灰と王国のグリザイユ
第二章 アニス、刺客に遭う
2113年 8月某日
国王が、わたしのスカートをめくった。いつもニヤニヤとこちらを見ていたので不快だったが、とうとう犯罪を犯したか。
フリルの数を数えていた自分は理数系だからとか、スカートの中には幸せがつまっているなどと意味不明な供述をするので、クビを覚悟で殴る。
アニスをかかえグレーターからコミューンへ出て来たツバキは、通りの向こうに数人の近衛兵の制服を見つけ、すばやく建物の陰に隠れた。
「向こうの路地にいるぞ!」
彼らは迷わずこちらへ向かって来る。
(何でおれの居場所がわかるんだ? ——あっ!)
城から支給されている携帯電話をあわてて叩き割る。GPS機能がついていたのだ。だが、追われる理由も狙われる理由も、さっぱりわからない。
「とにかくどこか安全な場所へ——」
アニスをふり向いたたツバキは、自分目がけて噴出される寸前のスプレーを間一髪で止めた。
「——っとォ、二度も同じ手に引っかかると思うなよ?」
ニヤリと悪い笑みを浮かべたツバキにスプレーごと手をつかまれ、アニスはじたばたと暴れる。
「いやっ、離して! あなたのそばが一番危険です!」
「おれは安全だ! 騒ぐんじゃねェ、手間かけさせんな、言うことを聞け!」
気づけば、ざわざわと周りは不審な目でツバキを見ている。
軍服を着ているとはいえ、今のやり取りはどう見てもツバキが悪者だ。警察軍が、人ごみを割って入って来た。
「……きみ、ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「……あ、いや。ち、違うんです。こいつ——痛ェっ!」
狼狽えるツバキの一瞬の隙をつき、アニスはツバキの腕にかみついて逃げた。
「あっ待て、こら!」「待ちなさい、きみ!」
警察軍の声も無視し、ツバキは駆け出す。アーケードを抜け広場を走り、白衣の少女を追う軍人を、通行人も興味深げに見送った。
後ろをふり返りふり返り、息を切らせながらアニスは小路に入る。とたん、いきなり背後から口をふさがれ、路地裏の勝手口にあっという間に引っぱられた。
(今の捕獲の仕方、トタテグモのよう——)
などとアニスが思ったドアが閉まる瞬間、通りを駆け抜けるツバキの姿が見えた。
注・トタテグモ——巣穴の裏で待ち伏せし、獲物が通るとすかさず捕まえ、巣に引きずり込む習性を持つ。
(——って、そんなこと考えてる場合じゃない!)
ぐるぐる巻きで椅子に縛られたアニスは、我に返った。
薄暗い店内は、夜から開店するバーのようだった。テーブルは椅子が上げられ、カウンターにも誰もいない。天井の明り取り窓から射す光だけが、スポットライトのようにアニスと男を照らしている。
こちらに銃口を向けているサングラスとスーツの男は明らかに、あの軍人よりはるかに危険な香りがした。
「きみみたいなかわいい子に恨みはないけどね、きみが生きていると都合の悪い人間もいるってことで」
アニスにこれっぽっちも興味のない口調は、殺しがただの作業である仕事を物語っている。男はカチリ、と遊底を引いて装弾し、アニスに銃口を向けた。
アニスはぼんやりと、銃の作りを見ていた。いつも、ワンテンポ遅れて感情はついて来る。
(あれが発射されたら、わたしは……)
突然、入り口のドアをノックする音がした。
一瞬、あの軍人が追って来たのかと期待したアニスだったが、それっきりの沈黙に絶望した。男は黙って銃をかまえたまま、ドアのほうを警戒している。
ふいに、ぱらぱらと、天井からゴミのような薄片が舞い落ちた。
(……?)
アニスが顔を上げた瞬間——
「!」
開かれた明り取り窓を影が遮り、天井からツバキが降って来た。
「——がっ!」
背中に乗られ男は床に倒れたが、すぐに横へ転がり体勢をもどす。男が向けた銃を、ツバキも敏捷に蹴り落とす。
だが接近戦に持ち込んだ男は、ツバキの手首を鮮やかに捻り、躰ごと投げ飛ばした。
「ぐはっ……!」
ツバキはバックバーにぶつかり、酒瓶が派手に砕け散った。間髪入れずに男がツバキにのしかかる。
絡まりあったまま、ふたりはカウンターの裏に転がっていった。ガラスの割れる音、人体を殴る音、呻き声。
そしてやがて何も聞こえなくなり、アニスは青くなってバックバーを見た。ゆらりと、ひとつの影が立ち上がる。
「——な、おれのほうが安全だろ」
ぼろぼろのドヤ顔でニヤつくツバキに、アニスはこわばった表情がようやく破顔した。
「休んでるヒマねェぞ」
ツバキはアニスの縄を解き通りへ出ると、例の雑貨店へ向かった。老婆は相変わらず、競馬新聞に真剣な顔で見入っている。
「バーさん。おい、バーさん!」
声をひそめつつも聞こえるように呼ぶが、やはりこちらを見向きもしない。
(くっそ、わざとだな……)
そうこうしているうちに、辺りを見回しながら近衛兵が近づいて来る。ツバキは身をかがめ、あわててショーケースの上にくしゃくしゃになったお札を投げた。
「チョコひと箱!」
ニタリと魔女のような笑いを浮かべ、老婆がふたりを奥のスペースへ招くと同時に、近衛兵が店の前を通り過ぎて行った。
「おやまあ、痴話喧嘩かい。ツバキ・リクドウ二等兵」
老婆は怯え気味のアニスに目をやり、ツバキの痣と傷だらけの顔をからかう。だがツバキは、怪訝な顔で畳に上がり込んだ。
「……何でバーさん、おれのこと知ってんだよ」
「アンタはもう、お尋ね者だからね」
雑貨屋の奥は三畳ほどのスペースにパソコンがいくつも並ぶ、デイトレーダーのような小部屋だった。
老婆が、パソコンのひとつをツバキに向ける。ネットニュースには、ツバキの顔写真と名前が流れていた。
罪状、殺人容疑。殺されたのは、ハオウジュ将軍が王女だと主張する少女だ。
「なっ……!? おれは殺ってない! そもそも本当の王女はこいつだ!」
アニスが、ぽかんとツバキを見る。
「……何のことですか?」
「あんた、この女の娘なんだろう?」
ツバキが指令書をさし出すが、アニスは写真の女性に記憶がないようで、考え込んでいる。
ツバキはがりがりと頭をかいた。
「バーさん、説明しろよ! あんた何か知ってるんだろ!」
「アタシは手がかりを、教えただけさ。王女のことなんて知らないね」
ニヤニヤと肩をすくめる老婆を忌々しげに睨み、ツバキはアニスにこれまでの経緯を話した。
「……わたしが、亡くなった王さまの娘?」
アニスは信じられない、という顔で首のほくろをさわる。
「だって、シスター・シキミはそんなこと言ってなかった。お母さんは、ただ病気で亡くなったって……」
「あの教会の墓には、あんたの母親が眠ってるんだろ?」
「そう……聞いています」
「『丘』へ行けば、DNA鑑定をしてもらえる。いっしょに城へ来てくれ」
自信に満ちた顔でアニスを見るツバキを、嗄れ声が遮った。
「待ちな、ボーヤ。今その子が王女だと証明すれば、そのニュースの子の二の舞だよ」
(——そうだ、誰かが継承者を消そうとしている)
ついさっき、アニスはバーで殺されそうになったばかりだ。城の図書館でも。それは、ツバキも身を以って体験した事実である。
(ほとぼりが冷めるまで、彼女だけ警察軍に保護してもらうか? いや、だめだ)
陰謀渦巻くグレーターよりはマシだとしても、近衛兵が徘徊している現状、ここコミューンとて安全な保証はない。
見つかれば城へもどされてしまう。今こうしてここにいる時間すら、安心できない。
「それに——あれは近衛兵じゃない」
バーカウンターで、しばらくは気を失っているだろう男。彼との交戦を思い出し、ツバキはじっと自分のこぶしを見た。
警察軍でも近衛兵でもない、別の組織が暗躍している。
そんな緊迫した空気を破り、考え込むツバキの前をアニスがおずおずと横切る。
「あ、あのー、わたし学院へ帰ります。シスターが心配してると思うので」
「——ちょっと、今の話聞いてた?」
ツバキにぐいと腕を引かれ、アニスは思わず声をあげた。
「ひっ、離して」
「命を助けてやっただろーが」
「そ、それは感謝しています。でも、指名手配のあなたといることだって、危険には変わりありません」
「何だと? あんたを捜し当てたのはおれだぞ」
「み、見つけてくれなんて頼んでません。わたしは、お城になんか行きたくないんです」
老婆が、ひゃっひゃっと肩を浮かせて笑う。
「シンデレラがみんな、ガラスの靴をはきたがってると思ったら大間違いだよ、ボーヤ。ちっとは、女ってもんを勉強しな。だが、その子の素性はもう割れてるよ。学院へも、もう手は回ってるだろうねえ」
見ると、ネットニュースにはツバキが誘拐した被害者として、アニスの顔写真も出ている。
「そんな! じゃあ、わたしはどうすれば——」
「心配するな。責任持っておれが警護するからよ」
キリリと格好をつけて断言するさまにさすがにカチンときたのか、アニスは上目遣いにツバキを睨んだ。
「し、心配するなって、こうなったのは、全部あなたのせいじゃない……!」
「な——何だと!」
老婆はむきになるツバキをおさえつけ、アニスにおもむろに向き直る。
「——お嬢ちゃん、人生は選択の連続だ。今アンタは、その馬鹿のせいで岐路に立っている。だが、決めるのは自分だ。出口のない水槽で安全に暮らすか、危険な大海で自由を知るか。アンタはどっちの魚だい?」
(どっちの……?)
老婆の言葉に、急に高波がどっとアニスの眼前におしよせた気がした。
とたん、白衣のアニスは白くひらひらとした魚になって、波にさらわれる。
満たされた退屈な毎日。この先、自分を待っているもの。
アニスは白衣のすそをぎゅっとつかみ、怖々と怪しい老婆と容疑者の近衛兵を見た。信じるメリットは何もない。これまで、根拠のないルートを選んだこともない。
でも——、
自分が納得できる理由が、いつも選択肢に用意されているとは限らないのだ。
(最初で最後の冒険だわ)
意を決したように顔を上げたアニスを、老婆は三日月のような目で笑った。
「だがまあ、どっちにしろ危険なことには変わりはないからね。これはサービスだよ」
唐突に、地図を描いた一枚のメモがツバキの前にさし出される。
「コミューンにあるアタシの甥の城だ。レイチョウといって、王宮でアンタと同じ近衛連隊に所属してる。入隊したてのアンタはまだ面識ないだろうがね」
「レイチョウ少佐? 士官学校で、名前だけは聞いたことがあるぞ! 桜城きっての智将で、優れた軍師だとか」
「有給取って今は自分の城にもどってるはずさ。訪ねて行けば力になってくれるだろう」
「その話、信用できんのかよ」
訝しげに目を光らせ、ツバキがメモと老婆を交互に見やる。
「人生は選択の連続だと言ったろう。どのみち、崖っぷちのお前に、選ぶ権利なんかないのさ」
老婆の言う通りだった。ツバキは肩をすくめ、メモを軍服のポケットにしまう。
「……ふん、ま、いいや。でも、バーさんに軍人の身内がいたとはね」
「まあアタシも昔は、軍で土俵せましと暴れたクチだからね」
「え。近衛連隊は『男』しか入れな——」
青くなったツバキとアニスがよく見ると、老婆の顎にはうっすらと青い無精髭が生えかけていた。
店を出たツバキは、まず古着屋で軍服を売り、代わりに適当なトラックジャケットを購入した。
アニスの白衣をじろじろ眺めながら、ふーむと腕を組む。
「あんたもそれ、目立つから着替えたほうがいいな。今時の女の子の服って、どーいうのが流行ってんの?」
「わかりません。あまり興味なくって」
「しょーがねェなァ」
女性用のハンガーラックからツバキが服を見繕うが、自分もさっぱりわからない。結局マネキンが着ているコーディネートを一式買い取った。
「マイドオオキニ」
国籍不明のチョビヒゲを生やした親父が、舌ったらずに手もみする。
ぴったりとしたショートパンツに、ジップアップパーカー。
シスターたちが見たら、まず眉をひそめそうな短さのボトムである。
それでも、キャンディカラーのかわいらしいパーカーは、わたあめみたいなふわふわの素材で、アニスは思いのほか気に入り、袖を頬ずりした。
(寄宿舎にいたら、こんなの一生着ることなかったかも)
うきうきと髪もほどいたアニスを無言で一瞥し、
「ふーん。ま、いんじゃねェの?」
と、ツバキは無関心によそを向く。
「自分じゃないみたいです」
「あんただってすぐバレたら困るからな、ちょーどいいよ」
「あの、お代はどうすれば」
「桜城に請求するし。どうせあんた今、金持ってねーだろ」
ひらひらと片手を上げると、ツバキは次に中古のモーターショップへ向かった。
「ここで移動手段を物色するからちょっと待ってな——って、いねェ」
さっきまで隣を歩いていたはずのアニスは、すでに視界にいなかった。見ると、店内を物めずらしそうに、きょろきょろと見回している。
「エンジンにニトロを積んで走るんですかあ、すごい」
アニスが店員の話を熱心に聞くさまを、ツバキは唖然と見ていた。
(それは興味あるのかよ、ヘンなやつ)
乗り物を決めたツバキは、ヘルメットを二つ購入した。だが、アニスは顔をしかめて受け取ろうとしない。
「わたし、バイクの免許持ってないんですけど……」
「大丈夫、運転するのおれだから」
店内に並ぶサンドバギーに、ちらりとアニスは目をやる。
「あの、わたし、車のほうが……」
「こっちのほうが身軽で動きやすいんだよ」
「でも、二人乗りなんて(あんなにぴったりくっついて)」
通りを駆け抜けるカップルの乗ったバイクに目をやり、アニスは露骨にいやそうな顔で下を向いた。
「あのなァ、レイチョウ少佐の城に行くって決めたんだろ? 二人乗りくらいでビビってんじゃねェよ」
「ビ、ビビってるわけじゃ……」
決めたのは確かだが、デリカシーのない物言いにアニスはむっとなる。
「わっ、ちょっ……!」
ツバキは無理やりアニスにヘルメットをかぶせると、バイクの後部座席に有無を言わさず乗せ、自分もシートにまたがった。アニスの腕を取り、自分の腹に回させる。
痩身でありながらバネのあるツバキの躰は身体能力の高さを物語っており、腹部も固い筋肉で覆われていた。
アニスは自分のマシュマロのような腹を思わずぽよんと突き、初めて触れる異性の躰にヘルメットの中で赤面した。
そんなアニスの心中などつゆ知らず、ツバキがキーをイグニッションに入れる。グリップを捻ると、エンジンが快適な音を立てた。
「ちょ、無理です! こんなの……!」
「気になってたニトロエンジン試せるぞ、よかったな。さあ、しっかりつかまってないと落っことすぜ!」
「うっ——ひゃあぁぁぁ!」
躊躇と悲鳴は、すぐに爆音に打ち消された。
急発進したサンドバイクは、砂塵を巻き上げながら市民街を突っ切ってゆく。角を曲がるたび車体が地面すれすれに傾く恐怖に、アニスは何度もぎゅっと目をつぶった。
そっと薄眼を開くと、街がミラーにすい込まれどんどん遠ざかる。学院の鐘塔がかすかにけぶって見えた。
(次、あそこへもどれるのはいつなんだろう。ううん、もう、もどれないかもしれないんだ)
細かな灰の粒子が混じった風がアニスの頬を擦り、ちくちくと痛んだ。
最初のサービスエリアで休憩を取ったとき、アニスはすでにぐったりと疲れていた。
ふたりは今、海岸線を通りレイチョウ少佐の城へ向かっている。
「食う?」
ツバキが売店で買って来たオレンジ色のソフトクリームをさし出すと、とたんにアニスの表情がぱっと輝く。
「小ぶりのミニオレンジがこの辺の特産なんだよ。あーあと、板チョコも大量にあるぞ。賞味期限切れでまじィけど」
甘味で少しだけ機嫌を直したアニスに、ツバキは改めて自己紹介をした。
「おれ、ツバキ・リクドウ。桜城近衛連隊の二等兵だ。あんたのことは何て呼びゃいい? ……って、王女さま、か」
「王女さまはやめて下さい。そんなのわたし、信じてませんから」
アニスはぶんぶんと首をふって下を向く。
「でも前王のDNAと一致したら、あんた王女さまだぜ」
「もしそうだとしても、わたし王宮に住んでたわけじゃないし、白衣と寝まきしか持ってないし、ドレスなんか着たこともないんです。そんな人間が、いきなり王室で暮らせるはずありません」
「ふぅん……ま、そっから先はおれの知ったこっちゃないからいーけど。で、あんた名前は?」
相変わらず粗野な態度が気に障り、アニスもそっけなく返す。
「アニス・リィです。でもみんな、博士って呼びますからそれでいいです」
「それ、あだ名? 肩書き?」
「どっちもです」
「あ、そう。じゃあアニス博士、で」
何気なくつぶやいたツバキの一言に、アニスの心臓が一瞬、小さな拍子を刻んだ。
『アニス』。
学院ではリィ博士と揶揄される中で、その響きはアニスにとって面映ゆいものだった。
名前を呼ぶ者は、シスターたち以外誰もいなかったから。
そんなアニスの胸懐など知らず、ツバキは自分もソフトクリームの山にかみつく。
アニスも少しゆるんだクリームをすくうようになめると、潮風の中ひんやりとしたあまさが舌に心地よく溶けた。
沿岸に降る灰は塩分をふくんでいるので、建物はもちろん人体にもすぐにこびりつく。そのため、この辺りを出歩く者はあまりいない。
「……さてと、食ったら行くか」
コーンの包みをゴミ箱に捨てると、ふたりは駐車場にもどった。
早くから、ツバキは尾行に気づいていた。
人通りが少ない地区なので車は目立つ。海岸線はだいたい、ツーリングのサンドバイクか事業用トラックしか走っていない。
その車は、市民街を出る前からついて来ていた。
ツバキのバイクの数台後ろに割り込んで入って来た、砂地仕様にタイヤを改造した黒のBMWセダン。サービスエリアでも車から降りもせず、すみに駐車していた。
ドライバーも黒服にサングラスと、わかりやすいビジュアルだ。
(マフィアみてェなナリして素人かよ)
ツバキは鼻で笑い、こちらが気づいていると悟られないよう、しばらくは普通に走行した。海岸通りから内陸部への脇道へ入ると、いきなりギアをセカンドに入れスピードを上げる。
「ちょっ……リクドウさん!」
当然向こうはあわてて追って来るが、小道では敏捷なバイクにどんどん離される。わざといくつも角を曲がると、アニスが何度もわめいて訴えて来たが今は無視した。
街中へ突入しても、懲りずに相手は追って来た。だが混雑した車道では二輪車について来られるはずもない。
ついに二百メートルほど水をあけられ、やがてバイクのミラーから黒のBMWは消えた。
ツバキは辺りを確認すると、道路脇にバイクを止めた。アニスがヘルメットをはずし、ものすごい勢いで道端に投げる。
「リクドウさん、何ですかあの運転! 死ぬかと思ったんですよ!」
「まあまあ、無事生きてるから」
尾行されていたと聞けばアニスが怖がると思い、ツバキはへらへらと躱す。だがアニスはがみがみとまくし立てた。
「制限速度を八十キロはオーバーしてましたよ!」
「お前は取締りの婦警かよ」
「はぐらかさないで下さい、だいたいあなたは」
「——!」
いきなりツバキはアニスをかかえ、路地裏に転がり込んだ。ふり返ると、一度通り過ぎて行ったバイクが引き返して来る。
そのメタリックな車体に、ツバキは見覚えがあった。海岸線をツーリングしていた、大型のサンドバイクの一台。
ドライバーは、灰だらけのよくあるジャンプスーツを着ている。
いかにもな怪しさを醸し出している、黒のBMWに気を取られ気づかなかった。初めから、追跡車は一台ではなかったのだ。
「……くそっ、おれのミスだ」
ツバキは舌打ちをすると、すぐさまアニスの手を引いて走り出した。
「ちょっと待って、灰が目に……!」
ヘルメットを、さっき投げ捨ててしまったのだ。ツバキはアニスの縺れる足を躰ごとかつぎ、路地を疾走した。
バイクは狭い通路を歩道に乗り上げ追って来る。ツバキは、露店のフルーツショップの屋台をわざと薙ぎ倒し駆け抜けた。
「すまん、桜城にツケといて!」
とりあえず詫びるが、返事の代わりに怒鳴り声が飛んで来る。
走行を妨害したつもりだったが、バイクはいっせいにぶちまけられたオレンジを避け、通りの壁へジャンプすると地面と平行に走って来た。
「あの重量で嘘だろ!?」
ツバキは猫しか通らないような細い路地へ逃げ、窓から民家へ踏み込んだ。
ガレージへ回ると、ちょうどビーチバギーで出かけようとする青年が、鼻歌を歌いながらキィを入れている。
ツバキは助手席にアニスを突っ込むと、青年を突き飛ばし自分も運転席に収まった。
「ちょっと借りるよ、請求は桜城に!」
わめきながら追いかけて来る青年に言い放ち、強くアクセルを踏む。大通りに出ると、とたんに視界が開けた。
ツバキはダッシュボードに入っていたゴーグルを装着し、自分のヘルメットをアニスにわたす。窓を下ろし、コンバーティブルのルーフを全開にした。
「どうしてオープンにするんですか!」
走行中は灰をもろに受けるので、窓はもちろんルーフを開ける者など誰もいない。五分でシートはざらざらだ。
「このほうがスピードが出る!」
「出ません。車は空気抵抗が増加します」
「車じゃない、おれが出るの!」
「もう! いったい何が起きているんですか!?」
ここまで来れば、ツバキとて隠しようもない。
だが非常時のわりにはツバキの瞳孔は興奮して最大に開き、喜悦に昂っていた。街で襲ってきた刺客と同じ匂いを感じる。
「バーさんが言ってただろ、ニュースの子の二の舞になるって——ほら、来なすったぜ、お客さんがァ!」
ミラーに、さっきのサンドバイクが小さく映っている。渋滞になれば、今度は車であるこちらが不利だ。
「レイチョウ少佐の城から離れるがしょうがねェ、撒いてからもどるぞ!」
ツバキは街からできるだけ遠のくため、アウトバーンに入った。
「バイクも高速に乗って来ました!」
シートにしがみついていたアニスは顔を上げ、ふり返って叫ぶ。カーブで傾いたサンドバイクは、直線に入る寸前エンジンをふかし加速して来た。
これではすぐに追いつかれてしまう。
ツバキも並ぶ車を縫うように大きくハンドルを切り、列の先頭に躍り出た。飛んで来る罵声を無視して、アクセルを踏み込む。
とたん、サイドミラーが粉々に飛び散った。
「きゃああ!」
もう片方のミラーに目をやると、ジャンプスーツの腕がグリップを離れ、両手で銃をかまえている。
「アニス博士、シートに身を沈めろ!」
ツバキは何度も車線を変更し、S字を描きながら前の車を追い抜いて行った。だがバイクは数台後をぴったりとついて来ながら発砲する。
後方車のリアウィンドウが激しい音を立てて弾け、スピンしながら壁にぶつかった。
交通混乱とクラクションの嵐の中、高速は急カーブにさしかかった。ツバキが、速度計を一気に百八十キロまで上げる。
「やめて! 灰でスリップするわ!」
「頭に穴が開くよりマシでしょ!」
「正気——!?」
応酬の中、ビーチバギーは横滑りすると、前方を走っていたトレーラーの前に突っ込んだ。
すぐさま、ハンドルを逆に切り体勢を立て直す。トレーラーのクラクションが悲鳴をあげ、軋んだタイヤが傾きながら車線を滑った。
前方を巨大なコンテナでいきなり塞がれ、バイクは車体が横倒れしスリップした。後方からクラッシュ音が連続して聞こえる。
見返れば、すべての車線で玉突き事故が起き、車のバリケードができていた。
あの様子では、もう追って来るのは無理だろう。
「やったぞ!」
ツバキが躰を捻ってガッツポーズを取る。
「——リクドウさん、前!」
青くなって声をあげたアニスの前方に、料金所が見えた。
エアバッグの下から何とか這い出たふたりは、しばらくものも言えずに地面に這いつくばっていた。
「……へ、平気か?」
やっとのことでツバキに身を起こされ、アニスは脱出したビーチバギーをふり返る。見事につぶれたボンネットが目に入り、ぞっとした。
よく無事でいられたものだ。
近づいて来る青い回転灯とサイレンに、ツバキがはっとしたように顔を上げた。遠くから緊急車両が向かって来る。
「まずい、警察だ」
もともと、命令系統を異とする近衛連隊と警察軍は、日頃から対立している。
騒ぎの根元がツバキだとわかれば、強制的にふたりとも城に送り返されてしまうだろう。最悪、任意同行を求められる可能性もある。
(——そうなりゃ、何もかもパーだ)
ツバキは高速の塀から、視界に収まる限り全景を見下ろした。数メートル下を普通道路が交差している。
「アニス博士、どこも怪我してねェな? 大丈夫だな?」
「え? ええ。あの……何するつもりです?」
めずらしく真剣な顔で確認するツバキにいやな予感がして、アニスは身を固くして訊いた。
轟音がして、収集した降灰を積んだトラックが下道を走って来るのが見える。
(まさか……)
顔を引きつらせてふり返った瞬間、アニスはツバキに抱きかかえられ宙を飛んでいた。
国王が、わたしのスカートをめくった。いつもニヤニヤとこちらを見ていたので不快だったが、とうとう犯罪を犯したか。
フリルの数を数えていた自分は理数系だからとか、スカートの中には幸せがつまっているなどと意味不明な供述をするので、クビを覚悟で殴る。
アニスをかかえグレーターからコミューンへ出て来たツバキは、通りの向こうに数人の近衛兵の制服を見つけ、すばやく建物の陰に隠れた。
「向こうの路地にいるぞ!」
彼らは迷わずこちらへ向かって来る。
(何でおれの居場所がわかるんだ? ——あっ!)
城から支給されている携帯電話をあわてて叩き割る。GPS機能がついていたのだ。だが、追われる理由も狙われる理由も、さっぱりわからない。
「とにかくどこか安全な場所へ——」
アニスをふり向いたたツバキは、自分目がけて噴出される寸前のスプレーを間一髪で止めた。
「——っとォ、二度も同じ手に引っかかると思うなよ?」
ニヤリと悪い笑みを浮かべたツバキにスプレーごと手をつかまれ、アニスはじたばたと暴れる。
「いやっ、離して! あなたのそばが一番危険です!」
「おれは安全だ! 騒ぐんじゃねェ、手間かけさせんな、言うことを聞け!」
気づけば、ざわざわと周りは不審な目でツバキを見ている。
軍服を着ているとはいえ、今のやり取りはどう見てもツバキが悪者だ。警察軍が、人ごみを割って入って来た。
「……きみ、ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「……あ、いや。ち、違うんです。こいつ——痛ェっ!」
狼狽えるツバキの一瞬の隙をつき、アニスはツバキの腕にかみついて逃げた。
「あっ待て、こら!」「待ちなさい、きみ!」
警察軍の声も無視し、ツバキは駆け出す。アーケードを抜け広場を走り、白衣の少女を追う軍人を、通行人も興味深げに見送った。
後ろをふり返りふり返り、息を切らせながらアニスは小路に入る。とたん、いきなり背後から口をふさがれ、路地裏の勝手口にあっという間に引っぱられた。
(今の捕獲の仕方、トタテグモのよう——)
などとアニスが思ったドアが閉まる瞬間、通りを駆け抜けるツバキの姿が見えた。
注・トタテグモ——巣穴の裏で待ち伏せし、獲物が通るとすかさず捕まえ、巣に引きずり込む習性を持つ。
(——って、そんなこと考えてる場合じゃない!)
ぐるぐる巻きで椅子に縛られたアニスは、我に返った。
薄暗い店内は、夜から開店するバーのようだった。テーブルは椅子が上げられ、カウンターにも誰もいない。天井の明り取り窓から射す光だけが、スポットライトのようにアニスと男を照らしている。
こちらに銃口を向けているサングラスとスーツの男は明らかに、あの軍人よりはるかに危険な香りがした。
「きみみたいなかわいい子に恨みはないけどね、きみが生きていると都合の悪い人間もいるってことで」
アニスにこれっぽっちも興味のない口調は、殺しがただの作業である仕事を物語っている。男はカチリ、と遊底を引いて装弾し、アニスに銃口を向けた。
アニスはぼんやりと、銃の作りを見ていた。いつも、ワンテンポ遅れて感情はついて来る。
(あれが発射されたら、わたしは……)
突然、入り口のドアをノックする音がした。
一瞬、あの軍人が追って来たのかと期待したアニスだったが、それっきりの沈黙に絶望した。男は黙って銃をかまえたまま、ドアのほうを警戒している。
ふいに、ぱらぱらと、天井からゴミのような薄片が舞い落ちた。
(……?)
アニスが顔を上げた瞬間——
「!」
開かれた明り取り窓を影が遮り、天井からツバキが降って来た。
「——がっ!」
背中に乗られ男は床に倒れたが、すぐに横へ転がり体勢をもどす。男が向けた銃を、ツバキも敏捷に蹴り落とす。
だが接近戦に持ち込んだ男は、ツバキの手首を鮮やかに捻り、躰ごと投げ飛ばした。
「ぐはっ……!」
ツバキはバックバーにぶつかり、酒瓶が派手に砕け散った。間髪入れずに男がツバキにのしかかる。
絡まりあったまま、ふたりはカウンターの裏に転がっていった。ガラスの割れる音、人体を殴る音、呻き声。
そしてやがて何も聞こえなくなり、アニスは青くなってバックバーを見た。ゆらりと、ひとつの影が立ち上がる。
「——な、おれのほうが安全だろ」
ぼろぼろのドヤ顔でニヤつくツバキに、アニスはこわばった表情がようやく破顔した。
「休んでるヒマねェぞ」
ツバキはアニスの縄を解き通りへ出ると、例の雑貨店へ向かった。老婆は相変わらず、競馬新聞に真剣な顔で見入っている。
「バーさん。おい、バーさん!」
声をひそめつつも聞こえるように呼ぶが、やはりこちらを見向きもしない。
(くっそ、わざとだな……)
そうこうしているうちに、辺りを見回しながら近衛兵が近づいて来る。ツバキは身をかがめ、あわててショーケースの上にくしゃくしゃになったお札を投げた。
「チョコひと箱!」
ニタリと魔女のような笑いを浮かべ、老婆がふたりを奥のスペースへ招くと同時に、近衛兵が店の前を通り過ぎて行った。
「おやまあ、痴話喧嘩かい。ツバキ・リクドウ二等兵」
老婆は怯え気味のアニスに目をやり、ツバキの痣と傷だらけの顔をからかう。だがツバキは、怪訝な顔で畳に上がり込んだ。
「……何でバーさん、おれのこと知ってんだよ」
「アンタはもう、お尋ね者だからね」
雑貨屋の奥は三畳ほどのスペースにパソコンがいくつも並ぶ、デイトレーダーのような小部屋だった。
老婆が、パソコンのひとつをツバキに向ける。ネットニュースには、ツバキの顔写真と名前が流れていた。
罪状、殺人容疑。殺されたのは、ハオウジュ将軍が王女だと主張する少女だ。
「なっ……!? おれは殺ってない! そもそも本当の王女はこいつだ!」
アニスが、ぽかんとツバキを見る。
「……何のことですか?」
「あんた、この女の娘なんだろう?」
ツバキが指令書をさし出すが、アニスは写真の女性に記憶がないようで、考え込んでいる。
ツバキはがりがりと頭をかいた。
「バーさん、説明しろよ! あんた何か知ってるんだろ!」
「アタシは手がかりを、教えただけさ。王女のことなんて知らないね」
ニヤニヤと肩をすくめる老婆を忌々しげに睨み、ツバキはアニスにこれまでの経緯を話した。
「……わたしが、亡くなった王さまの娘?」
アニスは信じられない、という顔で首のほくろをさわる。
「だって、シスター・シキミはそんなこと言ってなかった。お母さんは、ただ病気で亡くなったって……」
「あの教会の墓には、あんたの母親が眠ってるんだろ?」
「そう……聞いています」
「『丘』へ行けば、DNA鑑定をしてもらえる。いっしょに城へ来てくれ」
自信に満ちた顔でアニスを見るツバキを、嗄れ声が遮った。
「待ちな、ボーヤ。今その子が王女だと証明すれば、そのニュースの子の二の舞だよ」
(——そうだ、誰かが継承者を消そうとしている)
ついさっき、アニスはバーで殺されそうになったばかりだ。城の図書館でも。それは、ツバキも身を以って体験した事実である。
(ほとぼりが冷めるまで、彼女だけ警察軍に保護してもらうか? いや、だめだ)
陰謀渦巻くグレーターよりはマシだとしても、近衛兵が徘徊している現状、ここコミューンとて安全な保証はない。
見つかれば城へもどされてしまう。今こうしてここにいる時間すら、安心できない。
「それに——あれは近衛兵じゃない」
バーカウンターで、しばらくは気を失っているだろう男。彼との交戦を思い出し、ツバキはじっと自分のこぶしを見た。
警察軍でも近衛兵でもない、別の組織が暗躍している。
そんな緊迫した空気を破り、考え込むツバキの前をアニスがおずおずと横切る。
「あ、あのー、わたし学院へ帰ります。シスターが心配してると思うので」
「——ちょっと、今の話聞いてた?」
ツバキにぐいと腕を引かれ、アニスは思わず声をあげた。
「ひっ、離して」
「命を助けてやっただろーが」
「そ、それは感謝しています。でも、指名手配のあなたといることだって、危険には変わりありません」
「何だと? あんたを捜し当てたのはおれだぞ」
「み、見つけてくれなんて頼んでません。わたしは、お城になんか行きたくないんです」
老婆が、ひゃっひゃっと肩を浮かせて笑う。
「シンデレラがみんな、ガラスの靴をはきたがってると思ったら大間違いだよ、ボーヤ。ちっとは、女ってもんを勉強しな。だが、その子の素性はもう割れてるよ。学院へも、もう手は回ってるだろうねえ」
見ると、ネットニュースにはツバキが誘拐した被害者として、アニスの顔写真も出ている。
「そんな! じゃあ、わたしはどうすれば——」
「心配するな。責任持っておれが警護するからよ」
キリリと格好をつけて断言するさまにさすがにカチンときたのか、アニスは上目遣いにツバキを睨んだ。
「し、心配するなって、こうなったのは、全部あなたのせいじゃない……!」
「な——何だと!」
老婆はむきになるツバキをおさえつけ、アニスにおもむろに向き直る。
「——お嬢ちゃん、人生は選択の連続だ。今アンタは、その馬鹿のせいで岐路に立っている。だが、決めるのは自分だ。出口のない水槽で安全に暮らすか、危険な大海で自由を知るか。アンタはどっちの魚だい?」
(どっちの……?)
老婆の言葉に、急に高波がどっとアニスの眼前におしよせた気がした。
とたん、白衣のアニスは白くひらひらとした魚になって、波にさらわれる。
満たされた退屈な毎日。この先、自分を待っているもの。
アニスは白衣のすそをぎゅっとつかみ、怖々と怪しい老婆と容疑者の近衛兵を見た。信じるメリットは何もない。これまで、根拠のないルートを選んだこともない。
でも——、
自分が納得できる理由が、いつも選択肢に用意されているとは限らないのだ。
(最初で最後の冒険だわ)
意を決したように顔を上げたアニスを、老婆は三日月のような目で笑った。
「だがまあ、どっちにしろ危険なことには変わりはないからね。これはサービスだよ」
唐突に、地図を描いた一枚のメモがツバキの前にさし出される。
「コミューンにあるアタシの甥の城だ。レイチョウといって、王宮でアンタと同じ近衛連隊に所属してる。入隊したてのアンタはまだ面識ないだろうがね」
「レイチョウ少佐? 士官学校で、名前だけは聞いたことがあるぞ! 桜城きっての智将で、優れた軍師だとか」
「有給取って今は自分の城にもどってるはずさ。訪ねて行けば力になってくれるだろう」
「その話、信用できんのかよ」
訝しげに目を光らせ、ツバキがメモと老婆を交互に見やる。
「人生は選択の連続だと言ったろう。どのみち、崖っぷちのお前に、選ぶ権利なんかないのさ」
老婆の言う通りだった。ツバキは肩をすくめ、メモを軍服のポケットにしまう。
「……ふん、ま、いいや。でも、バーさんに軍人の身内がいたとはね」
「まあアタシも昔は、軍で土俵せましと暴れたクチだからね」
「え。近衛連隊は『男』しか入れな——」
青くなったツバキとアニスがよく見ると、老婆の顎にはうっすらと青い無精髭が生えかけていた。
店を出たツバキは、まず古着屋で軍服を売り、代わりに適当なトラックジャケットを購入した。
アニスの白衣をじろじろ眺めながら、ふーむと腕を組む。
「あんたもそれ、目立つから着替えたほうがいいな。今時の女の子の服って、どーいうのが流行ってんの?」
「わかりません。あまり興味なくって」
「しょーがねェなァ」
女性用のハンガーラックからツバキが服を見繕うが、自分もさっぱりわからない。結局マネキンが着ているコーディネートを一式買い取った。
「マイドオオキニ」
国籍不明のチョビヒゲを生やした親父が、舌ったらずに手もみする。
ぴったりとしたショートパンツに、ジップアップパーカー。
シスターたちが見たら、まず眉をひそめそうな短さのボトムである。
それでも、キャンディカラーのかわいらしいパーカーは、わたあめみたいなふわふわの素材で、アニスは思いのほか気に入り、袖を頬ずりした。
(寄宿舎にいたら、こんなの一生着ることなかったかも)
うきうきと髪もほどいたアニスを無言で一瞥し、
「ふーん。ま、いんじゃねェの?」
と、ツバキは無関心によそを向く。
「自分じゃないみたいです」
「あんただってすぐバレたら困るからな、ちょーどいいよ」
「あの、お代はどうすれば」
「桜城に請求するし。どうせあんた今、金持ってねーだろ」
ひらひらと片手を上げると、ツバキは次に中古のモーターショップへ向かった。
「ここで移動手段を物色するからちょっと待ってな——って、いねェ」
さっきまで隣を歩いていたはずのアニスは、すでに視界にいなかった。見ると、店内を物めずらしそうに、きょろきょろと見回している。
「エンジンにニトロを積んで走るんですかあ、すごい」
アニスが店員の話を熱心に聞くさまを、ツバキは唖然と見ていた。
(それは興味あるのかよ、ヘンなやつ)
乗り物を決めたツバキは、ヘルメットを二つ購入した。だが、アニスは顔をしかめて受け取ろうとしない。
「わたし、バイクの免許持ってないんですけど……」
「大丈夫、運転するのおれだから」
店内に並ぶサンドバギーに、ちらりとアニスは目をやる。
「あの、わたし、車のほうが……」
「こっちのほうが身軽で動きやすいんだよ」
「でも、二人乗りなんて(あんなにぴったりくっついて)」
通りを駆け抜けるカップルの乗ったバイクに目をやり、アニスは露骨にいやそうな顔で下を向いた。
「あのなァ、レイチョウ少佐の城に行くって決めたんだろ? 二人乗りくらいでビビってんじゃねェよ」
「ビ、ビビってるわけじゃ……」
決めたのは確かだが、デリカシーのない物言いにアニスはむっとなる。
「わっ、ちょっ……!」
ツバキは無理やりアニスにヘルメットをかぶせると、バイクの後部座席に有無を言わさず乗せ、自分もシートにまたがった。アニスの腕を取り、自分の腹に回させる。
痩身でありながらバネのあるツバキの躰は身体能力の高さを物語っており、腹部も固い筋肉で覆われていた。
アニスは自分のマシュマロのような腹を思わずぽよんと突き、初めて触れる異性の躰にヘルメットの中で赤面した。
そんなアニスの心中などつゆ知らず、ツバキがキーをイグニッションに入れる。グリップを捻ると、エンジンが快適な音を立てた。
「ちょ、無理です! こんなの……!」
「気になってたニトロエンジン試せるぞ、よかったな。さあ、しっかりつかまってないと落っことすぜ!」
「うっ——ひゃあぁぁぁ!」
躊躇と悲鳴は、すぐに爆音に打ち消された。
急発進したサンドバイクは、砂塵を巻き上げながら市民街を突っ切ってゆく。角を曲がるたび車体が地面すれすれに傾く恐怖に、アニスは何度もぎゅっと目をつぶった。
そっと薄眼を開くと、街がミラーにすい込まれどんどん遠ざかる。学院の鐘塔がかすかにけぶって見えた。
(次、あそこへもどれるのはいつなんだろう。ううん、もう、もどれないかもしれないんだ)
細かな灰の粒子が混じった風がアニスの頬を擦り、ちくちくと痛んだ。
最初のサービスエリアで休憩を取ったとき、アニスはすでにぐったりと疲れていた。
ふたりは今、海岸線を通りレイチョウ少佐の城へ向かっている。
「食う?」
ツバキが売店で買って来たオレンジ色のソフトクリームをさし出すと、とたんにアニスの表情がぱっと輝く。
「小ぶりのミニオレンジがこの辺の特産なんだよ。あーあと、板チョコも大量にあるぞ。賞味期限切れでまじィけど」
甘味で少しだけ機嫌を直したアニスに、ツバキは改めて自己紹介をした。
「おれ、ツバキ・リクドウ。桜城近衛連隊の二等兵だ。あんたのことは何て呼びゃいい? ……って、王女さま、か」
「王女さまはやめて下さい。そんなのわたし、信じてませんから」
アニスはぶんぶんと首をふって下を向く。
「でも前王のDNAと一致したら、あんた王女さまだぜ」
「もしそうだとしても、わたし王宮に住んでたわけじゃないし、白衣と寝まきしか持ってないし、ドレスなんか着たこともないんです。そんな人間が、いきなり王室で暮らせるはずありません」
「ふぅん……ま、そっから先はおれの知ったこっちゃないからいーけど。で、あんた名前は?」
相変わらず粗野な態度が気に障り、アニスもそっけなく返す。
「アニス・リィです。でもみんな、博士って呼びますからそれでいいです」
「それ、あだ名? 肩書き?」
「どっちもです」
「あ、そう。じゃあアニス博士、で」
何気なくつぶやいたツバキの一言に、アニスの心臓が一瞬、小さな拍子を刻んだ。
『アニス』。
学院ではリィ博士と揶揄される中で、その響きはアニスにとって面映ゆいものだった。
名前を呼ぶ者は、シスターたち以外誰もいなかったから。
そんなアニスの胸懐など知らず、ツバキは自分もソフトクリームの山にかみつく。
アニスも少しゆるんだクリームをすくうようになめると、潮風の中ひんやりとしたあまさが舌に心地よく溶けた。
沿岸に降る灰は塩分をふくんでいるので、建物はもちろん人体にもすぐにこびりつく。そのため、この辺りを出歩く者はあまりいない。
「……さてと、食ったら行くか」
コーンの包みをゴミ箱に捨てると、ふたりは駐車場にもどった。
早くから、ツバキは尾行に気づいていた。
人通りが少ない地区なので車は目立つ。海岸線はだいたい、ツーリングのサンドバイクか事業用トラックしか走っていない。
その車は、市民街を出る前からついて来ていた。
ツバキのバイクの数台後ろに割り込んで入って来た、砂地仕様にタイヤを改造した黒のBMWセダン。サービスエリアでも車から降りもせず、すみに駐車していた。
ドライバーも黒服にサングラスと、わかりやすいビジュアルだ。
(マフィアみてェなナリして素人かよ)
ツバキは鼻で笑い、こちらが気づいていると悟られないよう、しばらくは普通に走行した。海岸通りから内陸部への脇道へ入ると、いきなりギアをセカンドに入れスピードを上げる。
「ちょっ……リクドウさん!」
当然向こうはあわてて追って来るが、小道では敏捷なバイクにどんどん離される。わざといくつも角を曲がると、アニスが何度もわめいて訴えて来たが今は無視した。
街中へ突入しても、懲りずに相手は追って来た。だが混雑した車道では二輪車について来られるはずもない。
ついに二百メートルほど水をあけられ、やがてバイクのミラーから黒のBMWは消えた。
ツバキは辺りを確認すると、道路脇にバイクを止めた。アニスがヘルメットをはずし、ものすごい勢いで道端に投げる。
「リクドウさん、何ですかあの運転! 死ぬかと思ったんですよ!」
「まあまあ、無事生きてるから」
尾行されていたと聞けばアニスが怖がると思い、ツバキはへらへらと躱す。だがアニスはがみがみとまくし立てた。
「制限速度を八十キロはオーバーしてましたよ!」
「お前は取締りの婦警かよ」
「はぐらかさないで下さい、だいたいあなたは」
「——!」
いきなりツバキはアニスをかかえ、路地裏に転がり込んだ。ふり返ると、一度通り過ぎて行ったバイクが引き返して来る。
そのメタリックな車体に、ツバキは見覚えがあった。海岸線をツーリングしていた、大型のサンドバイクの一台。
ドライバーは、灰だらけのよくあるジャンプスーツを着ている。
いかにもな怪しさを醸し出している、黒のBMWに気を取られ気づかなかった。初めから、追跡車は一台ではなかったのだ。
「……くそっ、おれのミスだ」
ツバキは舌打ちをすると、すぐさまアニスの手を引いて走り出した。
「ちょっと待って、灰が目に……!」
ヘルメットを、さっき投げ捨ててしまったのだ。ツバキはアニスの縺れる足を躰ごとかつぎ、路地を疾走した。
バイクは狭い通路を歩道に乗り上げ追って来る。ツバキは、露店のフルーツショップの屋台をわざと薙ぎ倒し駆け抜けた。
「すまん、桜城にツケといて!」
とりあえず詫びるが、返事の代わりに怒鳴り声が飛んで来る。
走行を妨害したつもりだったが、バイクはいっせいにぶちまけられたオレンジを避け、通りの壁へジャンプすると地面と平行に走って来た。
「あの重量で嘘だろ!?」
ツバキは猫しか通らないような細い路地へ逃げ、窓から民家へ踏み込んだ。
ガレージへ回ると、ちょうどビーチバギーで出かけようとする青年が、鼻歌を歌いながらキィを入れている。
ツバキは助手席にアニスを突っ込むと、青年を突き飛ばし自分も運転席に収まった。
「ちょっと借りるよ、請求は桜城に!」
わめきながら追いかけて来る青年に言い放ち、強くアクセルを踏む。大通りに出ると、とたんに視界が開けた。
ツバキはダッシュボードに入っていたゴーグルを装着し、自分のヘルメットをアニスにわたす。窓を下ろし、コンバーティブルのルーフを全開にした。
「どうしてオープンにするんですか!」
走行中は灰をもろに受けるので、窓はもちろんルーフを開ける者など誰もいない。五分でシートはざらざらだ。
「このほうがスピードが出る!」
「出ません。車は空気抵抗が増加します」
「車じゃない、おれが出るの!」
「もう! いったい何が起きているんですか!?」
ここまで来れば、ツバキとて隠しようもない。
だが非常時のわりにはツバキの瞳孔は興奮して最大に開き、喜悦に昂っていた。街で襲ってきた刺客と同じ匂いを感じる。
「バーさんが言ってただろ、ニュースの子の二の舞になるって——ほら、来なすったぜ、お客さんがァ!」
ミラーに、さっきのサンドバイクが小さく映っている。渋滞になれば、今度は車であるこちらが不利だ。
「レイチョウ少佐の城から離れるがしょうがねェ、撒いてからもどるぞ!」
ツバキは街からできるだけ遠のくため、アウトバーンに入った。
「バイクも高速に乗って来ました!」
シートにしがみついていたアニスは顔を上げ、ふり返って叫ぶ。カーブで傾いたサンドバイクは、直線に入る寸前エンジンをふかし加速して来た。
これではすぐに追いつかれてしまう。
ツバキも並ぶ車を縫うように大きくハンドルを切り、列の先頭に躍り出た。飛んで来る罵声を無視して、アクセルを踏み込む。
とたん、サイドミラーが粉々に飛び散った。
「きゃああ!」
もう片方のミラーに目をやると、ジャンプスーツの腕がグリップを離れ、両手で銃をかまえている。
「アニス博士、シートに身を沈めろ!」
ツバキは何度も車線を変更し、S字を描きながら前の車を追い抜いて行った。だがバイクは数台後をぴったりとついて来ながら発砲する。
後方車のリアウィンドウが激しい音を立てて弾け、スピンしながら壁にぶつかった。
交通混乱とクラクションの嵐の中、高速は急カーブにさしかかった。ツバキが、速度計を一気に百八十キロまで上げる。
「やめて! 灰でスリップするわ!」
「頭に穴が開くよりマシでしょ!」
「正気——!?」
応酬の中、ビーチバギーは横滑りすると、前方を走っていたトレーラーの前に突っ込んだ。
すぐさま、ハンドルを逆に切り体勢を立て直す。トレーラーのクラクションが悲鳴をあげ、軋んだタイヤが傾きながら車線を滑った。
前方を巨大なコンテナでいきなり塞がれ、バイクは車体が横倒れしスリップした。後方からクラッシュ音が連続して聞こえる。
見返れば、すべての車線で玉突き事故が起き、車のバリケードができていた。
あの様子では、もう追って来るのは無理だろう。
「やったぞ!」
ツバキが躰を捻ってガッツポーズを取る。
「——リクドウさん、前!」
青くなって声をあげたアニスの前方に、料金所が見えた。
エアバッグの下から何とか這い出たふたりは、しばらくものも言えずに地面に這いつくばっていた。
「……へ、平気か?」
やっとのことでツバキに身を起こされ、アニスは脱出したビーチバギーをふり返る。見事につぶれたボンネットが目に入り、ぞっとした。
よく無事でいられたものだ。
近づいて来る青い回転灯とサイレンに、ツバキがはっとしたように顔を上げた。遠くから緊急車両が向かって来る。
「まずい、警察だ」
もともと、命令系統を異とする近衛連隊と警察軍は、日頃から対立している。
騒ぎの根元がツバキだとわかれば、強制的にふたりとも城に送り返されてしまうだろう。最悪、任意同行を求められる可能性もある。
(——そうなりゃ、何もかもパーだ)
ツバキは高速の塀から、視界に収まる限り全景を見下ろした。数メートル下を普通道路が交差している。
「アニス博士、どこも怪我してねェな? 大丈夫だな?」
「え? ええ。あの……何するつもりです?」
めずらしく真剣な顔で確認するツバキにいやな予感がして、アニスは身を固くして訊いた。
轟音がして、収集した降灰を積んだトラックが下道を走って来るのが見える。
(まさか……)
顔を引きつらせてふり返った瞬間、アニスはツバキに抱きかかえられ宙を飛んでいた。