の甘く濃密で、とろけるような香りがいたします」
誤魔化そうとしたゾフィの目の前で、ジョルジュはリンゴに鼻を擦り付けんばかりに近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎはじめた。
「人間のために……魔力をお使いになりましたね?」
リンゴに顔を近づけたまま、視線だけをゾフィに寄越す。
その咎めるような眼差しに耐えられず、ゾフィはプイと視線を外した。ここまで見透かされては誤魔化しようがない。ゾフィは諦めたように小さく嘆息した。
「……ほんのちょっとよ。本っ当~に、少しだけ」
「気づかれませんでしたか?」
「もちろんよ! やっとここまで来たのに、そんなヘマするわけないわ!」
「安心いたしました」
てっきり怒られると思っていたゾフィは拍子抜けした。
ジョルジュはゾフィが生まれた時から、専属の執事として最も長く、誰よりも近くで仕えてくれている。その時から、ジョルジュはゾフィの一番の理解者だった。
人間界に行きたいと初めから相談したら良かったのかもしれない。さすがに反対されると思ったのだが、思えばジョルジュはゾフィがどんなに失敗しても決して見捨てることはなかったのだから。
だけど……。
(こういうのを見るとちょっとねぇ……)
視線の先で、ジョルジュはゾフィの魔力がこもったリンゴに頬ずりしていた。
見なかったことにして、ゾフィは自室に向かうことにした。
果樹園があった場所への遠出は、アーロンの案内もあり快適だったが、空気がとても乾燥しており、ドレスの中がざりざりする。
『おい。どこに行く』
「わ。びっくりした。まだいたの。番犬は外よ」
『俺は犬じゃねえ!』
ダミアンがまたもやガルルルとうなった。
「じゃあ……番狼? 言いづらいわね」
『そうじゃねえ! 早くあの執事に、術を解くよう言ってくれ!』
「う~ん……」
仕方がない。こうもガウガウ煩くては敵わない。ゾフィはジョルジュに術を解くよう掛け合うことにした。
「ねえジョルジュ。ダミアンの術を解いてくれない?」
「なぜです? 解いてしまってはすぐに魔界に戻ってしまいますよ」
「そうだけど……ずっとこのままというわけにもいかないでしょ?」
ジョルジュがダミアンを面倒くさそうに見下ろした。その視線は、「別にこのままでもいいでしょう」と言っているようでダミアンは背筋が寒くなり、尻尾がくるんと足の間に入り込んでしまった。
「お嬢様。魔界側から人間界への干渉は、異界の門が開いている時です。それはご存じですね?」
「ええ。勿論よ。人間界は天界と魔界の中間世界。人間は寿命が短く、非力で魔力を持たない。少しの衝撃で簡単に死んでしまうわ。そんな人間が中間世界にあるのは、天界と魔界がお互いに干渉しないため。でしょ?」
「さすがでございます。ですが、魔界・天界・人間界はまったく関わらないわけにはいきません。それが人間の生と死です」
人間の生は天界が。
人間の死は魔界が。
その時だけ、異界の門は開かれる。
天界と魔界が人間界に干渉するのは門が開かれている間だけなのだ。
それは死神として死者の魂の回収をおこなっていた兄、バシルの手伝いをしていたから知っている。
「ええ。知っているわ。でも、どうして今その話をするの?」
「お嬢様が魔界の城から消えたことは、既に知られているでしょう。ですが、異界の門が閉じている間は魔界からも干渉ができないのですよ。それに、異界の門が開いている時間は限られている。簡単に探ることは難しいでしょう。要するに、この駄犬を大人しくさせることができれば、見つからずに人間界に住み続けられるのです」
「な、なるほど!!」
さすがジョルジュだ。そこまで考えていたとはもはや感心するしかない。
「じゃあ、このままペットにしようかしら」
『かんっべんしてくれ!!』
まさか、真面目に門番の仕事に戻ろうとしたことがこんな展開になるとは……ダミアンは項垂れた。
今の会話から、とてもではないが術を解いてもらえると前向きに考えることはできない。
このまま諦めて狼の姿のまま人間界で暮らすことになるのか……。そう諦めかけた時、意外な言葉を発したのはゾフィだった。
「そうだわ! ダミアン、私の使い魔になりなさい」
『はあ?』
「――私は賛成できませんね……」
珍しくジョルジュが反対したが、ゾフィはそれが一番いい考えのような気がした。
狼の姿のままガウガウうるさくつきまとわれても困る。それに、魔界からの干渉ができない状況で、居場所を知るダミアンを帰すわけにもいかない。
ならば、ゾフィの使い魔としてダミアンと正式に契約し、ゾフィに逆らわないように、契約で縛りつけるのが良いのではないだろうか。
『お前……なに考えてる?』
「え? 我ながらいい思い付きだなって。だって考えてみて? もし、ダミアンがこの場で私たちの居場所を言わないと約束して魔界に帰ったところで、将来の出世って望めるかしら?」
ダミアンが何か言いかけて、そのままグヌヌと黙り込む。
どうやら反論できないようだ。
「一緒に消えた時点で、私の家出に加担したと思われてもおかしくないわよね? しかも、その日の門番はダミアン。加担どころか、主犯だと思われているかもしれないわ。たまたま出くわした私とジョルジュが巻き込まれてしまったわけよ。ねぇ。そんなあなたが魔界で出世コースに戻れるかしら?」
考えれば考えるほど、いいアイデアのような気がする。
ゾフィのテンションは一気に高くなった。そんなゾフィの様子に、なんとか使い魔計画を阻止したかったジョルジュも折れた。
「――仕方ありませんね」
「やったあ! 良かったわね。ダミアン!」
『良くねえよ! 俺は承諾してねえ!』
ガウガウ文句を言ったところで、もうゾフィは聞いていない。
あっという間に術を解かれ、人型に戻ったダミアンは、抵抗らしい抵抗もできないまま、今度は拘束の術をかけられてしまった。
「本当に、契約を交わされるのですか?」
「本気よ」
動けないダミアンは、そんなやり取りを聞いていることしかできなかった。
ジョルジュに乱暴にイスに座らされても、ダミアンは恨み言のひとつも口から出すことができない。
使い魔の契約は、絶大な魔力が必要で、過去には死人も出たことから、禁術となった魔術だ。だが、その禁術を使うとゾフィは事もなげに言ってのける。
まさか、落ちこぼれと言われ冷遇されているゾフィに、その力があるとは思えない。
だが、異界の門でダミアンを片手で制したゾフィの力が本物ならば……? これから一体自分がどうなるのか――抗議するように睨み付けたダミアンの目の前に、ゾフィが立った。
「ダミアン・ラクロ。汝を、我が使い魔とする。我に仕え、我のためにその生を全うせよ」
ゾフィは手袋を外した手でダミアンの両頬をはさみこむと、そっと顔を近づけた。
(な、何だ――? これは……)
ゾフィが触れる頬が熱い。そこから感じる魔力に、すぐにダミアンの目から、剣呑とした光が消えた。
呆けた表情で見上げる先で、ゾフィが微笑む。
その妖艶ともいえる微笑みに、ダミアンの胸が熱く高鳴った。もはやダミアンには、ゾフィを見つめることしかできない。視線を外すことも考えられないほど、ダミアンはゾフィの挙動に魅入っていた。
さらにゾフィの顔が近づき、彼女の吐息を瞼に感じたと思った次の瞬間、ふたりの唇が重なった。
ゾフィの唇は柔らかく、温かく、そして甘い。
ゾフィの唇がダミアンの唇の上をゆっくりと動くと、あまりの気持ちよさにダミアンが口を開く。すると、そこから熱く、濃密な魔力がとろりとダミアンに注ぎ込まれた。それはとろけるように甘美で、とても美味で、ダミアンの舌を捉える。
魅力に抗えずそれを嚥下すると、その熱は一瞬でダミアンの全身に広がった。
そっと唇を離したゾフィを、ダミアンはとろけた視線で見上げている。
「今日からあなたは私の使い魔よ」
「…………」
「……おかしいわね。ジョルジュ、拘束の術は本当に解いた?」
「ええ。勿論でございます」
ダミアンは体の中を駆け巡り甘い熱に翻弄され、ただただ離れて行くゾフィの顔をぼんやりと見つめていた。
ジョルジュは、そんなダミアンを冷めた目で見下ろしている。
ダミアンはその視線に気づくことなく、遠ざかるゾフィの背中を見つめていた。
階段をのぼるゾフィの背中に波打つ豊かな赤い髪が、身体の動きに合わせて揺れる。ダミアンの目はまるで催眠術にかかったかのように、同じく左右に揺れた。
「美味だろう、お嬢様の魔力は。狂おしいほどに、甘く、熱い……。こうなることは本意ではなかったが……せいぜい、お嬢様のお役に立つのだな」
ジョルジュの言葉は、ダミアンの耳を素通りした。