俺の手には負えない
1

主人公   香月 愛(こうづき あい)

≪主人公≫
  
 香月 愛(こうづき あい) 32歳 独身 一人暮らし

 父は地元総合病院医院長、実母は愛が0歳の時死去。

 継母は愛が7歳の時、18歳(男)と4歳(男)の連れ子と共に香月家に入る。

 大卒後、ホームエレクトロニクス(家電専門店)に入社、販売店で販売からレジ、雑務をこなすフリー要員として勤務する。

 4年付き合ったが結婚をしてくれない彼氏、巽(たつみ)と喧嘩別れた直後、友人女性 佐伯(さえき)の2000万の借金の相談を受け肩代わりする。

 ホステスになる。枕営業の怖さと精神的不安定から、卵管切除手術をする。

 巽と友人男性 四対(よつい)、に助けられ、エレクトロニクスに戻る。

 巽のマンション階段から転落、記憶喪失になり、5年間の記憶を失う。

 尊敬する上司 宮下(みやした)がライバル会社リバティに移ったことにより、後を追う。

 現在、リバティ 倉庫部門チーフとして勤務。





 

 ガラス張りのエレベーターに乗った香月 愛(こうづき あい)は、日本の中心都市、中央区にある高層ビルの最上階にある社長室を目指し、じっと夜景を見つめた。

 代々日本の財界を牽引している3つの財閥のうちの1つは、附和物産。

 その専務であった、附和 薫(ふわ かおる)は今年、父親が退陣したことで当然のごとく社長に上がった。事実上、香月が勤める子会社、家電を中心とする量販店リバティを完全に手にした最高権力者になったのである。

 その附和から、子会社の一社員である香月は会社を通じて呼び出されてここに来ているのである。

 附和とは、以前付き合っていた恋人の友人という立ち位置で知り合ったのが始まりだ。当時の恋人、巽(たつみ)からは、附和との浮気を疑われて一度別れたりもした。が、相手がちょっかいをかけているだけで、こちらからの気は全くない。

 今日も、いくら昔からの知り合いだといえど、上下関係を超えて誘いをかけてこようとしても、今はさらりと交わさなければいけないし、その上で敬意も払わなければならない。

 今の香月はリバティが持つ最大店舗の倉庫部門チーフという役職は与えてもらってはいるが、親会社の社長など到底手が届くような存在ではない。

 と、思う…。

 そこが疑問になるのは、そのちょっかいの具合が酷い時があるので、相手にしたくない気持ちが時々増すためだ。

 今回は例え附和が、仕事以外の事を言いだしてきてもここは会社なのだし、自分は勤務帰りなのだから仕事の延長…いや、仕事というスタンスでいこうとしっかりと腹をくくる。

 さすがにこんなとろでキスなどするような人間ではない……と信じてはいるのだが。

 色々な前ふりを通り越して、ようやく社長室の前に到着する。開け放たれたドアの先はまず、秘書室だった。

 男性秘書はこちらの来客証を見て、すぐに立ちあがってくれる。

「あの…リバティから来ました、香月です」

 一応、首から下げた来客証に手をやり、アピールする。

「……」

 秘書は何も言わず、その奥の部屋をノックしてガチャリとドアを開く。

 いつもの附和が少し顔を覗かせた。

 長くふわりとした茶色い前髪を後ろに流し、ピンク色のネクタイをしている。自然な附和だ。

「……」

 電話をしている。英語のようだ。すぐにドアは閉じられる。

「……」

 秘書は何も言わず、そのまま元の席に戻ってしまう。

「……」

 秘書にはあまり好かれてはいないことが伺えた。附和がプライベートで女を呼んだと思われているに違いない。

 とりあえず、電話中だから待っているように指示されたのは香月でも分かったので、そのまま立てって待つ事にしておく。

 ほんの1分と待たずにもう一度奥のドアが開き、無表情の附和はちらと顔をのぞかせた。

「入って」

「はい」

 香月はすぐに足を動かせた。秘書は

「……」

 黙って見届けている。やはり、仕事の邪魔をしに来た女とでも捉えられたようだが、実際はそうではない、こちらちの方がいい迷惑なんだと言いたくなってくる。

 その気持ちを制止ながら社長室へ入る。

「失礼します」

 重厚なソファセットの奥がデスクとキャビネット、壁はガラス張り。スタンダードな社長室だ。

「お疲れ様」

 附和は、いやに嬉しそうに言いながら、デスクに少し腰をかけて腕を組んだ。

「……お疲れ様です」

 仕事をしに来たのだと、気持ちをフラットにするよう無表情を心掛ける。

 すると、それが通じたのか、すぐに附和は真顔になると、こちらに近づき始めた。

「どう? 仕事は」

「……」

 予想もしない質問に、言葉が出てこない。

「倉庫はどう? チーフだっけ。やりがいある?」

「…はい」

  まだオープンして数か月の店舗のため毎日が忙しく、それなりに残業もしているし、やりがいも感じている。

 あえて、附和に視線はやらず、真っ直ぐ、デスクの奥のキャビネットを見つめた。

 彼はそれに気づくと、真横を通り過ぎてから、わざわざ香月の視界から見えない位置で停止する。

 なんとなく、振り返りづらい。

「でも、僕はどちらかというと、以前のように君が売り場で走っている姿…生き生きと仕事をしている姿が見たくてね」

「……」

 そう言われて、身体が固まった。

 リバティに移ってからは役職で上がってデスクワークになるのに苦痛は感じていなかったが。心の底で自分もそれを臨んでいたことを、心臓をわしづかみにされたような感覚で思い出した。

「なんだろうな…、それがずっと頭から離れなくてね」

「………」

「あの日からずっとだよ。僕が視察に行ったあの日から」

 その時から既に半年以上は経過しており、それほど長い間そんなことを考えていたのかと思うと、その姿をとらえずにはいられなかった。

 香月は思い切って、後ろを振り向く。

 と、附和はこちらを真剣な眼差しで見ており、息を飲んで思わず目を逸らした。

「それで僕は考えた……」

 香月はじっと待つ。

「……君に、働ける場所を用意しようと思う」

 即座にその顔を見た。

 顔はまだ真剣そのものだ。

「……どういう……」

 ようやく声が出たが、その先が続かない。

「僕がホームエレクトロニクスも吸収すれば、君がもっとよりよく働けるんじゃないかと思ってね」

 目を見開いた。

「ふ…」

 附和は、いたずらっぽく微笑んで見せたが、香月はそれとは対照的に、開いた口が塞がらなかった。

「そん……」

 な……そんなことって……。

「ずーっと考えてたんだ、この半年。君はここで働きにくそうだった。それを変えたいと思ってた。だがなかなかうまくいかなくてね。それで良い案を思いついたんだ。どう?」

「……そ……本当にそんな理由で、ですか?」

 香月は、嘘だと思いながら聞く。

「そりゃそうだよ。ホームエレクトロニクスを吸収したところで、大した利益にはならない。それより、家電の独占だと言われかねない。だけどね、そのリスクを抱えてまでも、僕が実現しなければならない夢…のような気がしたんだ」

 その言葉が、嘘かどうかは判別がつかず、ただ本気だと信じるしかない。

「………ほ、本当に、……エレクトロニクスが……」

 香月は、もう一度その目を見た。附和の、しっかりと地に足がついた目を。

「そうだよ。もう充分地慣らしが済んだ上で、一番最初は君に報告したくてね」

「………」

 あり得ない。

「明日はその会議だよ」

「え、明日?」

 香月は、ずっと目を見た。

「聞いてない? 宮下(みやした)部長らとの…」

「聞いてます!」

 一緒にホームエレクトロニクスから来た、最も尊敬する上司にいらぬ迷惑はかけまいと、声を大きくする。

「みんな驚くだろうけど、元々ホームエレクトロニクスの柱となっていた君や宮下部長の意見は大きい、だからだよ。ただ、君には一番に知らせたくて今日前倒しで来てもらった」

 附和は微笑しながら、近づいてくる。180センチの身長に圧倒されたせいか、身体が動かなかった。

「僕が君の魔法使いになろうと思う」

 言った途端、自分で吹き出してくれたので、香月も思い切り顔を歪ませることができる。

「いや、違うな」 

 笑いながら、更に、

「王子様、だね」

 今度はしっかりとした声で見つめながら言った。

 だが、さすがにそれに応えねばならない気がして、我慢して視線をそらさずに待つ。

「………」

 それでも附和は逸らさない。

「……」

 ようやく、香月の方が耐えかねて逸らした。

「明日が楽しみだ」

 と同時に、ドアがノックされる。

「社長」

 扉を開かず、秘書がそのまま声をかけてくる。

 附和も、ちらと腕時計を見る。





 附和物産社長室の隣にある待合室。そこで、何も知らされていない状態で、社長の空きを待つという苦痛を既に10分以上続いていることに、リバティ専務、九条(くじょう)は周囲に配慮して鼻で溜め息を吐いた。

 左隣にはリバティ社長浦川(うらかわ)、右隣には、営業部長宮下(みやした)、そして香月。

 このメンツということは、ホームエレクトロニクスの何かが関係しているのだろうとは思う。だが、肝心の確信を全く得ることができない九条は、つかめそうでつかめない現状をここ10日ほど考え抜き、最終的に溜息を吐きだして、腕を組んだ。

 とりあえず、香月と附和社長の関係は承知している。

 視察に訪れた際、香月を呼びつけたが記憶喪失により附和社長のことを覚えていなかったが、それを埋めるように食事に誘い、周りにも気をかけてやるように「香月愛を丁重に扱え」という一言を放り投げてきた。

 その一言により、今は自分が世話役になるよう副社長から言い使って、出来る限り気にかけてはいる。

 それが、他の社員とは違うとしても、今回のこのメンバーでの会合という意味が全く見えてこない。
 
 
 九条は、腕時計を確認する。

 ここへ入ってそろそろ20分になる。考えすぎて、気持ちが悪くなるほどだ。

 浦川には事態の様子を軽く聞いたが、こちらは自分以上に眉間に皴を寄せており、ただ横に首を振るだけだった。

 浦川がそれなので、自分が何も知らなくても問題はないが…。

「お待たせしました。案内します」

 ようやく、秘書が待合室に入ってきてくれる。

 痺れを切らした自分が一番に立ち上がった気がしたが、それよりも先に浦川が立ち上がっていて気持ちの上では、自分より重い物を抱えていることが見てとれた。

「失礼します」

 浦川から順に、部屋に入っていく。

「あぁ、浦川がこっちで、宮下君、香月クン、専務の順で」

「………」

 浦川と宮下が対面になるように腰かけ、附和社長はその直角になるようにソファに腰を沈める。その、席順に意図が何も分からない4人だったが、言われるがままに腰かけて、主の顔を舐めるように見つめた。

「怖いくらいのいい顔だ」

 附和社長はわざとおどけたが、すぐに真っ直ぐ顔を上げると、

「ホームエレクトロニクスを吸収することが決定した」。

「えっ!?!?」

 自らの驚きよりも、浦川の声の大きさに驚いた。次の瞬間、香月が何も反応していないことに気付く。 

 まさか、この事態を知っていた!?

「え、エレクトロニクスをですか!?」

 浦川は上がりそうになる腰を自らでなんとか抑え、向き直って附和を見た。

「吸収、リバティと統合し、株式会社 カナザシティ として始動する。

 基本的には、リバティとエレクトロニクス店舗は子会社富岡化学とウッドテラス、ヨシノの3つへそれぞれ売却。

 カナザシティは新店舗を建築する。専門性を高め、海外ブランドなども取り入れ、複合施設とする。

 尚、ホームエレクトロニクスとリバティ従業員は選抜し、カナザへ入れる。残った者は希望に応じてヨシノかウッドテラスへ異動。量販店の販売員として採用する」

「………」

 事の内容よりも、香月がおどろきもせずにじっと附和を見つめていることが信じられなかった。もしやと思い、宮下の方も見る。

 だがそちらは一瞬見れば分かるほど、口を開いて驚いたまま停止していた。

「オンリー ヒア、ここだけ、ここにしかない、ここに来る価値のある店なんだという複合施設を作っていく。

 家電量販店、専門店もネットで購入する時代となり、店舗の商品は展示品として見に来る客が多い。それなら、店側もそれに沿って動くべきだと私は考える。

 複合施設の家電部門は提案、相談、展示を主とする。持ち帰り品の売り上げは、附和物産が持つネット総合販売で最安値を出す。工事、設置が必要な大物商品は全メーカーの全商品展示をする。富岡化学、中伊電工、U&iはうちの傘下であり、近くに工場があるため、直接倉庫から在庫を出す。
 
 更に取り付け工事には、今の下請け業者の中から選抜し、自社社員に組み入れ専門部署を立ち上げ穴を失くす」

 その言葉を聞いた瞬間、九条は全てのことがどうでもよくなった。

 創作意欲が単純に沸いた。

 新店舗建設へ向けての動きが頭の中で回り、早く働きたい、という自らの気持ちと、附和社長が考えるその言葉に全てが集中していった。





 帰りのエレベーターに乗ったのは、香月と宮下と俺の3人だった。先ほどの附和社長の力のある話は圧巻で、このリバティにいて、附和物産に吸収されて良かったと心底思えたほど、彼を完全に尊敬した。

 まだその興奮は冷めやらず、これは店を作りオープンさせて軌道に乗るまでは続くだろうと予感する。

 3人は無言のまま、エレベーターを降りてロビーに立つ。それぞれ、色々な物を胸に秘めたのだろう、なんとなく立ち止まり、一息ついた。

「私」

 最初に口を開いたのは、香月だった。

 附和社長のことを嫌がってはいたが、今日はさすがに見直しただろう。

「売り場に立ちたいです」

 思いもよらない発言に、間髪入れず、

「そんな所に立たせるわけがないだろう!」

 怯えた顔が見えたが構わず厳しく言い放った。こんな大事な時期に、役職を放棄して売り場に立ちたいとは一体どういう神経をしているんだと怒りが先に出た。

 それに、売り場に立って、余計なトラブルに巻き込まれでもしたら、それも時間の無駄になる。

 「香月愛を丁重に扱え」という言葉は慎重に守っていくつもりだが、余計に手こずらせるのだけはやめて欲しい。

「…」

 だが、宮下がすぐに手をすっと出し、制す。

「いや、香月のやりたいようにやらせましょう。なんだったら、私が九条専務の代わりに世話役になりますから」

 一瞬で全てを悟り、香月の心も手に収めてしまった宮下に、さすがに腹が立ち、

「そんなことが言いたいんじゃない! 今は大事な時期だ。これからさらにざわつく。そんな時に店に立って何かトラブルにでも巻き込まれたら…」

 この俺の考えの、何が間違っていると言いたい!

「私、合併したらカウンターかフリーの役職を目指します。だから、今からカウンターで準備させて下さい」

 宮下を味方につけた香月は図に乗って意見してくる。その、凛とした表情は確かに美しく、飲みこまれてしまいそうになるが、二の足を踏んではいけない。

「ち、ちょっと待て! 私は反対だ」

 しかし、その声空しく、宮下と香月は2人見つめ合って頷く。

「宮下君、これは私が判断することだ」

 色々忘れてやしないかと、力強く言ったが、

「いいや、これは、香月が判断することです」。

 誰に向かって物を言っているんだと、さすがに睨んだ。

「香月、今日はもう帰っていい」

 いきなりそう切り出した宮下に、

「まだ話は済んで…!」

と言いかけたが、香月は頭を下げてすぐに後ろを向いてしまう。

「おい、宮下君!」

 俺はギリと宮下を睨みながら、腕を取った。

「香月愛を丁重に扱うようにと、附和社長から言われてるんだぞ!」

「丁重、というのは本人の意思を尊重することでもあります」

 宮下は全て見通しているとでも言わんばかりに、堂々と言いかえした。

「……」

 俺は腕を払い、首を横に振った。

「何かのトラブルに巻き込まれたら、どうする!?」

「巻き込まれても」

 宮下は、既に遠くに見えるスタイルの良い後姿に惹かれるように見つめた。

「巻き込まれても、解決できるんですよ、いつも」

 会社を変わりながらも、香月と共に、10年もの時を同じくして働いてきた自信で喋りたいのは分かる。

「そりゃあ、なんとかはなるさ。だが、何も起こさせないのが一番だ。今のままの役職でいさせておけばいい。それに今のチーフは誰がやる? 周りにも迷惑をかけるんだぞ!」

「……どうせ、全員がカナザシティへ行けるわけではないんです。今から人事はやり直すべきでしょう」

 宮下は正論らしき事を述べてこちらを向き直る。

「もし、附和社長の思いのままにしたいとそう思っているのなら、香月を附和物産に置いたでしょう。秘書にでもすれば良かったと思います。でも、あえて野放しにしている」

「……」

 さすがに考えさせられる一言だった。

「多分きっと、彼女が彼女らしくしているところを気に入っているんですよ。さすがに、丁重に扱え、という一言は我々からすれば重いですがね」

「………」

 それ以上、返しようがない。

「………」

 世話役をお前に任せる!と言って放り投げたかったが、そうするわけにもいかず。

 九条は溜息を吐きたいのを堪え、歯を食いしばって先に足を一歩前に踏み出した。
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