遅咲き鬱金香(チューリップ)の花咲く日
「いえ、……その」
金香が言い淀んだことをどう思ったのだろう。源清先生は金香の言葉を促すように黙っている。
ええい! 訊いてしまいなさい!
もう一度自分を叱咤して。やっと口に出した。
「その、……音葉さんは、ご結婚のお話など……あられるのですか……?」
だいぶ遠回しになってしまった。
『恋人がいるのか』だの、もっと踏み込んでしまえば『先生と恋仲なのか』と訊くべきであったのだが、金香にはそれが精一杯だったのだ。
「……どうしてそれを私に?」
言う言葉は疑問形であったのに、どうしてか先生の声は楽しげだった。その理由は金香にはまったくわからなかったが。
「えっと、その」
言えやしないではないか。訊く言葉すら遠まわしになってしまったというのに。
答えられない金香を数秒待ってくれたが、なにも言えずにいると察したのか先生は続けてくれた。
「はっきりしないね。まぁ、私からなら構わないだろう。珠子さんは既にご結婚されているよ。数年前のことだ」
金香の頭が一旦、ぽぅっとした。
先生と恋仲ではないのだ。
既に所帯をお持ちなのだ。
それに思い至って、かっと金香の胸が熱くなった。
これは自分にとっては良い展開なのでは。
先生は淡々とそれを裏付けていく。
「夫である男性は、以前高等学校で教えていた私の生徒だ。そういう都合で、はじめに口利きをしたのは私なのだよ」
一気に力が抜けてしまって、なにも言えなかった。安堵のために。
「……安心したかい」
そんな金香にかけられた言葉はやはりからかうような響きを帯びていて。
金香は一気に現実に引き戻された。
それはなにに対して。
既に結縁されていることか。
先生と恋仲ではないことか。
両方なのであるが、やはりこのようなことは口に出せないではないか。
「えっ、いえっその、お、お綺麗な方なので、きっとそのようなお話もあるのでは、と」
完全にしどろもどろであった。
あからさまに不審だったのであろう。先生はおかしくてたまらない、という様子でくちもとに手をやって、くすくすと笑う。
「そうだね。珠子さんはとても綺麗なうえに聡明な方だから言い寄る男性も多かったと聞くよ。有難いですけど応えられなくて申し訳ない、なんて相談をされたこともあった」
想い出話をしてくれて、しかしそんな平和な話は少ししか続かなかった。
「そういえば金香はどうなんだい。今まで聞いたことがなかったが、好い人のお一人でも居るのかな」
どくりと心臓が跳ねて喉元までせり上がってきた。
音葉さんとまったく同じ質問であった。だというのに頬の燃える度合いは比べ物にならなかった。はっきり顔が赤くなったであろう。
そして答えも同じことしか返せない。
まさか言うわけにはいかないだろう。
「先生をお慕いしております」などとは。
まだそこまでは。
「おりません」とだけ、消え入りそうな声で呟いた金香を見る目は優しかったのだろう、と下を向いていても感じられた。
「そうか。それではこれからだね」
これから、とは。
それは勿論これから好い人、つまり恋人ができるだろう、ということだろう。
が、金香が恋人に欲しい人はもう決まってしまっていた。それが叶うかどうかなどはまったくの別問題であるが。
その当人にそう言われるのは、嬉しいのか悲しいのか。
その晩はそれでおしまいになった。
「気分転換もできたようだから、明日から課題を再開してご覧」と言われて金香は部屋を退室した。
自室に戻ってから思わずへなへなと座り込んでしまった。浴衣の胸をぎゅっと握る。
良かった。
それだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
音葉さんは先生と恋仲ではないのだ。本当に、本当に安堵した。
勇気を出してよかったと思う。そしてそんな自分のことも褒めてあげたくなった。
しかし次に思い浮かんだことに金香はすぐにそれを否定することになってしまう。
では先生は別に恋仲の女性はいらっしゃるの。
音葉さんが違ったからといって、ほかに女性が居るかもしれないという点は解決していないのだ。
ああ、ひとつ片付けばまたひとつ。
恋に関する不安は際限がないようだ。金香は初めてそのことを知ってしまう。
でもこれこそ直接訊くことなど無理だ。どうしたらいいのだろう。
その晩は目下の不安ごとが解消されて、おまけにそれが金香にとって良いものであった喜びやら、しかし芽生えた新たな心配事やらで、なかなか寝付けなかった。
でもやはり片恋の不安だけでなく、もうひとつざわつくものがあると胸の奥に感じていたのだけど。
金香が言い淀んだことをどう思ったのだろう。源清先生は金香の言葉を促すように黙っている。
ええい! 訊いてしまいなさい!
もう一度自分を叱咤して。やっと口に出した。
「その、……音葉さんは、ご結婚のお話など……あられるのですか……?」
だいぶ遠回しになってしまった。
『恋人がいるのか』だの、もっと踏み込んでしまえば『先生と恋仲なのか』と訊くべきであったのだが、金香にはそれが精一杯だったのだ。
「……どうしてそれを私に?」
言う言葉は疑問形であったのに、どうしてか先生の声は楽しげだった。その理由は金香にはまったくわからなかったが。
「えっと、その」
言えやしないではないか。訊く言葉すら遠まわしになってしまったというのに。
答えられない金香を数秒待ってくれたが、なにも言えずにいると察したのか先生は続けてくれた。
「はっきりしないね。まぁ、私からなら構わないだろう。珠子さんは既にご結婚されているよ。数年前のことだ」
金香の頭が一旦、ぽぅっとした。
先生と恋仲ではないのだ。
既に所帯をお持ちなのだ。
それに思い至って、かっと金香の胸が熱くなった。
これは自分にとっては良い展開なのでは。
先生は淡々とそれを裏付けていく。
「夫である男性は、以前高等学校で教えていた私の生徒だ。そういう都合で、はじめに口利きをしたのは私なのだよ」
一気に力が抜けてしまって、なにも言えなかった。安堵のために。
「……安心したかい」
そんな金香にかけられた言葉はやはりからかうような響きを帯びていて。
金香は一気に現実に引き戻された。
それはなにに対して。
既に結縁されていることか。
先生と恋仲ではないことか。
両方なのであるが、やはりこのようなことは口に出せないではないか。
「えっ、いえっその、お、お綺麗な方なので、きっとそのようなお話もあるのでは、と」
完全にしどろもどろであった。
あからさまに不審だったのであろう。先生はおかしくてたまらない、という様子でくちもとに手をやって、くすくすと笑う。
「そうだね。珠子さんはとても綺麗なうえに聡明な方だから言い寄る男性も多かったと聞くよ。有難いですけど応えられなくて申し訳ない、なんて相談をされたこともあった」
想い出話をしてくれて、しかしそんな平和な話は少ししか続かなかった。
「そういえば金香はどうなんだい。今まで聞いたことがなかったが、好い人のお一人でも居るのかな」
どくりと心臓が跳ねて喉元までせり上がってきた。
音葉さんとまったく同じ質問であった。だというのに頬の燃える度合いは比べ物にならなかった。はっきり顔が赤くなったであろう。
そして答えも同じことしか返せない。
まさか言うわけにはいかないだろう。
「先生をお慕いしております」などとは。
まだそこまでは。
「おりません」とだけ、消え入りそうな声で呟いた金香を見る目は優しかったのだろう、と下を向いていても感じられた。
「そうか。それではこれからだね」
これから、とは。
それは勿論これから好い人、つまり恋人ができるだろう、ということだろう。
が、金香が恋人に欲しい人はもう決まってしまっていた。それが叶うかどうかなどはまったくの別問題であるが。
その当人にそう言われるのは、嬉しいのか悲しいのか。
その晩はそれでおしまいになった。
「気分転換もできたようだから、明日から課題を再開してご覧」と言われて金香は部屋を退室した。
自室に戻ってから思わずへなへなと座り込んでしまった。浴衣の胸をぎゅっと握る。
良かった。
それだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
音葉さんは先生と恋仲ではないのだ。本当に、本当に安堵した。
勇気を出してよかったと思う。そしてそんな自分のことも褒めてあげたくなった。
しかし次に思い浮かんだことに金香はすぐにそれを否定することになってしまう。
では先生は別に恋仲の女性はいらっしゃるの。
音葉さんが違ったからといって、ほかに女性が居るかもしれないという点は解決していないのだ。
ああ、ひとつ片付けばまたひとつ。
恋に関する不安は際限がないようだ。金香は初めてそのことを知ってしまう。
でもこれこそ直接訊くことなど無理だ。どうしたらいいのだろう。
その晩は目下の不安ごとが解消されて、おまけにそれが金香にとって良いものであった喜びやら、しかし芽生えた新たな心配事やらで、なかなか寝付けなかった。
でもやはり片恋の不安だけでなく、もうひとつざわつくものがあると胸の奥に感じていたのだけど。