灰と王国のグリザイユ
第四章 アニス、労働する
2113年 8月某日
昨日殴ったはずの国王がなぜか機嫌がいい。ニヤニヤとペンダントなどプレゼントしてくるが、気持ち悪いので返す。
彼はドームの設計に携わったりと、馬鹿に見えて天才だ。凡人には理解しがたい特殊な性癖があるのかもしれない。気持ち悪いので(二度目)、お茶係を別の侍女に代わる。
清掃の仕事は、アニスの想像を越えて過酷なものだった。学院や墓地と違い、数人で片づく灰の量ではない。
そしてわかってはいたが、そもそも灰は雪や雹などと違い、解けてなくなるものではない。掃いても掃いても、次の日にはまた灰溜まりができている。気の遠くなるような無限の作業なのだ。
おまけにゴミ袋はひとつ数キロに及び、アニスにとっては持ち運ぶのも一苦労だった。
「ノルマはひとり三十袋だ」
「……無理です」
「お前の意見など聞いていない」
不敵に微笑むアカザに、アニスは改めてとんでもないところに来たと悟った。
「現場に出ればそのうち慣れる」とアカザは簡単に言うが、数日後には手のひらはマメだらけ、桜貝のような爪と指の間には灰がつまり、すっかり黒くなっていた。
毎朝、躰の節々が筋肉痛で悲鳴をあげる。
「アニス、起きてる? 朝ごはんだよ」
隣りの部屋のアオイが呼びに来るものの、アニスはジョイントに油が足りないブリキ人形のように、起きるのもままならない。
「いらない、寝てるほうがいい……」
「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ美容にもよくないよ。それにここ、朝だけは無料で何でも好きなもの食べていいんだ。いいもの食べなきゃ損だよ」
そう言われても寝起きは食欲がなく、寄宿舎にいたときでさえコーヒー一杯ですましていたくらいだ。
しかし引き下がらないアオイに根負けして、仕方なく食堂へ向かう。
寄宿舎の食堂の数倍ほどの広さもあるホールは、すでに作業員で大にぎわいだった。さらにメニューも豊富で、朝から一ポンドステーキを食べている強者もいる。
グラノーラを小皿にすくうアニスにアオイは、
「そんな鳩のエサみたいなのだけじゃ足りないよ!」
と、ホットミールのカウンターに連れて行く。賄い担当の調理人が、目の前でパンケーキやオムレツを焼いてくれるコーナーは人気らしく、長い列ができている。
カリカリのベーコンやマッシュポテトを適当に皿によそっていると、マントを颯爽と羽織りアカザが人ごみを分けてやって来た。
「おはようございます、アカザさま」
「おう、ちゃんとそのやせっぽちのお嬢ちゃんに食わせてるか、アオイ」
アカザはアニスのトレイをじろりと見下ろす。
「だめだ、そんなんじゃ一日働けねえぞ」
さらにチキンやゆでたヒヨコ豆を勝手にどっかりと皿に盛られ、アニスはうんざりと肩で息をついた。
「ところで、リクドウさんはどうしてますか? ちゃんと食べているんですか?」
ツバキのいる病室とアニスの部屋は、同じ館内とはいえ離れている。
アカザはリンゴをかじりながら、飄々と答えた。
「ああ、もちろん。怪我人にふさわしいもん食わしてやってるよ——」
——一方、病室では、相変わらずツバキがカシと口論をくり広げていた。
「おい、ふざけんな! 育ち盛りの男子が、こんな鳩のエサみてェな朝メシで足りると思ってんのか、せめてクラブハウスサンド持って来い!」
ツバキがグラノーラの入った小皿をスプーンで叩く。
「一日中ベッドの上なら、たいしてカロリーも消費しないだろう——また昼に来る」
「おい待て、この固太り!」
叫ぶツバキをまる無視して、カシはのしのしと部屋を出て行く。ひとり残されたツバキは、小皿に添えられたミルクを注ぎ、やけになってかっこんだ。ぼりぼりとグラノーラをかみしだき、ふと我に返る。
(——アニス博士は、どうしてるだろうか)
おそらく、寄宿舎から生まれてこのかた、出たことのない世間知らずだ。見知らぬ土地で、心細い思いをしているに違いない。
ツバキは、ここ数日とんと姿の見えないアニスの身を案じた。
そんな心細さを感じるひまもなく、アニスは今日も仕事に追われていた。
毎日早朝から起き出し、日中は陽が暮れるまで灰掃除の作業。夜になれば交代制で食事当番が待っている。後片づけ、入浴をすませると睡魔に襲われ、就寝時刻を待たずにベッドへ倒れ込む。
夜通し実験をくり返していた生活が懐かしい。
(もういや、寄宿舎に帰りたい)
学院は決して居心地のいい場所ではなかったが、規則に縛られていても人並みの生活が保障されていた。口やかましいシスターの保護下にあった毎日が、いかに恵まれていたかを思い知らされる。
こんな劣悪な環境で、文句も言わず元気に働く工場の面々が信じられなかった。
ツバキは、ハイイロウサギはギャングだと言っていなかったか。
ツバキが買ってくれたふわふわのパーカーは、ここへ来てすぐに降灰で生地がぼそぼそになり、古タオルのような質感になってしまった。
ハンガーにかかったままの薄汚れた服を見ると、悄然となる。
(——やっぱり自分はお姫さまなんかじゃない、ずっと灰かぶりなんだ)
アニスは情けない気持ちで、灰を掃く箒をにぎりしめた。
翌日、天候は最悪だった。強風に混じって灰が舞うと、顔がちくちくする。アオイが、鈍色の空を見上げて言った。
「台風が来てる。こんな日は外に出ないほうがいいんだよ」
「今日は中を手伝ってもらおう」
アカザに連れられて工場へと入る。むわりとした油っぽい熱気に迎えられ、アニスはまわりを見回した。中では、外の作業員と変わらない完全防備の作業員たちが、各部署で規則正しく動いていた。
どろどろした液体が大釜の中で撹拌され、型に流し込まれる。別のエリアでは、チーズのような塊を均等にピアノ線で切っているチームもいる。
(何? 食べもの……?)
パッケージングされた商品を見て、アニスは驚いて言った。
「——石けん、ここは石けんを作っている工場なのね!」
「ご名答」
アカザが得意顔でふり返る。
「スクラップは工場区だ。食品会社、金属製造会社と、石けんの原料になる廃油はありあまるほどある。これなら元手不要で商品が作れるというわけだ」
「なのに、なかなか儲からないのはなぜなんですかね」
「うるせえ。お前はひとつでも多く商品を作って来い」
毒づくアオイの頭を、アカザはぐいっとおし込めた。
アニスは、工場奥の一室へ通された。
「お前には今日は、ここで事務を手伝ってもらう。納品を手配する部署だ」
そこは工場ほどの動きはなく、みな机に向かっていたが、ピリピリと謎の緊迫感が漂っていた。
(でも、いつもの重労働よりはマシだわ)
お願いします、とぺこりとを垂れるアニスに、部署の責任者であるヒノキがせかせかと説明をする。
「ええと、アニスくん? きみにはオペレーターをしてもらうよ。なんせ納期が近くてね、人手が足りないんだ」
ヒノキに一通り受け答えの説明を受け、電話の前で待機する。ヘッドセットをつけるとドキドキと緊張した。
プルルルル。
「『ハイト油脂』です、マイドオオキニ! はい、○○ですね、ただ今代わります!」
「……アニスくん、アニスくん。毎度おおきに、はないんじゃないかな? 普通にお世話になります、でいいから」
ヒノキが額の青筋を抑えつつ苦笑する。
(古着屋の店員さんが使ってたんだけどなあ)
アニスが首を捻る間もなく、再びコールが鳴る。
「はい、ハイト油脂です、お世話になります! HS石けん十ダースご注文ですね、ありがとうございます!」
——カチャ。
「……アニスくん? 今の注文どこから?」
受話器を置いたアニスに、ヒノキが訝しげに尋ねる。
「あっ、聞き忘れました!」
「早く着信見て、着信!」
「ええと……イズム船舶さまです!」
プルルルル。
「はい、ハイト油脂です! ハレルヤマーケットさま。えっ発注ミス? 商品コードHSからSー2に変更ですね。承知いたしました」
「はい、ハイト——あっ、石けん十ダースのシズム船舶さま! あれ沈む——? あっすみません、待って、切らないで!」
呆然とマイクを見つめるアニスに、ヒノキが目からビームをだしそうな勢いでぎりぎりと睨んでいる。
「……き〜み〜!」
プルルルル——
怒涛の午前を終え、アニスがぐったりと机にうつ伏せていると、血相を変えた社員がひとり飛び込んで来た。
「ハレルヤマーケットの納品手配したの、誰?」
「おれだけど」
ひとりの社員が立ち上がる。
「何か、Sー2に商品変更したのに違うって」
「変更なんて聞いてねえけど——」
ヒノキを初め、みなの目がいっせいにアニスへ集まる。アニスは、はっと青くなった。
(しまった——変更の電話、受けたんだった!)
「ハレルヤマーケットは、明日がオープンだぞ!」
「在庫は!?」
ヒノキの言葉に、動揺とざわめきがが走る。
「Sー2はここにはねえ。でも旧市街の倉庫にならある!」
「わっ、わたし、取って来ます!」
「あっ、ちょっと待て!」
ヒノキが止めるのも聞かず、アニスはゴーグルとマスクをつかむと、弾かれたように工場を飛び出した。
旧市街の倉庫——偽のハイイロウサギに襲われた、あのビルのことだ。
だが外は灰が幾千もの針になり、ブリザードのように吹雪いていた。
しばらく行くと刺すような痛みに襲われ、アニスは思わず立ちすくんだ。ゴーグルをつけていても、ろくに前が見えない。
ひどい砂嵐のせいか、出歩く者はおろか、車両さえ見かけなかった。店舗もシャッターを閉め、営業している様子はない。
ふと、灰色の砂塵の中、アニスは店の軒先に小さな人影を見咎めた。
急いで近づくと、ひとりの少年が防具もなしにうずくまっている。うっかり、忘れて出て来たのだろうか。
だが、この天候でそれはない。少年は、躰のあちこちに傷跡が窺えた。襲われ、防具を奪われたのだと気づき、アニスは血の気が引いた。
アオイが言っていた。上等な防具は、狩られてしまう危険性があると。
少年は砂粒で表皮が固められ、息ができているかも怪しい状態だった。
「大変、早くどこかで診てもらわなきゃ……!」
アニスは、少年の頬を覆う細かい粒子を払い、自分のマスクを彼へとつけ替えた。薄く目を開けた少年のかすかな呼吸を確認すると、自分とさほど変わらない背丈を背負い、急いで病院を探し始める。
「待ってて、もう少しがまんしてね」
だが通りをいくらも進まないうちに、アニスは灰で滑って転倒した。はずみで、ゴーグルが飛んでいく。
(……!)
そうなるともう、目を開けていられなかった。倒れた躰にも容赦なく灰がふきつけ、少年を背負ったまま、立ち上がることもままならない。
ふきすさぶ灰が顔にはりつき、自分の呼吸すら危うくなった頃、急停止したサンドバイクから聞いたことのある声が降ってきた。
「こんな天気に出かけるとは、お前もあいつに劣らず馬鹿だな」
涙でぼやけた視界に、迷彩のジャンプスーツを着た完全防備の男が、アニスの腕をつかんでいる。ガスマスクで声がくぐもってはいるが、アカザだとわかった。
アニスは少年をかかえ、アカザに懇願した。
「あの、この子をすぐ病院に!」
「ああ、わかっている——おい!」
バイクの後ろに控えていた車を呼ぶ。社員が運転する車に、無事少年が乗せてもらうのを見ると、アニスは安心して改めてアカザを見上げた。
「あ、あの、すみません……注文変更の電話、わたしのせいです」
アカザはこちらも見ずに、おもしろくなさそうに答える。
「下のヘマはトップの責任だ」
顔が見えないのでわからないが、怒っているようだ。だがアカザは、アニスを風の当たらない建物の軒下へ連れて行くと、淡々と述べた。
「天候の脅威について予め説明しなかったのは、こちらのミスだ。まあ、まさか知らんとは思わなかったがな。ただの台風でも灰都では砂嵐。長時間屋外にいれば、さっきの子のように命にも関わる。倉庫へは車を出すつもりだった」
やがてヒノキを初め、アオイたち社員の乗ったトラックが駆けつけた。
「あっ、みなさん、すみま——」
「アニス、外に出たって聞いて心配したんだよ!」
謝罪も言い終わらないうちにアオイに抱きつかれ、アニスは動揺してまわりを見た。ヒノキはやはり睨みを利かせているが、ほっとしたように額をぬぐっている。
「さあ、急いで商品を運ぶぞ」
アカザの一声に、アニスもトラックに同乗し倉庫へ向かった。マーケットへ無事納品が済んだ頃、ヒノキにはくどくどと一時間にわたり説教をされたが、誰もアニスを責める者はいなかった。
場末のこの工場に潔さと正しさを垣間見たアニスは、いつしか仕事への接し方が変わってきた。
「アオイ、こんな重いもの、そんな小さい躰でよく持てるわね」
いつもの灰袋運びで、アニスが感心したように息をつく。今ではアニスも、一日三十袋のノルマをこなせるようになっていた。
「小さい、は余計だよ。これでもアニスとふたつしか変わんないんだからね、ぼく」
アオイが得意げに腕をまくって見せると、きれいに陽灼けした二の腕がしなやかに袖からのびている。
「ここにいると、自然と鍛えられるんだよ。でもぼく、本当は絵を描く仕事につきたいんだ」
そう言うとアオイは、積もった灰をキャンバスに、落ちていた枝でがりがりと線を描いていった。
「見て見て、これアカザさま。それでもってこれがリクドウでえ……こっちがアニス!」
うれしそうに指さした地面には、三人の生き生きとした顔がこちらを見ていた。
偉そうなアカザ、むくれているツバキ、笑顔の自分に、アニスは思わず感嘆の声が出る。
「まあ、そっくり」
アオイの画力は、マツリカ女学院の誰よりも群を抜いていた。
「へえ、あのチビ、上手いもんだな」
改めて紙に描いてもらった似顔絵をわたすと、ツバキはアニスのぶんも病室の壁にピンで留め、興味深げに眺めた。
「こっちはもう、ヒマでしょうがねェよ」
言った後で、失言とばかりにあわてて謝る。
「い、いや、すまん。アニス博士ばかり働かせちまって……」
「気にしないで下さい。リクドウさんは命の恩人ですから」
にっこりと笑うアニスに、ツバキはわずかに動揺する。よくよく見れば、仕事明けなのだろう、アニスはそこはかとなく薄汚れていた。
「何かあんた……こき使われてんじゃねェのか?」
「こき使われてますけど、平気ですよ」
あっけらかんと笑って答えるアニスが、ツバキは不思議でならなかった。
明らかに、コミューンを出た頃のおどおどとした感じが消えている。むしろ灰都に来てからのほうが、はつらつとして見えた。
(男子三日会わざればうんぬん——なんて言うが、女だってそうだ)
青白かった肌は健康的にうっすらと陽に灼け、血色もいい。ふらふらとやせっぽちで頼りなげだった体幹も、今やしっかりと地に足がついている感じがする。
自分が負傷している間に何か置いて行かれた気がして、ツバキは焦りを感じた。
(何でだ、アニス博士がどう変わろうと、おれには関係ない。おれの仕事は、彼女が王女だと証明すればいいだけだ——)
もんもんと自分に言い聞かせていた口上が、突然当のアニスによって遮断される。
「あっ、もう行かなきゃ。今から会議なんです」
「会議? 何の!?」
「どうやったら商品が売れるかの、作戦会議だそうです。この工場、結構な負債額があるらしくって」
「……な、何でそんな大事な会議に、アニス博士が出るんだよ」
思いもよらない展開に、頭がついていかない。
「アカザさんが、素人の意見も聞きたいって言うんです。また来ますね、お大事に」
「あの、ちょ……!」
身動きが取れないとはいえ、完全に蚊帳の外である。激しく疎外感を覚え、ツバキは肩を落とした。
アカザが病室のドアの隙間から、ニヤニヤと小馬鹿にした笑みをもらす。ツバキは力任せに、枕を閉じられたドアに投げつけた。
会議はいつもの食堂で行われた。下はアオイから上は七十代の老人まで、あらゆる世代が参加している。
「さて、知っての通りウチは今、危機的状況にある。この現状を打破しないことには、工場に未来はない。そこで、みなの意見を募る」
議長を務めるアカザが、食べ終わったキャンディの棒をぽいと投げ捨て、立ち上がる。
「ブレインストーミングといこうじゃないか。何でも発言してくれ」
「はい! この石けん、すぐ溶けちゃって使いにくいんだ」
早々に手を挙げたアオイの意見を、書記役のカシが太い指で黙々と打ち込む。躰が大きいので、普通のノートパソコンが単行本のようだ。
すぐにひとりの社員も挙手した。
「おれ、匂いがあまり好きじゃないんスよね。廃油そのままで油くさいっていうか」
「あーわかるわかる。フロ用じゃねーんだよな、台所用で」
別の作業員も賛同してくる。ヒノキがサンプルの石けんのひとつを取って、くんくんと鼻に近づけた。
「スタンダードのHS(ハイトソープ)はともかく、Sー2タイプはいちおう香料を入れているが」
「Sー2は安っぽい香水でカラダ洗ってる感じだよ。この桃みてえな匂いがあまったるくてなあ……もっと一般受けする匂いのほうがいいんじゃねえかな」
「む……だが高価な香料は使えんぞ」
ヒノキの指摘に、一同はしばらく考え込んだ。
アニスも思案を巡らせる。
安価で大衆性のある香りは限られているうえ、アロマオイルは大量には使えない。
そのときふと、コミューンのサービスエリアでツバキが買ってくれた、ソフトクリームを思い出した。
「あの、この辺、オレンジが特産だって聞いたんですけど」
「ああ、緋ノ島で採れるミニオレンジね。小さいけど、あまみがあってうまいんだよ」
ヒノキがおやつカゴの中から、ひとつを取ってわたす。
アニスは卵ほどの小ぶりのオレンジをしげしげと見つめ、独り言のようにつぶやいた。
「これなら……」
一方桜城ではここ数日、騒然とした空気が辺りを包んでいた。
王弟ウツギの息子であるシュウカイドウが狙撃された件で、近衛連隊、警察軍といかつい装備に身を固めた各員が図書館を埋め尽くし、捜査を続けていた。
「リクドウか? やつがシュウカイドウを狙ったのか!?」
「……ち、違う、父上。その近衛兵は、ぼくをかばってくれた。むしろ、狙われたのは彼らのほうだと——」
動揺するウツギを鎮めるように、シュウカイドウがおずおずと口を挿む。
「だが事実、リクドウはあの場から逃げたではないか。何か、後ろめたいことがあるのではないか?」
「おまけにプリンセスまで殺害された。どうなっとるんだ!」
ハオウジュ将軍は、イライラと館内を歩き回った。
「その件ですが」
元老院のメンバーが書類を手に、図書館に入って来る。
「あなたが連れて来たあの少女、改めてDNA鑑定をした結果、王家とは何の繋がりもないことが判明しました」
「な……!」
「不思議ですな。いったい、どういった鑑定を試みたんですかな」
「か……鑑定にも穴はあるだろうが! だがプリンセスと思い込み、少女を殺害したのはリクドウなのだろう! あやつ、革命軍かもしれん、早くやつを調べろ!」
頭から湯気を出しそうな勢いで、ハオウジュ将軍は図書館の机を叩いた。タイミングよく、別の近衛兵たちが入って来る。
「ご報告いたします! コミューンでリクドウ二等兵と思われる男に、先日ビーチバギーが盗まれたという通報がありました」
「その同じビーチバギーでしょうか。アウトバーンで玉突き事故が起こった後、姿を消したドライバーが、リクドウ二等兵に酷似していたという目撃情報も」
「そしてどちらの件も、リクドウが城から連れ去った、マツリカ女学院の少女が同行していたらしいのです」
今度ばかりは、ハオウジュ将軍も鬼の首を獲ったかのように、鼻の穴をふくらませて反り返った。
「そらみろ! やはりリクドウめ、殺人を犯したから逃げるのだ。痕跡を追え、何としても捕まえろ!」
もはや、ハオウジュ将軍がDNA鑑定を偽った件は、若き二等兵が犯したであろう殺人事件とすり替わっている。元老院の面々がひそひそと画策を練る。
「おおかた、ハオウジュ将軍の息のかかった偽の王女を王家に迎え入れ、自分に都合のいいよう、国を動かすつもりだったのでしょう」
「だが今は、そこを指摘しても無駄ですな」
「何やらきな臭くなりそうですので、その件は後回し……ということで」
かたや、ウツギは額から徐々に青ざめ、椅子にすわり込んでいる。
「あなた、少しは休まれたほうが。何かリラックスできるお茶でも淹れましょうか?」
頭をかかえるウツギに、ユウカゲがそっとやさしくより添う。特別な医療を施さなくても、彼女の言葉は癒しの効き目がありそうである。
「なぜ自分が任期の際に、もめ事が起きるのだ。もう、政治家でも国王でも同じような気がしてきた……」
「ですがそのリクドウとは、王女に心当たりがあると言った二等兵ですよね? 本当なのでしょうか……」
考えたくないというふうに、ウツギは力なく頭をふった。
静謐を常とするはずの図書館が、ここ数日は床が抜けそうなほど騒がしい。シュウカイドウは、うんざりと天窓から空を見上げた。
(——彼らは、無事なんだろうか)
(——どこにいるんだよ、ツバキ)
心配そうな表情で、図書館に待機していたハッカも見上げる。
思わず目があったふたりはぎこちなく笑いあったが、ふと思いついたようにシュウカイドウがハッカに近づいて来た。
「き、きみは、今年入った近衛兵だな?」
「は、はい! シュウカイドウ王子!」
王家の者に直々に話しかけられたことなどないので、ハッカは即座に姿勢を正し緊張気味に答えた。
「リ、リクドウ二等兵とは、親しいのか?」
「はい、同期の入隊です!」
「彼はその……ほ、本当にひと殺しをするような人間なんだろうか……」
躊躇いがちに尋ねるシュウカイドウに、ハッカはこぶしを固めて力説した。
「——いいえ、何かの間違いです。リクドウは元ヤンで無茶で粗暴で馬鹿なところもありますが、基本はいいやつです!」
フォローになったかわからないが、シュウカイドウはほっと息をついて言った。
「そ、そうか、ならば協力してほしい。彼の無実を証明したい、謎を解きたいのだ。誰が偽の王女を殺したのか、この城で何が起きているのか」
(そして、リクドウが連れて行った少女は、いったい何者なのか——)
自分に課せられたなぞなぞの答えを知るには、慣れ親しんだ図書館の、あの重いドアの向こうへ出て行かなくてはならない。
シュウカイドウの胸に、仄かな炎が熱を帯びた。
昨日殴ったはずの国王がなぜか機嫌がいい。ニヤニヤとペンダントなどプレゼントしてくるが、気持ち悪いので返す。
彼はドームの設計に携わったりと、馬鹿に見えて天才だ。凡人には理解しがたい特殊な性癖があるのかもしれない。気持ち悪いので(二度目)、お茶係を別の侍女に代わる。
清掃の仕事は、アニスの想像を越えて過酷なものだった。学院や墓地と違い、数人で片づく灰の量ではない。
そしてわかってはいたが、そもそも灰は雪や雹などと違い、解けてなくなるものではない。掃いても掃いても、次の日にはまた灰溜まりができている。気の遠くなるような無限の作業なのだ。
おまけにゴミ袋はひとつ数キロに及び、アニスにとっては持ち運ぶのも一苦労だった。
「ノルマはひとり三十袋だ」
「……無理です」
「お前の意見など聞いていない」
不敵に微笑むアカザに、アニスは改めてとんでもないところに来たと悟った。
「現場に出ればそのうち慣れる」とアカザは簡単に言うが、数日後には手のひらはマメだらけ、桜貝のような爪と指の間には灰がつまり、すっかり黒くなっていた。
毎朝、躰の節々が筋肉痛で悲鳴をあげる。
「アニス、起きてる? 朝ごはんだよ」
隣りの部屋のアオイが呼びに来るものの、アニスはジョイントに油が足りないブリキ人形のように、起きるのもままならない。
「いらない、寝てるほうがいい……」
「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ美容にもよくないよ。それにここ、朝だけは無料で何でも好きなもの食べていいんだ。いいもの食べなきゃ損だよ」
そう言われても寝起きは食欲がなく、寄宿舎にいたときでさえコーヒー一杯ですましていたくらいだ。
しかし引き下がらないアオイに根負けして、仕方なく食堂へ向かう。
寄宿舎の食堂の数倍ほどの広さもあるホールは、すでに作業員で大にぎわいだった。さらにメニューも豊富で、朝から一ポンドステーキを食べている強者もいる。
グラノーラを小皿にすくうアニスにアオイは、
「そんな鳩のエサみたいなのだけじゃ足りないよ!」
と、ホットミールのカウンターに連れて行く。賄い担当の調理人が、目の前でパンケーキやオムレツを焼いてくれるコーナーは人気らしく、長い列ができている。
カリカリのベーコンやマッシュポテトを適当に皿によそっていると、マントを颯爽と羽織りアカザが人ごみを分けてやって来た。
「おはようございます、アカザさま」
「おう、ちゃんとそのやせっぽちのお嬢ちゃんに食わせてるか、アオイ」
アカザはアニスのトレイをじろりと見下ろす。
「だめだ、そんなんじゃ一日働けねえぞ」
さらにチキンやゆでたヒヨコ豆を勝手にどっかりと皿に盛られ、アニスはうんざりと肩で息をついた。
「ところで、リクドウさんはどうしてますか? ちゃんと食べているんですか?」
ツバキのいる病室とアニスの部屋は、同じ館内とはいえ離れている。
アカザはリンゴをかじりながら、飄々と答えた。
「ああ、もちろん。怪我人にふさわしいもん食わしてやってるよ——」
——一方、病室では、相変わらずツバキがカシと口論をくり広げていた。
「おい、ふざけんな! 育ち盛りの男子が、こんな鳩のエサみてェな朝メシで足りると思ってんのか、せめてクラブハウスサンド持って来い!」
ツバキがグラノーラの入った小皿をスプーンで叩く。
「一日中ベッドの上なら、たいしてカロリーも消費しないだろう——また昼に来る」
「おい待て、この固太り!」
叫ぶツバキをまる無視して、カシはのしのしと部屋を出て行く。ひとり残されたツバキは、小皿に添えられたミルクを注ぎ、やけになってかっこんだ。ぼりぼりとグラノーラをかみしだき、ふと我に返る。
(——アニス博士は、どうしてるだろうか)
おそらく、寄宿舎から生まれてこのかた、出たことのない世間知らずだ。見知らぬ土地で、心細い思いをしているに違いない。
ツバキは、ここ数日とんと姿の見えないアニスの身を案じた。
そんな心細さを感じるひまもなく、アニスは今日も仕事に追われていた。
毎日早朝から起き出し、日中は陽が暮れるまで灰掃除の作業。夜になれば交代制で食事当番が待っている。後片づけ、入浴をすませると睡魔に襲われ、就寝時刻を待たずにベッドへ倒れ込む。
夜通し実験をくり返していた生活が懐かしい。
(もういや、寄宿舎に帰りたい)
学院は決して居心地のいい場所ではなかったが、規則に縛られていても人並みの生活が保障されていた。口やかましいシスターの保護下にあった毎日が、いかに恵まれていたかを思い知らされる。
こんな劣悪な環境で、文句も言わず元気に働く工場の面々が信じられなかった。
ツバキは、ハイイロウサギはギャングだと言っていなかったか。
ツバキが買ってくれたふわふわのパーカーは、ここへ来てすぐに降灰で生地がぼそぼそになり、古タオルのような質感になってしまった。
ハンガーにかかったままの薄汚れた服を見ると、悄然となる。
(——やっぱり自分はお姫さまなんかじゃない、ずっと灰かぶりなんだ)
アニスは情けない気持ちで、灰を掃く箒をにぎりしめた。
翌日、天候は最悪だった。強風に混じって灰が舞うと、顔がちくちくする。アオイが、鈍色の空を見上げて言った。
「台風が来てる。こんな日は外に出ないほうがいいんだよ」
「今日は中を手伝ってもらおう」
アカザに連れられて工場へと入る。むわりとした油っぽい熱気に迎えられ、アニスはまわりを見回した。中では、外の作業員と変わらない完全防備の作業員たちが、各部署で規則正しく動いていた。
どろどろした液体が大釜の中で撹拌され、型に流し込まれる。別のエリアでは、チーズのような塊を均等にピアノ線で切っているチームもいる。
(何? 食べもの……?)
パッケージングされた商品を見て、アニスは驚いて言った。
「——石けん、ここは石けんを作っている工場なのね!」
「ご名答」
アカザが得意顔でふり返る。
「スクラップは工場区だ。食品会社、金属製造会社と、石けんの原料になる廃油はありあまるほどある。これなら元手不要で商品が作れるというわけだ」
「なのに、なかなか儲からないのはなぜなんですかね」
「うるせえ。お前はひとつでも多く商品を作って来い」
毒づくアオイの頭を、アカザはぐいっとおし込めた。
アニスは、工場奥の一室へ通された。
「お前には今日は、ここで事務を手伝ってもらう。納品を手配する部署だ」
そこは工場ほどの動きはなく、みな机に向かっていたが、ピリピリと謎の緊迫感が漂っていた。
(でも、いつもの重労働よりはマシだわ)
お願いします、とぺこりとを垂れるアニスに、部署の責任者であるヒノキがせかせかと説明をする。
「ええと、アニスくん? きみにはオペレーターをしてもらうよ。なんせ納期が近くてね、人手が足りないんだ」
ヒノキに一通り受け答えの説明を受け、電話の前で待機する。ヘッドセットをつけるとドキドキと緊張した。
プルルルル。
「『ハイト油脂』です、マイドオオキニ! はい、○○ですね、ただ今代わります!」
「……アニスくん、アニスくん。毎度おおきに、はないんじゃないかな? 普通にお世話になります、でいいから」
ヒノキが額の青筋を抑えつつ苦笑する。
(古着屋の店員さんが使ってたんだけどなあ)
アニスが首を捻る間もなく、再びコールが鳴る。
「はい、ハイト油脂です、お世話になります! HS石けん十ダースご注文ですね、ありがとうございます!」
——カチャ。
「……アニスくん? 今の注文どこから?」
受話器を置いたアニスに、ヒノキが訝しげに尋ねる。
「あっ、聞き忘れました!」
「早く着信見て、着信!」
「ええと……イズム船舶さまです!」
プルルルル。
「はい、ハイト油脂です! ハレルヤマーケットさま。えっ発注ミス? 商品コードHSからSー2に変更ですね。承知いたしました」
「はい、ハイト——あっ、石けん十ダースのシズム船舶さま! あれ沈む——? あっすみません、待って、切らないで!」
呆然とマイクを見つめるアニスに、ヒノキが目からビームをだしそうな勢いでぎりぎりと睨んでいる。
「……き〜み〜!」
プルルルル——
怒涛の午前を終え、アニスがぐったりと机にうつ伏せていると、血相を変えた社員がひとり飛び込んで来た。
「ハレルヤマーケットの納品手配したの、誰?」
「おれだけど」
ひとりの社員が立ち上がる。
「何か、Sー2に商品変更したのに違うって」
「変更なんて聞いてねえけど——」
ヒノキを初め、みなの目がいっせいにアニスへ集まる。アニスは、はっと青くなった。
(しまった——変更の電話、受けたんだった!)
「ハレルヤマーケットは、明日がオープンだぞ!」
「在庫は!?」
ヒノキの言葉に、動揺とざわめきがが走る。
「Sー2はここにはねえ。でも旧市街の倉庫にならある!」
「わっ、わたし、取って来ます!」
「あっ、ちょっと待て!」
ヒノキが止めるのも聞かず、アニスはゴーグルとマスクをつかむと、弾かれたように工場を飛び出した。
旧市街の倉庫——偽のハイイロウサギに襲われた、あのビルのことだ。
だが外は灰が幾千もの針になり、ブリザードのように吹雪いていた。
しばらく行くと刺すような痛みに襲われ、アニスは思わず立ちすくんだ。ゴーグルをつけていても、ろくに前が見えない。
ひどい砂嵐のせいか、出歩く者はおろか、車両さえ見かけなかった。店舗もシャッターを閉め、営業している様子はない。
ふと、灰色の砂塵の中、アニスは店の軒先に小さな人影を見咎めた。
急いで近づくと、ひとりの少年が防具もなしにうずくまっている。うっかり、忘れて出て来たのだろうか。
だが、この天候でそれはない。少年は、躰のあちこちに傷跡が窺えた。襲われ、防具を奪われたのだと気づき、アニスは血の気が引いた。
アオイが言っていた。上等な防具は、狩られてしまう危険性があると。
少年は砂粒で表皮が固められ、息ができているかも怪しい状態だった。
「大変、早くどこかで診てもらわなきゃ……!」
アニスは、少年の頬を覆う細かい粒子を払い、自分のマスクを彼へとつけ替えた。薄く目を開けた少年のかすかな呼吸を確認すると、自分とさほど変わらない背丈を背負い、急いで病院を探し始める。
「待ってて、もう少しがまんしてね」
だが通りをいくらも進まないうちに、アニスは灰で滑って転倒した。はずみで、ゴーグルが飛んでいく。
(……!)
そうなるともう、目を開けていられなかった。倒れた躰にも容赦なく灰がふきつけ、少年を背負ったまま、立ち上がることもままならない。
ふきすさぶ灰が顔にはりつき、自分の呼吸すら危うくなった頃、急停止したサンドバイクから聞いたことのある声が降ってきた。
「こんな天気に出かけるとは、お前もあいつに劣らず馬鹿だな」
涙でぼやけた視界に、迷彩のジャンプスーツを着た完全防備の男が、アニスの腕をつかんでいる。ガスマスクで声がくぐもってはいるが、アカザだとわかった。
アニスは少年をかかえ、アカザに懇願した。
「あの、この子をすぐ病院に!」
「ああ、わかっている——おい!」
バイクの後ろに控えていた車を呼ぶ。社員が運転する車に、無事少年が乗せてもらうのを見ると、アニスは安心して改めてアカザを見上げた。
「あ、あの、すみません……注文変更の電話、わたしのせいです」
アカザはこちらも見ずに、おもしろくなさそうに答える。
「下のヘマはトップの責任だ」
顔が見えないのでわからないが、怒っているようだ。だがアカザは、アニスを風の当たらない建物の軒下へ連れて行くと、淡々と述べた。
「天候の脅威について予め説明しなかったのは、こちらのミスだ。まあ、まさか知らんとは思わなかったがな。ただの台風でも灰都では砂嵐。長時間屋外にいれば、さっきの子のように命にも関わる。倉庫へは車を出すつもりだった」
やがてヒノキを初め、アオイたち社員の乗ったトラックが駆けつけた。
「あっ、みなさん、すみま——」
「アニス、外に出たって聞いて心配したんだよ!」
謝罪も言い終わらないうちにアオイに抱きつかれ、アニスは動揺してまわりを見た。ヒノキはやはり睨みを利かせているが、ほっとしたように額をぬぐっている。
「さあ、急いで商品を運ぶぞ」
アカザの一声に、アニスもトラックに同乗し倉庫へ向かった。マーケットへ無事納品が済んだ頃、ヒノキにはくどくどと一時間にわたり説教をされたが、誰もアニスを責める者はいなかった。
場末のこの工場に潔さと正しさを垣間見たアニスは、いつしか仕事への接し方が変わってきた。
「アオイ、こんな重いもの、そんな小さい躰でよく持てるわね」
いつもの灰袋運びで、アニスが感心したように息をつく。今ではアニスも、一日三十袋のノルマをこなせるようになっていた。
「小さい、は余計だよ。これでもアニスとふたつしか変わんないんだからね、ぼく」
アオイが得意げに腕をまくって見せると、きれいに陽灼けした二の腕がしなやかに袖からのびている。
「ここにいると、自然と鍛えられるんだよ。でもぼく、本当は絵を描く仕事につきたいんだ」
そう言うとアオイは、積もった灰をキャンバスに、落ちていた枝でがりがりと線を描いていった。
「見て見て、これアカザさま。それでもってこれがリクドウでえ……こっちがアニス!」
うれしそうに指さした地面には、三人の生き生きとした顔がこちらを見ていた。
偉そうなアカザ、むくれているツバキ、笑顔の自分に、アニスは思わず感嘆の声が出る。
「まあ、そっくり」
アオイの画力は、マツリカ女学院の誰よりも群を抜いていた。
「へえ、あのチビ、上手いもんだな」
改めて紙に描いてもらった似顔絵をわたすと、ツバキはアニスのぶんも病室の壁にピンで留め、興味深げに眺めた。
「こっちはもう、ヒマでしょうがねェよ」
言った後で、失言とばかりにあわてて謝る。
「い、いや、すまん。アニス博士ばかり働かせちまって……」
「気にしないで下さい。リクドウさんは命の恩人ですから」
にっこりと笑うアニスに、ツバキはわずかに動揺する。よくよく見れば、仕事明けなのだろう、アニスはそこはかとなく薄汚れていた。
「何かあんた……こき使われてんじゃねェのか?」
「こき使われてますけど、平気ですよ」
あっけらかんと笑って答えるアニスが、ツバキは不思議でならなかった。
明らかに、コミューンを出た頃のおどおどとした感じが消えている。むしろ灰都に来てからのほうが、はつらつとして見えた。
(男子三日会わざればうんぬん——なんて言うが、女だってそうだ)
青白かった肌は健康的にうっすらと陽に灼け、血色もいい。ふらふらとやせっぽちで頼りなげだった体幹も、今やしっかりと地に足がついている感じがする。
自分が負傷している間に何か置いて行かれた気がして、ツバキは焦りを感じた。
(何でだ、アニス博士がどう変わろうと、おれには関係ない。おれの仕事は、彼女が王女だと証明すればいいだけだ——)
もんもんと自分に言い聞かせていた口上が、突然当のアニスによって遮断される。
「あっ、もう行かなきゃ。今から会議なんです」
「会議? 何の!?」
「どうやったら商品が売れるかの、作戦会議だそうです。この工場、結構な負債額があるらしくって」
「……な、何でそんな大事な会議に、アニス博士が出るんだよ」
思いもよらない展開に、頭がついていかない。
「アカザさんが、素人の意見も聞きたいって言うんです。また来ますね、お大事に」
「あの、ちょ……!」
身動きが取れないとはいえ、完全に蚊帳の外である。激しく疎外感を覚え、ツバキは肩を落とした。
アカザが病室のドアの隙間から、ニヤニヤと小馬鹿にした笑みをもらす。ツバキは力任せに、枕を閉じられたドアに投げつけた。
会議はいつもの食堂で行われた。下はアオイから上は七十代の老人まで、あらゆる世代が参加している。
「さて、知っての通りウチは今、危機的状況にある。この現状を打破しないことには、工場に未来はない。そこで、みなの意見を募る」
議長を務めるアカザが、食べ終わったキャンディの棒をぽいと投げ捨て、立ち上がる。
「ブレインストーミングといこうじゃないか。何でも発言してくれ」
「はい! この石けん、すぐ溶けちゃって使いにくいんだ」
早々に手を挙げたアオイの意見を、書記役のカシが太い指で黙々と打ち込む。躰が大きいので、普通のノートパソコンが単行本のようだ。
すぐにひとりの社員も挙手した。
「おれ、匂いがあまり好きじゃないんスよね。廃油そのままで油くさいっていうか」
「あーわかるわかる。フロ用じゃねーんだよな、台所用で」
別の作業員も賛同してくる。ヒノキがサンプルの石けんのひとつを取って、くんくんと鼻に近づけた。
「スタンダードのHS(ハイトソープ)はともかく、Sー2タイプはいちおう香料を入れているが」
「Sー2は安っぽい香水でカラダ洗ってる感じだよ。この桃みてえな匂いがあまったるくてなあ……もっと一般受けする匂いのほうがいいんじゃねえかな」
「む……だが高価な香料は使えんぞ」
ヒノキの指摘に、一同はしばらく考え込んだ。
アニスも思案を巡らせる。
安価で大衆性のある香りは限られているうえ、アロマオイルは大量には使えない。
そのときふと、コミューンのサービスエリアでツバキが買ってくれた、ソフトクリームを思い出した。
「あの、この辺、オレンジが特産だって聞いたんですけど」
「ああ、緋ノ島で採れるミニオレンジね。小さいけど、あまみがあってうまいんだよ」
ヒノキがおやつカゴの中から、ひとつを取ってわたす。
アニスは卵ほどの小ぶりのオレンジをしげしげと見つめ、独り言のようにつぶやいた。
「これなら……」
一方桜城ではここ数日、騒然とした空気が辺りを包んでいた。
王弟ウツギの息子であるシュウカイドウが狙撃された件で、近衛連隊、警察軍といかつい装備に身を固めた各員が図書館を埋め尽くし、捜査を続けていた。
「リクドウか? やつがシュウカイドウを狙ったのか!?」
「……ち、違う、父上。その近衛兵は、ぼくをかばってくれた。むしろ、狙われたのは彼らのほうだと——」
動揺するウツギを鎮めるように、シュウカイドウがおずおずと口を挿む。
「だが事実、リクドウはあの場から逃げたではないか。何か、後ろめたいことがあるのではないか?」
「おまけにプリンセスまで殺害された。どうなっとるんだ!」
ハオウジュ将軍は、イライラと館内を歩き回った。
「その件ですが」
元老院のメンバーが書類を手に、図書館に入って来る。
「あなたが連れて来たあの少女、改めてDNA鑑定をした結果、王家とは何の繋がりもないことが判明しました」
「な……!」
「不思議ですな。いったい、どういった鑑定を試みたんですかな」
「か……鑑定にも穴はあるだろうが! だがプリンセスと思い込み、少女を殺害したのはリクドウなのだろう! あやつ、革命軍かもしれん、早くやつを調べろ!」
頭から湯気を出しそうな勢いで、ハオウジュ将軍は図書館の机を叩いた。タイミングよく、別の近衛兵たちが入って来る。
「ご報告いたします! コミューンでリクドウ二等兵と思われる男に、先日ビーチバギーが盗まれたという通報がありました」
「その同じビーチバギーでしょうか。アウトバーンで玉突き事故が起こった後、姿を消したドライバーが、リクドウ二等兵に酷似していたという目撃情報も」
「そしてどちらの件も、リクドウが城から連れ去った、マツリカ女学院の少女が同行していたらしいのです」
今度ばかりは、ハオウジュ将軍も鬼の首を獲ったかのように、鼻の穴をふくらませて反り返った。
「そらみろ! やはりリクドウめ、殺人を犯したから逃げるのだ。痕跡を追え、何としても捕まえろ!」
もはや、ハオウジュ将軍がDNA鑑定を偽った件は、若き二等兵が犯したであろう殺人事件とすり替わっている。元老院の面々がひそひそと画策を練る。
「おおかた、ハオウジュ将軍の息のかかった偽の王女を王家に迎え入れ、自分に都合のいいよう、国を動かすつもりだったのでしょう」
「だが今は、そこを指摘しても無駄ですな」
「何やらきな臭くなりそうですので、その件は後回し……ということで」
かたや、ウツギは額から徐々に青ざめ、椅子にすわり込んでいる。
「あなた、少しは休まれたほうが。何かリラックスできるお茶でも淹れましょうか?」
頭をかかえるウツギに、ユウカゲがそっとやさしくより添う。特別な医療を施さなくても、彼女の言葉は癒しの効き目がありそうである。
「なぜ自分が任期の際に、もめ事が起きるのだ。もう、政治家でも国王でも同じような気がしてきた……」
「ですがそのリクドウとは、王女に心当たりがあると言った二等兵ですよね? 本当なのでしょうか……」
考えたくないというふうに、ウツギは力なく頭をふった。
静謐を常とするはずの図書館が、ここ数日は床が抜けそうなほど騒がしい。シュウカイドウは、うんざりと天窓から空を見上げた。
(——彼らは、無事なんだろうか)
(——どこにいるんだよ、ツバキ)
心配そうな表情で、図書館に待機していたハッカも見上げる。
思わず目があったふたりはぎこちなく笑いあったが、ふと思いついたようにシュウカイドウがハッカに近づいて来た。
「き、きみは、今年入った近衛兵だな?」
「は、はい! シュウカイドウ王子!」
王家の者に直々に話しかけられたことなどないので、ハッカは即座に姿勢を正し緊張気味に答えた。
「リ、リクドウ二等兵とは、親しいのか?」
「はい、同期の入隊です!」
「彼はその……ほ、本当にひと殺しをするような人間なんだろうか……」
躊躇いがちに尋ねるシュウカイドウに、ハッカはこぶしを固めて力説した。
「——いいえ、何かの間違いです。リクドウは元ヤンで無茶で粗暴で馬鹿なところもありますが、基本はいいやつです!」
フォローになったかわからないが、シュウカイドウはほっと息をついて言った。
「そ、そうか、ならば協力してほしい。彼の無実を証明したい、謎を解きたいのだ。誰が偽の王女を殺したのか、この城で何が起きているのか」
(そして、リクドウが連れて行った少女は、いったい何者なのか——)
自分に課せられたなぞなぞの答えを知るには、慣れ親しんだ図書館の、あの重いドアの向こうへ出て行かなくてはならない。
シュウカイドウの胸に、仄かな炎が熱を帯びた。