遅咲き鬱金香(チューリップ)の花咲く日
「おや、そうだったのかい」
珠子に『内弟子に取る意味』を教えられた、ということを麓乎に話したところ、麓乎には目を細められた。
勿論、言うつもりはなかった。
言うつもりはなかったのだが、言わされた、というか。
ある夜、麓乎の部屋で話をしているうちに「先日は愉しかったかい」という話になり、「珠子さんとどんな話をしたのかな」と質問された流れで、話がそちらへ行ってしまったのだ。それを言い繕えないくらいには、金香は不器用だったといえる。
珠子に話をすることを相談したのは少し前のことだった。
誰かにそろそろ言おうか、と思うようになったときに金香は訊いた。
勿論『交際を公にしても良いのでしょうか』ということである。
「例えば、珠子さんにとか」という質問に麓乎は当たり前のように頷いた。
「もう随分親しくなったものね。存分に話すといいよ」
「ぞ、存分に」
なにを話せと。
顔を赤くした金香の頭をそのとき麓乎は撫でてくれて、言われた言葉に金香はまた顔を熱くするしかなかったのである。
「むしろ、ひとに話したいと思うくらいに私を想ってくれることを嬉しく思うしね」
そのときのことを思い出してしまった。
「がっかりしたかい。そんな下心で内弟子に誘ったことを」
お茶をひとくち飲んで麓乎は気軽な口調で言ってきた。勿論気軽であろうわけはないが。
「そんなわけはありません! むしろ」
その気持ちはわかったのですぐに金香はそれを否定した。
そして少し躊躇った。これを言って良いものか。
でも、『むしろ』に続く言葉はこれしかないのである。
「私などを気にしてくださったことが、嬉しいです」
しかし金香の言葉には麓乎は目を細めたのだった。
それは『愛しさ』であるときもあるのだったが今のものは違う。嫌なことを想像しているだとかそういうときの眼だ。
「きみは少し自己評価が低いところがあるね」
手にしていた湯呑みを置いて麓乎は金香をまっすぐに見つめて言った。
金香は詰まってしまう。
そのとおり、だ。
そして今だけでない。そのように言われてしまうようなこと、今までに何回も言ってしまったことがある。
それを思い出して胸に包丁を突きさされたような気持ちであった。
自分を卑下するようなことばかり言って、麓乎を不快にしてしまっただろうか?
謝ろうかと思った。
けれどそれも卑屈すぎるのだろうか?
思ってしまって返事ができずにいた金香に掛けられた次の言葉は、意外にも優しいものだった。
「自分が愛されるべき存在だと、もっと自覚して良いのだよ」
麓乎の眼も優しいものになっている。
愛される。
言われると非常にくすぐったい言葉だ。
「それは私にだけでなく、周りのひとたちにも同じだ」
周りのひとたちと思い浮かべて金香は、はたとした。
『自己評価が低い』と言われてしまった原因に思い至ったのだ。
「あまりご家族に恵まれなかったのだよね。そのせいかもしれないけども」
麓乎が言ったのもそのとおりのことだった。
母は早くに亡くなった。
育ててくれた祖母も、亡くなって随分経つ。
親戚ともあまり親しくない。
おまけに同居していた父親ですら、家を空けている日のほうが多いくらいで。
そのさみしさからだろうか。
自分を肯定してくれる存在が居なかったからだろうか。
それはなんだかとても悲しいことのような気がして、そんな気持ちが膨れてきて、思わず下を向くと、ぽたっと雫が落ちた。
金香は自分で驚いてしまう。涙が出る自覚は無かったもので。
金香だけでなく、麓乎も驚いたようだ。
「すまない、言い方がきつかったかな」
このひとはどこまでも優しいのだ。
そんなこと、欠片も無いというのに。
むしろ言い方としてはやわらかすぎるくらいであっただろうに。
「そんなことはないです。でも、何故か」
金香の次の言葉は続かなかった。
数秒沈黙が落ち、次に起こったのは言葉ではなかった。ふっと空気が動く。
このようなことは勿論初めてではない、というかもう何回か起こっているのでわかってはいたのだが、金香はとっさに身を硬くしてしまった。
まだ慣れないのだ。腕を伸ばした麓乎に抱き取られること。
それでももう恐怖心は覚えない。安堵できるまでにはなっていないのだが。
心臓は煩く騒ぐし呼吸は浅くなってしまうのだが、拒むつもりは毛頭ないし嬉しいことだと思える。
香の良い香りにか、深く触れている麓乎のあたたかさにか、また涙がぽろっと零れてしまった。
それともこのように触れられて『愛して貰えている』と感じられたことにかもしれない。
過去の家族のことはともかく、今はとても幸せだ。
いや、家族のこととはまた別なのだと思う。
けれどそれは確かに『愛』なのであり、『幸せ』だ。
そのような存在ができたのはきっと幸運なのだと思う。
恵まれなかったのは、もう過去のこと。
有り余るほどに恵まれている。
だからそのことにもっと自信を持たなければいけない。
あたたかな麓乎の胸に抱かれながら、金香はそっと目を閉じた。
珠子に『内弟子に取る意味』を教えられた、ということを麓乎に話したところ、麓乎には目を細められた。
勿論、言うつもりはなかった。
言うつもりはなかったのだが、言わされた、というか。
ある夜、麓乎の部屋で話をしているうちに「先日は愉しかったかい」という話になり、「珠子さんとどんな話をしたのかな」と質問された流れで、話がそちらへ行ってしまったのだ。それを言い繕えないくらいには、金香は不器用だったといえる。
珠子に話をすることを相談したのは少し前のことだった。
誰かにそろそろ言おうか、と思うようになったときに金香は訊いた。
勿論『交際を公にしても良いのでしょうか』ということである。
「例えば、珠子さんにとか」という質問に麓乎は当たり前のように頷いた。
「もう随分親しくなったものね。存分に話すといいよ」
「ぞ、存分に」
なにを話せと。
顔を赤くした金香の頭をそのとき麓乎は撫でてくれて、言われた言葉に金香はまた顔を熱くするしかなかったのである。
「むしろ、ひとに話したいと思うくらいに私を想ってくれることを嬉しく思うしね」
そのときのことを思い出してしまった。
「がっかりしたかい。そんな下心で内弟子に誘ったことを」
お茶をひとくち飲んで麓乎は気軽な口調で言ってきた。勿論気軽であろうわけはないが。
「そんなわけはありません! むしろ」
その気持ちはわかったのですぐに金香はそれを否定した。
そして少し躊躇った。これを言って良いものか。
でも、『むしろ』に続く言葉はこれしかないのである。
「私などを気にしてくださったことが、嬉しいです」
しかし金香の言葉には麓乎は目を細めたのだった。
それは『愛しさ』であるときもあるのだったが今のものは違う。嫌なことを想像しているだとかそういうときの眼だ。
「きみは少し自己評価が低いところがあるね」
手にしていた湯呑みを置いて麓乎は金香をまっすぐに見つめて言った。
金香は詰まってしまう。
そのとおり、だ。
そして今だけでない。そのように言われてしまうようなこと、今までに何回も言ってしまったことがある。
それを思い出して胸に包丁を突きさされたような気持ちであった。
自分を卑下するようなことばかり言って、麓乎を不快にしてしまっただろうか?
謝ろうかと思った。
けれどそれも卑屈すぎるのだろうか?
思ってしまって返事ができずにいた金香に掛けられた次の言葉は、意外にも優しいものだった。
「自分が愛されるべき存在だと、もっと自覚して良いのだよ」
麓乎の眼も優しいものになっている。
愛される。
言われると非常にくすぐったい言葉だ。
「それは私にだけでなく、周りのひとたちにも同じだ」
周りのひとたちと思い浮かべて金香は、はたとした。
『自己評価が低い』と言われてしまった原因に思い至ったのだ。
「あまりご家族に恵まれなかったのだよね。そのせいかもしれないけども」
麓乎が言ったのもそのとおりのことだった。
母は早くに亡くなった。
育ててくれた祖母も、亡くなって随分経つ。
親戚ともあまり親しくない。
おまけに同居していた父親ですら、家を空けている日のほうが多いくらいで。
そのさみしさからだろうか。
自分を肯定してくれる存在が居なかったからだろうか。
それはなんだかとても悲しいことのような気がして、そんな気持ちが膨れてきて、思わず下を向くと、ぽたっと雫が落ちた。
金香は自分で驚いてしまう。涙が出る自覚は無かったもので。
金香だけでなく、麓乎も驚いたようだ。
「すまない、言い方がきつかったかな」
このひとはどこまでも優しいのだ。
そんなこと、欠片も無いというのに。
むしろ言い方としてはやわらかすぎるくらいであっただろうに。
「そんなことはないです。でも、何故か」
金香の次の言葉は続かなかった。
数秒沈黙が落ち、次に起こったのは言葉ではなかった。ふっと空気が動く。
このようなことは勿論初めてではない、というかもう何回か起こっているのでわかってはいたのだが、金香はとっさに身を硬くしてしまった。
まだ慣れないのだ。腕を伸ばした麓乎に抱き取られること。
それでももう恐怖心は覚えない。安堵できるまでにはなっていないのだが。
心臓は煩く騒ぐし呼吸は浅くなってしまうのだが、拒むつもりは毛頭ないし嬉しいことだと思える。
香の良い香りにか、深く触れている麓乎のあたたかさにか、また涙がぽろっと零れてしまった。
それともこのように触れられて『愛して貰えている』と感じられたことにかもしれない。
過去の家族のことはともかく、今はとても幸せだ。
いや、家族のこととはまた別なのだと思う。
けれどそれは確かに『愛』なのであり、『幸せ』だ。
そのような存在ができたのはきっと幸運なのだと思う。
恵まれなかったのは、もう過去のこと。
有り余るほどに恵まれている。
だからそのことにもっと自信を持たなければいけない。
あたたかな麓乎の胸に抱かれながら、金香はそっと目を閉じた。