遅咲き鬱金香(チューリップ)の花咲く日
先生のご自宅へ
木曜日。
金香は朝からそわそわしていた。
寺子屋の仕事は休みを取った。校長におそるおそる打診したのだが意外とすんなり通ってしまったのだ。
理由を馬鹿正直なまでに告げてしまったので「源清先生に添削など良いことではないですか。いってらっしゃい」と。
朝から湯あみをし、まだ新しい着物を取り出した。
選んだのは黄色がかった淡い色の生地に藤の花が入った着物だった。
金香は季節を示す着物が好きだった。そして季節を彩る着物は少し先取りして身に着けるのが鉄則である。選んだ一重の着物を丁寧に着ていく。
名刺にあった源清先生のお住まいの住所は少し遠いようだった。
徒歩(かち)で行く予定であったので一時間近くは歩くだろう。
着物では足さばきが悪いので袴を選んだ。着物で歩くこともできるが万一着崩れてしまっていては恥ずかしい、と思ったので。
準備もできて、書き上げた小説を風呂敷に包んで、これだけはかっちりとしている鞄に入れた。
洋風の鞄、珍しく父が買ってくれたものだった。
ふらっと仕事に出かけてしまう放任主義のくせに突然ひょいと寄越してきたのだ。「人様に勉強を教えるのだから、鞄くらい教師らしいものを持て」などと言って。
どこぞの大きな街で買ってきてくれたのだろう。そのくらいには大切にされているのだけど……。
それはともかく教材として未熟だった文は、一応小説といえる体裁まで昇華していた。
ただ金香にとって『小説』としてきちんと文を書くのは初めてである。なのでこれがどの程度の出来なのかがまったくわからなかった。
一応読めるものであると思うが、未熟も過ぎるものを見ていただくのは恥ずかしいのだけど。
でもせっかくお声をかけていただいたのだ。見ていただいて、できることならまた小説を書いてみたいと思っていた。それほど金香にとって文を書くことは愉しかったのである。
支度もできた。
出来る限りお邪魔にならない時間を選ぶつもりであった金香は、昼時の少しあとにお訪ねするつもりでいた。食事の心配をさせてしまっては申し訳が無いので。
よって早めの昼食を家でとり、家を出た。例によって父親は不在だったのできちんと鍵をかけて。
「おや、金香ちゃん。おめかしね」
家を出て門を出たあとにお隣の小母(おば)さんに声をかけられた。ちょうどあちらも出掛けるところだったのであろう。買い物かごを手にしている。
「はい。所用で」
端的に答えた金香に小母さんが言ったこと。
「好い人と逢うのかい?」
言われたことに思わず金香の顔が熱くなる。好(よ)い人。つまり恋人。
「ち、違います!」
そうだ、誤解されてしまっても仕方がないだろう。年頃の娘がしっかりと着飾って出かけるとなれば。嫌だわ、そんなのじゃないのに。
この期に及んでも金香はそう思っていた。
目上の方にお会いする、しかもご自宅にお邪魔するのですから普通。
そう自分に言い聞かせている時点で源清先生を特別視していることは確かなことであったのに。
慌てて言った金香を小母さんはどう思っただろう。色恋沙汰の話が好きなのは女性として幾つになっても同じだと思う。小母さんは楽しそうだった。金香はもうひとつ言い繕うことになる。
「そんなんじゃありませんから!」
「そう? でも、好い人ができたら教えておくれよ?」
それでもお隣の小母さんはそれだけで話題を落ち着かせてくれた。
「そ、そんな方……」
「金香ちゃんは美人さんだからね。すぐに好い人もできるさ」
「あ、……りがとう、ございます。では失礼いたします」
「ああ、またね」
短い会話をして小母さんと別れて金香は一歩踏み出した。
好い人なんて。そんなものではないというのに。
尊敬する方にお会いするのだからしっかりとした格好をして当然。
再度自分に言い聞かせる。
声をかけてきた小母さんの指摘のほうがよほど的確だったのだが。
金香は朝からそわそわしていた。
寺子屋の仕事は休みを取った。校長におそるおそる打診したのだが意外とすんなり通ってしまったのだ。
理由を馬鹿正直なまでに告げてしまったので「源清先生に添削など良いことではないですか。いってらっしゃい」と。
朝から湯あみをし、まだ新しい着物を取り出した。
選んだのは黄色がかった淡い色の生地に藤の花が入った着物だった。
金香は季節を示す着物が好きだった。そして季節を彩る着物は少し先取りして身に着けるのが鉄則である。選んだ一重の着物を丁寧に着ていく。
名刺にあった源清先生のお住まいの住所は少し遠いようだった。
徒歩(かち)で行く予定であったので一時間近くは歩くだろう。
着物では足さばきが悪いので袴を選んだ。着物で歩くこともできるが万一着崩れてしまっていては恥ずかしい、と思ったので。
準備もできて、書き上げた小説を風呂敷に包んで、これだけはかっちりとしている鞄に入れた。
洋風の鞄、珍しく父が買ってくれたものだった。
ふらっと仕事に出かけてしまう放任主義のくせに突然ひょいと寄越してきたのだ。「人様に勉強を教えるのだから、鞄くらい教師らしいものを持て」などと言って。
どこぞの大きな街で買ってきてくれたのだろう。そのくらいには大切にされているのだけど……。
それはともかく教材として未熟だった文は、一応小説といえる体裁まで昇華していた。
ただ金香にとって『小説』としてきちんと文を書くのは初めてである。なのでこれがどの程度の出来なのかがまったくわからなかった。
一応読めるものであると思うが、未熟も過ぎるものを見ていただくのは恥ずかしいのだけど。
でもせっかくお声をかけていただいたのだ。見ていただいて、できることならまた小説を書いてみたいと思っていた。それほど金香にとって文を書くことは愉しかったのである。
支度もできた。
出来る限りお邪魔にならない時間を選ぶつもりであった金香は、昼時の少しあとにお訪ねするつもりでいた。食事の心配をさせてしまっては申し訳が無いので。
よって早めの昼食を家でとり、家を出た。例によって父親は不在だったのできちんと鍵をかけて。
「おや、金香ちゃん。おめかしね」
家を出て門を出たあとにお隣の小母(おば)さんに声をかけられた。ちょうどあちらも出掛けるところだったのであろう。買い物かごを手にしている。
「はい。所用で」
端的に答えた金香に小母さんが言ったこと。
「好い人と逢うのかい?」
言われたことに思わず金香の顔が熱くなる。好(よ)い人。つまり恋人。
「ち、違います!」
そうだ、誤解されてしまっても仕方がないだろう。年頃の娘がしっかりと着飾って出かけるとなれば。嫌だわ、そんなのじゃないのに。
この期に及んでも金香はそう思っていた。
目上の方にお会いする、しかもご自宅にお邪魔するのですから普通。
そう自分に言い聞かせている時点で源清先生を特別視していることは確かなことであったのに。
慌てて言った金香を小母さんはどう思っただろう。色恋沙汰の話が好きなのは女性として幾つになっても同じだと思う。小母さんは楽しそうだった。金香はもうひとつ言い繕うことになる。
「そんなんじゃありませんから!」
「そう? でも、好い人ができたら教えておくれよ?」
それでもお隣の小母さんはそれだけで話題を落ち着かせてくれた。
「そ、そんな方……」
「金香ちゃんは美人さんだからね。すぐに好い人もできるさ」
「あ、……りがとう、ございます。では失礼いたします」
「ああ、またね」
短い会話をして小母さんと別れて金香は一歩踏み出した。
好い人なんて。そんなものではないというのに。
尊敬する方にお会いするのだからしっかりとした格好をして当然。
再度自分に言い聞かせる。
声をかけてきた小母さんの指摘のほうがよほど的確だったのだが。