極上蜜夜~一夜の過ちから始める契約結婚~
胸元をぎゅっと握りしめながら、職員を捜してきょろきょろと視線を走らせた、そこに。


「こんにちは。ご用件は?」


背後から、低い落ち着いた声が聞こえてきた。
用件を問うだけの事務的な声かけでも、それが日本語というだけで無条件に安心できる。


「っ……あ、あのっ。私」


情けなく顔を歪めて勢いよく振り返ると、寸分の隙もないビシッとしたスーツ姿の長身の日本人男性が立っていた。
首から提げた顔写真入りのID。
もちろん、彼が大使館に勤務する職員なのは一目瞭然。


海外で、盗難被害に遭った後。
縋る思いで駆け込んだ日本大使館。
やっと日本語で会話ができる――。


これまでの出来事が一瞬にして矢印で繋がり、その先に浮かんだのは『もう安心』という結論。
その途端に気が緩み、私はここでも腰を抜かしてへたり込んでしまった。


「あ、君。……どこか、怪我でも?」


男性が背を屈めて私を見下ろしながら、訝し気に眉根を寄せる。
私は顎を上げて彼を見上げ、慌ててぶんぶんと首を横に振って否定した。


「違うんです。あのっ……私、バッグ……。パスポート、お金……」


ここに来た理由を説明しようと、気持ちばかりが先走り、口を突いて出るのはなんのセンテンスにもなっていない単語だけ。
それでも彼は、私がどんな目に遭ったか察してくれたようだ。
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