俺の手には負えない
登場人物
≪登場人物≫
宮下 昇(みやした のぼる) 香月の上司(店長)
九条 優一(くじょう ゆういち) 本社常務(参与)
関 一(せき はじめ) 香月の上司(副店長)
市瀬 秀明 (いちせ ひであき) 香月の上司(フリー主任)
附和 薫(ふわ かおる) 附和物産(社長)
四対 樹(よつい いつき) 四対財閥(社長)
巽 光路(たつみ こうじ) 実業家/フィクサー
♦
私は過去、家電量販店、ホームエレクトロニクスに勤めてはいたが、その時新店オープンには関わったことがない。
エレクトロニクスとリバティがあの日の予告通り統合した一年後の、新店舗 カナザシティ本店、家電専門棟 オープン10分前。
店中がピリピリした緊張感に包まれるその時、香月は何故かそう思った。
自分が目指すつもりにしていたレジカウンターの中ではなく、外にフリー要員の平として行儀良く立ち、時計を確認。8分前。
目の前を貫禄ある宮下が堂々と横切る。エントランスへ向かっているのだろうか、彼は左手首のロレックスをちらと見た。
そう、あれは確か奥さんのお父さんからもらった物だと誰かから聞いた。
そう、奥さんが妊娠している時、夫婦そろってケーキ屋に居たところに偶然会った。
そう、私は宮下を置いてロンドンへ行った。
そう、宮下は……私を丁寧に抱いた。
ああ……何で今それを思い出したんだろう。
何で今この瞬間……
『3分前。全員配置について下さい』
宮下の声が全社員200人、応援陣50人、全ての人のインカムのイヤホンに流れる。
その声が少し、緊張しているのが分かる。そして、その緊張を落ち着かせるように、ゆっくり発声しているのも分かる。
そうだ、私は附和と浮気なんかしていない。
そうだ、私は巽が好きだった。
そうだ、私は…それでも宮下を尊敬していた。
5年間の失われていた記憶が、突然全てが徐々に合致し、クリアになっていく。
『オープンします。皆さん、よろしくお願いします』
あぁ……私は今、32歳の…ただの女性だ。
そう、私はただ……あの頃から普通に生きていた、ただの女だ。
♦
目まぐるしく一日が過ぎるという予想はしていたので、その通りに時間が経ち、ようやく26時、セコムをセットするところまでいった。
この一年間の緊張が今日の一日で少し溶けた宮下は、ふーっと息を吐き切って従業員通用口を最後に閉めた。
明日も朝は早いのでもう少し早く切り上げたかったが、そうはいかなかった。まあしかし、オープンだから仕方ない。
それでも自らの責任はきちんと果たせたはずだと、自信を持って駐車場を振り返った時、ようやく香月も一緒に残っていた事に気付いた。
「まだいたのか!」
思わず声に出る。
「はい、カウンターにあるファイルがどうしても使いづらかったのできちんと使えるようにしておきました」
やけに笑顔だ。きちんとこちらの目を見ている。
「………」
何か、違って見えた。
いつもと、何かが違う。
はたと気づいた。
「ほんとになんだか…懐かしい……」
「まさか、……!」
思わずその細い腕を掴んだ。記憶が戻ったのではないか! 全ての記憶が。俺と、付き合っていた時の記憶も一緒に!!
香月は急に目にいっぱい涙をためて頷く。同時にそれは零れ落ちた。
「………」
宮下は、咄嗟に手を縮めた。今はもう自分には家庭がある。
「………」
それに気づいたであろう香月は、すぐに涙を拭い、再び顔を上げる。
「なんだか、突然パッと……」
しかし、視線はそらしている。こちらも、気恥ずかしい気持ちが先に立った。
「………何で、このタイミングに」
笑うしかない。
「分かりません……」
瞬くとまた涙が零れ落ちた。
それは、どういう涙なのかはわからないが、全ての者を狂わせるのに、それ以上ない事は確かで。
「なんで…こんなタイミングに…」
もう言葉に意味なんかない。
ただ、目の前の香月がいつも通り美しすぎて。
そうだ。泣くのを堪えようとする姿も、そしてそのまま微笑んで涙を流す顔も、ある意味いつも通りなのに。俺との過去を思い出し、抱かれた事を記憶にとどめてくれていることは、こんなにも特別なんだ。
「……あぁ……」
感情が込み上げ過ぎて、我を忘れて頬の涙を拭った。
香月はそれに応えるように目を閉じ、最後の涙を落とす。
「………」
開いた瞳は、狂おしいほど愛らしく。そこがもし、会社でなかったら。
自分は全てを捨てて抱き締めていたかもしれない。
それくらい恐ろしいほどに、足の一歩も出ないほど。俺はしばらく、ただその顔を穴が空くほどに見つめていた。
♦
3人の副店長のうちの1人、関 一(せき はじめ)は、店長 宮下とその部下、香月の2人のやりとりを真横で見ていて、ただならぬ空気を感じ、思わず見入った。
リバティとホームエレクトロニクスが統合し、両社員が入り乱れた状態で役職を与えられ、仕事をするだけで皆緊張し、ストレスも感じている。自分も、ホームエレクトロニクス最大店で数年店長をしていたのに、途端に副店長だ。しかも今日はオープン1日目でメディアと客が押し寄せるだけに、疲れは半端なかった。
しかしそんな中でも、宮下はストレスを緩和させてくれそうだと予感した。正々堂々と店をまわそうとする姿は頼もしい事この上なかった。
自分はエレクトロニクス最大店、東都シティをそれなりに切り盛りしてきたつもりだが、それでも当時の本社営業部長、登(のぼる)には勝てないと思っていたし、また、登も今回副店長として起用され、同じく宮下には敵わないと思ったに違いなかった。
厚い人望、落ち着き払った視線、余裕の表情、そして何より、周囲への丁度良い気配り、一般受けする清潔な外見。
つまり、美しき香月と見つめ合うに相応しい、ともある意味では言えた。
香月 愛。一言声をかけてみたい、振り返らせてみたいと、出会った男はおそらく皆思ったに違いない。それほどの強烈なインパクトを与える、美貌。長い睫、通った鼻筋、赤い唇に儚げな黒い瞳。肌は透き通るように白く、結わえられた長い髪の毛は艶のあるダークブラウンで。袖から出た白く細い腕、スカートの丈から出た小さな膝、その後の白く細い足。
完璧とまでに称される女性がどれほどにいるのだろうか、いや、この人しかいないと思わせるほどの美人。
美しい人。
そうとしか言いようがない。
話しによると、宮下がホームエレクトロニクスからリバティに移った後、香月はその後を追う形になったと言っていたし、深い仲だったと考えるのは容易だ。
「……まさか!」
宮下が急に香月の腕をとったのを捉えた。
あの白い腕をいとも簡単に掴み、しかもそれでも香月は宮下を見つめている。
他人の情事を見てはいけないと思いつつ、どうしても足が地から離れなかった。
2人の関係は、本当にそうなのか。宮下には子供がいると聞いた。だとすると、不倫なのか!?
「……なんでこのタイミングに…」
完全に2人の世界に入り込んでいる。
つと、我に返り、足を無理矢理動かした。
耳の神経全てを使って2人の会話を捉えようとしたが、もう何も聞こえない。
諦めて、無心で駐車場の隅にある愛車、ベンツに乗り込んでから、先程出た通用口をようやく確認する。
しかし、遅かった。そこに姿はもうなく、2人は駐車場の真ん中で肩を寄せ合って歩いている。
宮下が、結婚しながらも香月の心も射止めていたのだとしたら、それはそれで頷くしかない。
先程、香月と何を話し込んでいたのか、言葉少なく、意味も分からなかったが、随分親しい事だけは感じとれた。
ただ、あの暗がりの中、あれほどの美しい表情を絶妙に歪ませ、真剣に何かを乞われていたのだとしたら。それが俺だとしたら、宮下のように落ち着いてはいられなかったかもしれない。
「……」
そこまで考えて、やめた。社内恋愛というのは碌なものではない。
それは実感して、身に染みて分かったはずだ。
例え、どれほどの美人がいようが、その美人に言い寄られようが、自分だけは決してそこに身を投じることはしないと強く、無駄に強く言い聞かせてハンドルを握り、それぞれの車が駐車場から出て帰るのをただ1人黙認した。
♦
「東山撮影事務所……。エアコン3台。場所は……東大区……。どの人?」
香月が持っていた伝票を横取りするかのごとく、大きな手に奪い取られる。
広い店内は商品ごとに区分けされ、立ち位置を決められている販売員に対し、端から端まで売り動くフリー要員の主任 市瀬は鋭い視線をカウンターの向こう側にあるソファに流した。
「え……。そこの……あそこの……」
香月は客にこちらの視線がバレないよう、気遣いながらも、長身の市瀬には分かるように説明する。
「……大丈夫そうだな」
すぐに伝票は返してくれたので、香月はそのまま客の対応を続ける。接客し終えると、市瀬は既に次の仕事を探しに売り場に行ってしまっていたので、姿を探してから声をかけた。
「さっきの…撮影事務所ってところに引っかかったんですか?」
「いや、北大区。ヤクザが多いから。気を付けて」
「、分かりました」
すぐに仕事に戻る。
フリー要員は主任の市瀬を中心に6名いる。市瀬は人当たりが良く、仕事も喋りも上手で香月はす
ぐに惹き込まれるように尊敬するようになっていた。
その期待に応えるつもりで、香月の仕事ぶりもラインに沿っていく。真っ直ぐ目を見て意見を聞き入れ、きちんと頷いて返事をする。言われた事は必ずやりとげ、無茶はしない。迷惑はかけない。周囲を見る。
それに対して市瀬は、1つこなしただけで、10したかのように「すごい、さすがだ!」と褒めてくれる。
褒め上手なのは分かっているが、それに乗せられたくて、次の仕事、次の売上を探して、成果を報告する。
コピーがうまくできないという些細な悩みでもきちんと受け止めてくれる。ボタンを押し間違えないようにシールを貼ろうと一緒に仕事をしようとしてくれている。ボタンが分かりづらい事を、分かろうとしてくれている。みんなが一様に出来るように、一緒に次に進めようとしてくれている。
そんな当たり前のことを、当たり前のごとく自然にしてくれる。
店がオープンしてから1か月が過ぎ、マスコミの取材は少し減ったが、それでも本社広報係りはよく店に来ている。
同時に、業務管理を行う参与の役職を与えられた九条が用意してくれたLDKマンションに引っ越ししてから2か月が経過した。
皆は本社が準備した近辺のマンションにそれぞれ移り住んだと聞いたが、香月だけは九条が選んだ物件になっている。そういう特別扱いは嫌いだと言おうとしたが、ただのLDKで家賃も他と変わらず、場所も他の人と変わらぬ店から車で5分だし、何がどう特別なのかという判別が難しかったため、何も言わずそのまま受け入れている。
さて、ここ数日は大雨の日が続き、来客、売上共に少し落ち着いていた。
2時間残業した市瀬と、定時で上がった香月は偶然並んで従業員通用口を目指していた。
「市瀬主任は、お家はどこですか?」
香月は少し市瀬のプライベートが知りたくなって聞いた。フリー要員は人数が少なく、交代になるので、食事も同じ時間になることが少ないため、お互いのプライベートを知ることが少ない。
「俺は元のリバティの近く。こっから40分くらいだよ。会社が家を用意してくれるって言った時、引っ越すのが面倒だからやめたけど、40分は結構遠いなあ……。でもまあ、引っ越すのは面倒だけど…お疲れ」
市瀬はふっと顔を顰めながら笑い、横切る社員に挨拶する。
そのような、売り場とは違う顔を見たのはこれが初めてだった香月は、市瀬が疲れていることを知った。
「今日飲みに行きませんか?」
社員は市瀬を簡単に誘っている。
「いやあ、やめとくよ。明日も出社だし」
多分、自分も同じように疲れている。
家は車で10分もかからない場所だが、この1年間の緊張やら不安がここに来て一気に出たような気がした。
「香月はホームエレクトロニクスでいて、リバティに行って。今はどう?」
久しくその話題になったなと思った香月は、
「うーん」
それ以上に言葉が出ない。それよりも記憶がなくなったり、戻ったりしたことの方が重要で、勤め先が変わることなど大した意味を持たない気がしていた。
「別に、なんともないですよ」
簡単に切り上げる。
「お疲れ様です」
目の前から来た人物に、市瀬が先に挨拶した。フリー要員と白物家電販売員をまとめている女性部門長、花端(はなはた)だった。年は香月より少し上だと聞いている。いつもつけているピアスが、今日もきらりとボブショートの隙間から見えた。
「お疲れ様です」
香月もなんとか挨拶できる。
「お疲れ。市瀬、飲みに行こう」
従業員通用口から入ってきたはずの花端は立ち止まることなく、通り過ぎてしまう。花端が何時にどことも言わず、階段を上って行ってしまう姿に、香月はさすがに市瀬を見上げた。
が、その後ろ髪に惹かれるように、立ち止まったままだ。
関係のない香月は一歩先に踏み出したが、
「香月」
市瀬に簡単に呼び止められる。
「はい」
振り返った表情にはまだ少し余裕があったのか、
「飲みに行くか? 一緒に」
それでも、急だ。
「いえ…明日も出社なので、今日は失礼します」
先に足を進める。
背後で市瀬はスマホを確認していた。何時にどこというのは暗黙の了解なのか、それとも今から連絡を取り直すのか。
あまり興味を持たなかった香月は、通用口のドアを開けた。ふっと溜息をつく。土砂降りだ。
「………」
傘………。
思わず、傘立ての奥。壁との隙間を見た。
確かあの時、宮下は、そこから傘を出して来た。
あれは、いつの事だったか……。
「………」
突然目の前が暗くなり、足元が崩れた。
しかしすぐに、誰かの声が聞こえる。
「香月! 大丈夫か!」
背後から抱きかかえられたのが分かる。大丈夫、目は開けていられる。だけど、耳鳴りがする。
「どうする!? 救急車呼ぶか!?」
それほどではない。香月は落ち着いて首を振った。
眩暈だ。ただの。耳鳴りがすっと引いていく。
「疲れてたのかな……」
それは市瀬も同じだろうと思う。
「立てれるか?」
分からない。けど、ぐっと両腕を支えられ、持ち上げられた。
「……」
ああ、案外大丈夫なものだ。立ってみれば、大したことはない。
「顔色が悪い」
雨が強くなった音したので、外を見た。
「少し待ってから帰るか。もう一回スタッフルーム行けるか?」
考えただけで面倒だ。
「いえ……帰ります」
声を振り絞る。
「ったって。運転は危ない。この近くだっけ。送ってくよ。明日はタクシーで来るかなんかして」
「……」
簡単に頷く。その方がありがたい。タクシーなら1000円少々だ。
「ちょっと待ってて。車横付けするから。うわー降り込んで来たなあ最悪…傘持ってくれば良かった」
♦
九条優一は、真っ赤なアルファロメオをカナザシティ本社から自宅までの15分、漫然と走らせていた。
リバティにいた頃は、本社まで1時間かけて通うほど、当時住んでいたマンションを大切にしていたが、さすがに2時間かけての通勤は苦痛だと思い、3カ月前に引っ越し、その近くのマンションに香月を住まわせた。事に彼女はまだ気付いていない。
高層マンションの上階からは、3階建てのマンションの2階部分、香月の部屋の窓が見下ろせるようになっている。
そうしておけば、夜帰っていない時が分かるし、何かあった時にいつでも駈けつけられる。
そこまですることを、附和社長自身が本当に望んでいるのかどうかは知らないが、「香月愛を丁重に扱え」の1つだと信じ、秘かに監視することにした。
監視というのは表現が悪いが、世話役として近くに住むのは当然のことだと言える。
職場は店舗と本社でお互い別々だが、香月のシフトは毎日必ず確認している。
この2か月は忙しかったため、さすがに疲れが出ているだろうとは思ったが、むやみに会いに行くようなマネだけはしていない。
予想出来る範囲内のことは、店長の宮下に任せておけばいい。別に、彼女のことをどうしたいと考えているわけではないし、ただ、いざと言う時、すぐに力になれる存在であればいいと思うだけだ。
そういう思いと、行動が一致しているのかどうかは考えないようにして。
雨が小降りになったこともあり、なんとなく気になって、香月のマンションの駐車場の方を回り道する。
「え?」
九条は思わず急ブレーキを踏み、駐車場の空きスペースに車をねじ込んだ。
慌ててドアを開き、エントランスまで走る。
「……九条参与!!」
自動ドアから突然現れた俺に、目を真ん丸にさせて驚く香月と、その隣にいる男。あれは市瀬か。
「…………帰っていたら、2人の姿が見えたから。市瀬、君は香月の恋人か?」
冷静を装いつつ聞いた。
「そっ、いや…」
「違います」
動揺する市瀬を尻目に、香月は急に目を吊り上げて睨んだ。
「でも例え、私に恋人がいたって何が悪いって言うんですか!」
堂々と言い切られる。『香月愛を丁重に扱え』という言葉に一瞬迷いを感じたが、
「悪くはない。だが、附和社長のお気持ちも考えるように、と言いたいわけだ」
「そんなの知りません!」
香月は顔ごと逸らしてそっぽを向いた。その、なびいた髪の毛が少し頬にかかり、絶妙な色気を醸し出したせいで、一瞬たじろぐ。
とりあえず、ギロリと市瀬を睨んでおく。バツが悪そうな市瀬は、さっと目を逸らした。
「…もしかして、つけてたんですか?」
邪鬼にされていることに、さすがに苛立った俺は、
「そんなわけないだろう! そもそも君が附和社長との事を曖昧にしているから、こうなってるわけだ。 こっちだっていい迷惑なんだ」
声が壁に反射して響いた。さすがに香月は唇をへの字に曲げ、微動だにしない。
「あの…その、よくは分かりませんが」
市瀬が口を挟もうとするので、
「分からないのなら、黙っていたまえ」
抑制する。
「何が大事でそこまでするんですか? そこまで言えるんですか」
香月は攻撃の糸口を見つけ、口答えしてくる。
「ただの仕事だ」
冷静になった方が勝ちだと、静かに言い切る。
「君と違って真面目に仕事をしているだけだ。君がちゃらちゃら男といるからこんなハメになるんだ」
自分でも言い過ぎたことは分かっていたが、止められなかった。
何故よりにもよって、市瀬なんかと。しかも自宅マンションにまで呼んで、こんな玄関先で2人でいて、その言い訳にどんな意味がある。
しかし、さすがに香月は肩を震わせ、歯を食いしばった。
「九条参与」
市瀬も睨んで言い返してくる。
「…私のなんにも知らないくせに」
俯いたまま震える声で言い切り、後ろを向いた。そのまま階段を駆け上がってしまう。
追いかけても仕方ない。
溜息を吐きたかったが、とりあえず市瀬に、
「先に帰りたまえ。私はしばらく経ってから帰る」
腕時計を確認した。まさか、荷物をまとめて出て行くとは思えなかったが、この先何かあれば、失態確実だ。
「………。どういう事なんですか。附和社長って、母体の附和物産の社長ですよね?」
そんな呑気な事を言っているヤツに、説明する義務はない。
「君には何も関係のない事だ。ただ香月愛には、むやみに近づかないように。それだけ守っていれば何も言うことはあるまい」
市瀬の背中を見送ってから、2分が経過した。さて、いつまで待つか。俺の自宅マンションからは香月の駐車場が見えず、車で逃げられると後がやっかいだ。
「………」
しかし、冷静になってくると、言いようのない虚無感と、罪悪感、後悔などが入り乱れ、大きく溜息を吐く。
香月に何かあれば即首……になる可能性だってなくはない。それくらい香月の事を思うことは大事なんだと、自分に言い聞かせて、エレベーターの表示を見た。
荷物をまとめて出て行く可能性……そんなもの、本当にあるのだろうか。
3分経っただけだが、ようやく無意味なことを悟り、外へ出ることを決意する。
その時、階段から、
「誰か来て!!」
あり得ない展開に、俺は慌てて階段を駆け上る。
香月の悲鳴にも似た声、一体何が!
見上げると、手すりにつかまりながらも、降りようとしている姿が見えた。
「……香月、いっ……」
たい。
胸に抱き着かれる。
甘い香りが全身を襲い、柔らかな感触が服越しに伝わる。触れてはいけない。分かっているのに、身体がいうことを効かない。
「……」
ネクタイの辺りをぎゅっと掴んでくる。
身体を小さく縮こませ、我が胸にすがりついてくる。
「………」
たまらず、抱きしめ返した。
「……」
柔らかなその感触を確かめるかのように、抱きしめ直してしまう。
「………」
つと、香月が胸から離れた。
慌てて、我に返る。
今、俺は、一体……。
「へ……部屋が荒らされていて…」
「部屋?」
ようやく、会話になる。
「……見てくる」
「あっ、誰かいるかも! 何か動いた気がして……」
ようやく目を合せた。
が、すぐに逸らされる。さっきの事を気にしているのかもしれないが、あれは、ただ抱き着いてきたから抱きしめ返しただけで…。
「………警察を呼ぶ。いいな?」
「……」
香月は何かを考えながらも、小さく頷いた。
♦
事情聴取や現場検証は朝まで続いた。
警察の待合室でうとうとしたが、時折、九条が電話に出る声で目が覚めた。
「附和社長はニューヨークにいらっしゃるそうだ。よく様子を見ておくように預かっている」
「……」
今は言い返す気力はない。
むしろ、誰か側にいて欲しいとさえ思っている。
あの時、誰かまだ中にいると思ったのはおそらく、揺れるカーテンを見間違えたせいだろうと判断された。証拠に、目撃者はないし、防犯カメラにもそれ以降何も映っていない。
警察にはプロの犯行だと言われた。
部屋はそれほど荒らされてはいなかったが、少し扉が空いていたり、別人の気配は明らかに感じ取れるほどだった。調べると、風呂の排水溝やブレーカーまで開けた痕もあるほどだったという。何か探そうとしていたことは明確らしく、何か預かった物はないか、と何度も聞かれた。
だが、引っ越しして2カ月で、その間に預かった物などなく、記憶も大抵は戻っていることから、預かった物は確実にないと自分では判断している。
それよりも、感じたのは。考えてみれば、親会社の絶対権力者である社長、附和に大事にされ、九条にもそのように扱われていることを幾人かは知っているようだし、それが噂になっているのだとしたら、逆恨みとか、そういうことではないかという気がしてきていた。
もちろん、それは警察に言うつもりはない。
附和だって色々遊び歩いていたし、輩を雇えるような女はいくらでもいるだろうし。
ひょっとしたら他に盗まれている物もあるかもしれないが、今の時点では分からない。
貴重品には全く手はつけられておらず、下着類もあるとしたら、後は最初からあったかどうか、引っ越しの際に捨てたかどうか、すぐには思い出せない物だろう。
溜息を吐く。
警察沙汰になったことを知ったら、また宮下が心配するだろう。
そして、何度目だと思われるだろう。
また、トラブルのタネだと思われるだろう。
この大事な時期に……。
「……」
顔を覗き込んできた九条と目が合った。
が、すぐに逸らす。
「…さっきの…人の気配を感じたと言っていたが、本当にカーテンだったか?」
「………多分……」
でも、外に出た形跡がないのなら、カーテンなのだろう。しかし、香月的には誰かが居た気配を感じて外に飛び出したのは確かだ。
「……数日は休んで部屋の片づけをして。必要なら引っ越し、店舗ではない、本社への異動も考えておく」
それらは、半分予想していた事だった。警察沙汰になると、いつもこの話題になる。
鍵がかかっていたドアの中に入った途端の、あり得ない人の気配は確かに怖かったし、同じ所を片付けたとして、住める気にはならない。
1人暮らしなんか、当分したくない。
「……」
「いいな?」
念を押してくる。
だけど、店舗から本社には戻りたくない。市瀬だって昨日はかばってくれようとしていたし、何より、宮下の下で働いていたい。
「………でも……」
それを、九条にうまく伝えられるか…自信がない。
「ダメだ。決定事項だ」
九条の頭は固く、分かってくれそうにはない。
香月は、冷静に口をつぐむとただ一度、頭を小さく縦に振った。
♦
警察から解放されたのが、午前7時半過ぎ。マンションまでは九条が送ってくれて、その足で本社へ戻る九条を見送った後すぐにタクシーを呼んだ。
そして店舗の近くのコンビニで下車、化粧直しと匂い消しのスプレー、朝食を買い込み、歩いて店舗へと入る。8時前。もう裏口は開いているはずだ。
そのままトイレでしばらく身なりを整え、スタッフルームで朝食を食べて、9時から勤務を開始する。
昨日の制服のままだが、誰もそんな事気付かないだろうし、夏じゃないから一日くらい大丈夫だ。
14時。倉庫の一部から雨漏りしたせいで備品の掃除機が故障したことに気付き、新しい物をおろしてもらおうと稟議書を副店長室に取りに行く。
「失礼します」
まだ誰も、昨日の事は知らないはずだ。
「稟議書を取りに来ました」
「はーい」
こちらを見もしない関副店長と、長谷川副店長はそれぞれのデスクでパソコンに集中している。
「…」
どちらもここに入る前の面識はない。関は元ホームエレクトロニクスだったらしいが、記憶にはないし、長谷川のこともよくは知らない。
稟議書、という棚を開ける。しかし、一枚も用紙がなく、香月は仕方なく空いたパソコンに手を伸ばした。だが、電源が入っていない。立ち上げてからとなるとしばらくかかる……。
「失礼します」
カウンター部門長、桜井 眞依(さくらい まい)が入室してくる。
「来月のシフトのことでご相談が」
香月は驚いて桜井を見た。思わず目が合ったので逸らす。
気付いた関が振り返り、
「あぁ。この前のでだいたい良かったから、同じようなのでいいみたいな感じで宮下さんが言ってたけどな。聞いてない?」
宮下が……。
「あ、それは聞いてるんですけど、ちょっと、ご相談が」
関にあるらしい。しかし、その場でも大丈夫なようで、桜井はさっと関の側に寄ると、用紙を見せ、2、3質問して、それに関が簡単に答えてすぐに部屋から出て行った。
シフト……。
カウンター部門長がシフトを……。
「桜井さんが、シフトを作ってるんですか……」
香月は、桜井が出たと同時に呟いた。
「…うん。前からカウンターは作ってたから」
「……」
突然、ただ稟議書を取りに来ただけの自分が惨めで仕方なくなった。と、同時に今日休まなくて本当に良かったと思った。
休んでいる場合ではない。
市瀬の上っぺりの褒め言葉に喜んでいる場合ではない。
私は宮下に、ちゃんと褒められるはずなのに……。
「……稟議書?」
突然長谷川がこちらを向いて聞いてきた。
インテリメガネをかけた、落ち着いた印象の長谷川は、長い腕を伸ばしてプリンターに溜まっていた印刷済みの用紙をごっそり取り、
「誰か印刷してたみたいだけど」
「……ありがとうございます……」
なんだ、ちゃんと棚に入れてくれればいいのに。
「ひょっとて掃除機?」
「あ、はい」
もしかして、長谷川も書こうと思ってた?
「さっき市瀬主任が印鑑取りに来た。もうファックス済み」
一歩遅い、と言われたも同然だ。
「すみません」
仕方なく、手渡された稟議書の束を棚に戻す。
みんな、仕事をちゃんとしている。
私だって、ちゃんとやらなきゃ!
バタン。
ドアを開けたのは宮下で、
「香月! ええ!? なんで出社してる!?」
そんな言葉ってあるんだろうか。
「………香月………」
宮下はこちらをじっと見つめて来た。眉間に皴を寄せて、困っているのが分かる。だけど私は今日は出社になっているから…。
「……ちょっと、店長室まで」
宮下はそれだけ言う。
稟議書はもう棚にしまったし、ここにいる意味はない。だけど足が動かない。店長室になんて、用はない。
「……」
返事をしない理由を見破ったのだろう。黙ってじっと顔を見つめた宮下は、再び口を開いた。
「………香月、店長室で待ってる」
バタンとドアが閉められた。
喉の奥が熱く、痛くなる。
♦
ドアが閉まったと同時にデスクから身体を離した関は、宮下の言葉の意味が分からず、ただ突っ立つ香月の形の良い背中を見た。
まさか、今の会話がプライベートなものだとは思えないが、この時間帯にこの場所にきっちり合っているのだとしたら、不自然すぎる。
美しい香月は一点を見つめ、物憂げな顔をしている。
「……どういう意味?」
優しく聞いてやる。だが、その横顔は長い睫が揺れるだけで、何も語らない。
「………。何か仕事があるなら代わる、店長室へ行け」
隣の長谷川はそう切り出した。彼のことはまだよく分からないが、それでも気にしていることは確かだ。
「…………仕事なんか、ありません」
香月はそう吐き捨て、ドアを開けて簡単に出て行った。
美人だ、綺麗だともてはやされている上、附和社長との関係もあり、九条参与との三角関係も噂され、更には宮下の心も掴んでいる……。副店長の俺達にはまるで吐き捨てるよう…か……。
その言い草に引いた俺は、長谷川と顔を見合わせ、ドアが閉まり切るのを待ち、
「香月、今日出社じゃなかったんですか?」
思い当たる事を聞いた。
「シフト上は出社のはずだが…。さぁ」
長谷川はそれでも言葉少なに冷静に返した。
♦
店長室に行くのは気が引けた。今の状況ではどうせ、九条の言う事を聞けと言われるに違いなかった。
だから、附和に直接文句を言いたいのに……。言いに行っても、うまく交わされるに違いない。
結局、結局誰も私のことなんか考えていないくせに。
「……」
半ば、乱暴にドアを開ける。
「……」
宮下は、何もしようとはせず待っていてくれたようで、腕を組んで尻だけデスクに乗せ、入口をじっと見ていた。
「………失礼、します」
背後でドアが閉まる。
「朝聞いた。昨日の事。空き巣が入ったから今日は休みになると。それから本社へ異動。引っ越し」
「………」
全部、自分の意思ではない。
全部、何もかも、私の意思は反映されない。
悔しくて、涙が出た。
「他の社員はみんな、自分の希望を聞いてもらえます!異動希望用紙に、希望を書いています!」
「全部じゃない。家の近くの店舗を望んでも、単身赴任しているヤツはいくらでもいる」
「………」
それはそうだ。そうだけど……。
「ある程度は仕方ない。そういうものだ、会社というのは」
「そうかもしれません。そうかもしれません!」
宮下はじっとこちらを見てくれている。
「でも、引っ越しは私の意思は入っていません!」
「同じ所に住みたいのか?」
そう聞かれれば……。
「九条参与は頭が固い」
ふっと宮下は笑った。
「真っ直ぐで真面目だ。その上香月の性格も、過去も知らない。おそらく今の状態もあまり話してないだろう? 記憶が戻った話をしたか?」
香月は力を抜いて、首を横に振った。
「九条参与は世話役の義務をしっかり果たそうとしている。それなら、香月もそこに身を預ける気持ちでいいと思う」
「でも、」
「言いたいことは分かる。店舗でいたい。それは昔からそうだ」
宮下はしっかり頷いてくれる。
「今回のことは、店舗で起きた事件ではないし、店に迷惑をかけたわけじゃない。だから、店でいられるように、掛け合ってはいる」
「ほんとですか!!!」
思いもよらぬ宮下の言葉に、身を乗り出して見つめた。
「だから、香月も、九条参与と仲良くしてくれ」
宮下は、眉を顰めて笑う。見たこともない苦笑顔に、宮下がそういう風に折り合いをうまくつけて仕事をするようになったんだと改めて感じた。
「まだホームエレクトロニクスとリバティが統合する前、附和社長が、リバティの店舗視察で副社長に、『香月愛を丁重に扱うように』と言った時、俺も近くにいた。あの時は香月をどう扱うかで、大騒ぎしてた」
香月は思わず顔を伏せた。
「その一言が、九条参与をああしてるんですよね…」
「悪いことじゃないとは思う。今回だって、九条参与がいたから香月も早くに安心できたんだし。色々、記憶喪失を心配して言ったんだと思う」
宮下がそう言うのなら、そうなのかもしれない…。
「香月が九条参与にもっと心を開いてくれたら、今回の店舗残留もうまくいくかもしれないし。でもまあ、仮に本社勤務になったとしても、店舗応援で指名して、何度でも呼ぶよ」
ああ、やっぱりこの人は。
「ほんとですか!」
涙が出るほどに、私のことを理解してくれている。
「それでこの店が軌道に乗って俺が本社に戻ったら、いつでも店舗に戻してやれる」
「えっ、そんなことが決まってるんですか!?」
思わぬ人事の告白に、目を真ん丸にさせた。
「多分な」
簡単に言う。その視線で、信頼してくれているんだということが分かる。
「涙は止まった?」
宮下は、デスクから尻を下して、組んでいた腕を離した。
「あぁ……私、きっと宮下店長にまた警察沙汰だって思われて、厄介者だと思われてるって思いました」
急に吐露したくなる。
と、宮下は笑い。
「まあ、思うけど」
「えっ、厄介者だって思ってるんですか!?」
香月は驚いて問い直した。
「いや、厄介者だとは思ってないけど、不運が重なるなあとは思ってる。でも、そのトラブルを解決するのは俺の役目だと思ってるし。まあ、今回は九条さんが主に面倒をみてくれるんだけど」
ああそうだ…以前もそう言って、私を受け入れてくれた。
「香月」
「はい」
しっかりと目を見て返事をした。宮下もこちらをしっかりと見つめてくれている。
「行っていいよ。今日は出社できそうだと俺が判断したと九条参与に伝えておく。退社したら香月から連絡するようにも言っておくから、必ず連絡を入れるように」
「あ……ありがとうございます!」
頭を下げて、部屋を出た。
今が、最高だと思えるほど、嬉しい瞬間だった。
ああきっといつになっても、私を全て丸ごと分かってくれるのは、やっぱりこの人しかいない。
宮下 昇(みやした のぼる) 香月の上司(店長)
九条 優一(くじょう ゆういち) 本社常務(参与)
関 一(せき はじめ) 香月の上司(副店長)
市瀬 秀明 (いちせ ひであき) 香月の上司(フリー主任)
附和 薫(ふわ かおる) 附和物産(社長)
四対 樹(よつい いつき) 四対財閥(社長)
巽 光路(たつみ こうじ) 実業家/フィクサー
♦
私は過去、家電量販店、ホームエレクトロニクスに勤めてはいたが、その時新店オープンには関わったことがない。
エレクトロニクスとリバティがあの日の予告通り統合した一年後の、新店舗 カナザシティ本店、家電専門棟 オープン10分前。
店中がピリピリした緊張感に包まれるその時、香月は何故かそう思った。
自分が目指すつもりにしていたレジカウンターの中ではなく、外にフリー要員の平として行儀良く立ち、時計を確認。8分前。
目の前を貫禄ある宮下が堂々と横切る。エントランスへ向かっているのだろうか、彼は左手首のロレックスをちらと見た。
そう、あれは確か奥さんのお父さんからもらった物だと誰かから聞いた。
そう、奥さんが妊娠している時、夫婦そろってケーキ屋に居たところに偶然会った。
そう、私は宮下を置いてロンドンへ行った。
そう、宮下は……私を丁寧に抱いた。
ああ……何で今それを思い出したんだろう。
何で今この瞬間……
『3分前。全員配置について下さい』
宮下の声が全社員200人、応援陣50人、全ての人のインカムのイヤホンに流れる。
その声が少し、緊張しているのが分かる。そして、その緊張を落ち着かせるように、ゆっくり発声しているのも分かる。
そうだ、私は附和と浮気なんかしていない。
そうだ、私は巽が好きだった。
そうだ、私は…それでも宮下を尊敬していた。
5年間の失われていた記憶が、突然全てが徐々に合致し、クリアになっていく。
『オープンします。皆さん、よろしくお願いします』
あぁ……私は今、32歳の…ただの女性だ。
そう、私はただ……あの頃から普通に生きていた、ただの女だ。
♦
目まぐるしく一日が過ぎるという予想はしていたので、その通りに時間が経ち、ようやく26時、セコムをセットするところまでいった。
この一年間の緊張が今日の一日で少し溶けた宮下は、ふーっと息を吐き切って従業員通用口を最後に閉めた。
明日も朝は早いのでもう少し早く切り上げたかったが、そうはいかなかった。まあしかし、オープンだから仕方ない。
それでも自らの責任はきちんと果たせたはずだと、自信を持って駐車場を振り返った時、ようやく香月も一緒に残っていた事に気付いた。
「まだいたのか!」
思わず声に出る。
「はい、カウンターにあるファイルがどうしても使いづらかったのできちんと使えるようにしておきました」
やけに笑顔だ。きちんとこちらの目を見ている。
「………」
何か、違って見えた。
いつもと、何かが違う。
はたと気づいた。
「ほんとになんだか…懐かしい……」
「まさか、……!」
思わずその細い腕を掴んだ。記憶が戻ったのではないか! 全ての記憶が。俺と、付き合っていた時の記憶も一緒に!!
香月は急に目にいっぱい涙をためて頷く。同時にそれは零れ落ちた。
「………」
宮下は、咄嗟に手を縮めた。今はもう自分には家庭がある。
「………」
それに気づいたであろう香月は、すぐに涙を拭い、再び顔を上げる。
「なんだか、突然パッと……」
しかし、視線はそらしている。こちらも、気恥ずかしい気持ちが先に立った。
「………何で、このタイミングに」
笑うしかない。
「分かりません……」
瞬くとまた涙が零れ落ちた。
それは、どういう涙なのかはわからないが、全ての者を狂わせるのに、それ以上ない事は確かで。
「なんで…こんなタイミングに…」
もう言葉に意味なんかない。
ただ、目の前の香月がいつも通り美しすぎて。
そうだ。泣くのを堪えようとする姿も、そしてそのまま微笑んで涙を流す顔も、ある意味いつも通りなのに。俺との過去を思い出し、抱かれた事を記憶にとどめてくれていることは、こんなにも特別なんだ。
「……あぁ……」
感情が込み上げ過ぎて、我を忘れて頬の涙を拭った。
香月はそれに応えるように目を閉じ、最後の涙を落とす。
「………」
開いた瞳は、狂おしいほど愛らしく。そこがもし、会社でなかったら。
自分は全てを捨てて抱き締めていたかもしれない。
それくらい恐ろしいほどに、足の一歩も出ないほど。俺はしばらく、ただその顔を穴が空くほどに見つめていた。
♦
3人の副店長のうちの1人、関 一(せき はじめ)は、店長 宮下とその部下、香月の2人のやりとりを真横で見ていて、ただならぬ空気を感じ、思わず見入った。
リバティとホームエレクトロニクスが統合し、両社員が入り乱れた状態で役職を与えられ、仕事をするだけで皆緊張し、ストレスも感じている。自分も、ホームエレクトロニクス最大店で数年店長をしていたのに、途端に副店長だ。しかも今日はオープン1日目でメディアと客が押し寄せるだけに、疲れは半端なかった。
しかしそんな中でも、宮下はストレスを緩和させてくれそうだと予感した。正々堂々と店をまわそうとする姿は頼もしい事この上なかった。
自分はエレクトロニクス最大店、東都シティをそれなりに切り盛りしてきたつもりだが、それでも当時の本社営業部長、登(のぼる)には勝てないと思っていたし、また、登も今回副店長として起用され、同じく宮下には敵わないと思ったに違いなかった。
厚い人望、落ち着き払った視線、余裕の表情、そして何より、周囲への丁度良い気配り、一般受けする清潔な外見。
つまり、美しき香月と見つめ合うに相応しい、ともある意味では言えた。
香月 愛。一言声をかけてみたい、振り返らせてみたいと、出会った男はおそらく皆思ったに違いない。それほどの強烈なインパクトを与える、美貌。長い睫、通った鼻筋、赤い唇に儚げな黒い瞳。肌は透き通るように白く、結わえられた長い髪の毛は艶のあるダークブラウンで。袖から出た白く細い腕、スカートの丈から出た小さな膝、その後の白く細い足。
完璧とまでに称される女性がどれほどにいるのだろうか、いや、この人しかいないと思わせるほどの美人。
美しい人。
そうとしか言いようがない。
話しによると、宮下がホームエレクトロニクスからリバティに移った後、香月はその後を追う形になったと言っていたし、深い仲だったと考えるのは容易だ。
「……まさか!」
宮下が急に香月の腕をとったのを捉えた。
あの白い腕をいとも簡単に掴み、しかもそれでも香月は宮下を見つめている。
他人の情事を見てはいけないと思いつつ、どうしても足が地から離れなかった。
2人の関係は、本当にそうなのか。宮下には子供がいると聞いた。だとすると、不倫なのか!?
「……なんでこのタイミングに…」
完全に2人の世界に入り込んでいる。
つと、我に返り、足を無理矢理動かした。
耳の神経全てを使って2人の会話を捉えようとしたが、もう何も聞こえない。
諦めて、無心で駐車場の隅にある愛車、ベンツに乗り込んでから、先程出た通用口をようやく確認する。
しかし、遅かった。そこに姿はもうなく、2人は駐車場の真ん中で肩を寄せ合って歩いている。
宮下が、結婚しながらも香月の心も射止めていたのだとしたら、それはそれで頷くしかない。
先程、香月と何を話し込んでいたのか、言葉少なく、意味も分からなかったが、随分親しい事だけは感じとれた。
ただ、あの暗がりの中、あれほどの美しい表情を絶妙に歪ませ、真剣に何かを乞われていたのだとしたら。それが俺だとしたら、宮下のように落ち着いてはいられなかったかもしれない。
「……」
そこまで考えて、やめた。社内恋愛というのは碌なものではない。
それは実感して、身に染みて分かったはずだ。
例え、どれほどの美人がいようが、その美人に言い寄られようが、自分だけは決してそこに身を投じることはしないと強く、無駄に強く言い聞かせてハンドルを握り、それぞれの車が駐車場から出て帰るのをただ1人黙認した。
♦
「東山撮影事務所……。エアコン3台。場所は……東大区……。どの人?」
香月が持っていた伝票を横取りするかのごとく、大きな手に奪い取られる。
広い店内は商品ごとに区分けされ、立ち位置を決められている販売員に対し、端から端まで売り動くフリー要員の主任 市瀬は鋭い視線をカウンターの向こう側にあるソファに流した。
「え……。そこの……あそこの……」
香月は客にこちらの視線がバレないよう、気遣いながらも、長身の市瀬には分かるように説明する。
「……大丈夫そうだな」
すぐに伝票は返してくれたので、香月はそのまま客の対応を続ける。接客し終えると、市瀬は既に次の仕事を探しに売り場に行ってしまっていたので、姿を探してから声をかけた。
「さっきの…撮影事務所ってところに引っかかったんですか?」
「いや、北大区。ヤクザが多いから。気を付けて」
「、分かりました」
すぐに仕事に戻る。
フリー要員は主任の市瀬を中心に6名いる。市瀬は人当たりが良く、仕事も喋りも上手で香月はす
ぐに惹き込まれるように尊敬するようになっていた。
その期待に応えるつもりで、香月の仕事ぶりもラインに沿っていく。真っ直ぐ目を見て意見を聞き入れ、きちんと頷いて返事をする。言われた事は必ずやりとげ、無茶はしない。迷惑はかけない。周囲を見る。
それに対して市瀬は、1つこなしただけで、10したかのように「すごい、さすがだ!」と褒めてくれる。
褒め上手なのは分かっているが、それに乗せられたくて、次の仕事、次の売上を探して、成果を報告する。
コピーがうまくできないという些細な悩みでもきちんと受け止めてくれる。ボタンを押し間違えないようにシールを貼ろうと一緒に仕事をしようとしてくれている。ボタンが分かりづらい事を、分かろうとしてくれている。みんなが一様に出来るように、一緒に次に進めようとしてくれている。
そんな当たり前のことを、当たり前のごとく自然にしてくれる。
店がオープンしてから1か月が過ぎ、マスコミの取材は少し減ったが、それでも本社広報係りはよく店に来ている。
同時に、業務管理を行う参与の役職を与えられた九条が用意してくれたLDKマンションに引っ越ししてから2か月が経過した。
皆は本社が準備した近辺のマンションにそれぞれ移り住んだと聞いたが、香月だけは九条が選んだ物件になっている。そういう特別扱いは嫌いだと言おうとしたが、ただのLDKで家賃も他と変わらず、場所も他の人と変わらぬ店から車で5分だし、何がどう特別なのかという判別が難しかったため、何も言わずそのまま受け入れている。
さて、ここ数日は大雨の日が続き、来客、売上共に少し落ち着いていた。
2時間残業した市瀬と、定時で上がった香月は偶然並んで従業員通用口を目指していた。
「市瀬主任は、お家はどこですか?」
香月は少し市瀬のプライベートが知りたくなって聞いた。フリー要員は人数が少なく、交代になるので、食事も同じ時間になることが少ないため、お互いのプライベートを知ることが少ない。
「俺は元のリバティの近く。こっから40分くらいだよ。会社が家を用意してくれるって言った時、引っ越すのが面倒だからやめたけど、40分は結構遠いなあ……。でもまあ、引っ越すのは面倒だけど…お疲れ」
市瀬はふっと顔を顰めながら笑い、横切る社員に挨拶する。
そのような、売り場とは違う顔を見たのはこれが初めてだった香月は、市瀬が疲れていることを知った。
「今日飲みに行きませんか?」
社員は市瀬を簡単に誘っている。
「いやあ、やめとくよ。明日も出社だし」
多分、自分も同じように疲れている。
家は車で10分もかからない場所だが、この1年間の緊張やら不安がここに来て一気に出たような気がした。
「香月はホームエレクトロニクスでいて、リバティに行って。今はどう?」
久しくその話題になったなと思った香月は、
「うーん」
それ以上に言葉が出ない。それよりも記憶がなくなったり、戻ったりしたことの方が重要で、勤め先が変わることなど大した意味を持たない気がしていた。
「別に、なんともないですよ」
簡単に切り上げる。
「お疲れ様です」
目の前から来た人物に、市瀬が先に挨拶した。フリー要員と白物家電販売員をまとめている女性部門長、花端(はなはた)だった。年は香月より少し上だと聞いている。いつもつけているピアスが、今日もきらりとボブショートの隙間から見えた。
「お疲れ様です」
香月もなんとか挨拶できる。
「お疲れ。市瀬、飲みに行こう」
従業員通用口から入ってきたはずの花端は立ち止まることなく、通り過ぎてしまう。花端が何時にどことも言わず、階段を上って行ってしまう姿に、香月はさすがに市瀬を見上げた。
が、その後ろ髪に惹かれるように、立ち止まったままだ。
関係のない香月は一歩先に踏み出したが、
「香月」
市瀬に簡単に呼び止められる。
「はい」
振り返った表情にはまだ少し余裕があったのか、
「飲みに行くか? 一緒に」
それでも、急だ。
「いえ…明日も出社なので、今日は失礼します」
先に足を進める。
背後で市瀬はスマホを確認していた。何時にどこというのは暗黙の了解なのか、それとも今から連絡を取り直すのか。
あまり興味を持たなかった香月は、通用口のドアを開けた。ふっと溜息をつく。土砂降りだ。
「………」
傘………。
思わず、傘立ての奥。壁との隙間を見た。
確かあの時、宮下は、そこから傘を出して来た。
あれは、いつの事だったか……。
「………」
突然目の前が暗くなり、足元が崩れた。
しかしすぐに、誰かの声が聞こえる。
「香月! 大丈夫か!」
背後から抱きかかえられたのが分かる。大丈夫、目は開けていられる。だけど、耳鳴りがする。
「どうする!? 救急車呼ぶか!?」
それほどではない。香月は落ち着いて首を振った。
眩暈だ。ただの。耳鳴りがすっと引いていく。
「疲れてたのかな……」
それは市瀬も同じだろうと思う。
「立てれるか?」
分からない。けど、ぐっと両腕を支えられ、持ち上げられた。
「……」
ああ、案外大丈夫なものだ。立ってみれば、大したことはない。
「顔色が悪い」
雨が強くなった音したので、外を見た。
「少し待ってから帰るか。もう一回スタッフルーム行けるか?」
考えただけで面倒だ。
「いえ……帰ります」
声を振り絞る。
「ったって。運転は危ない。この近くだっけ。送ってくよ。明日はタクシーで来るかなんかして」
「……」
簡単に頷く。その方がありがたい。タクシーなら1000円少々だ。
「ちょっと待ってて。車横付けするから。うわー降り込んで来たなあ最悪…傘持ってくれば良かった」
♦
九条優一は、真っ赤なアルファロメオをカナザシティ本社から自宅までの15分、漫然と走らせていた。
リバティにいた頃は、本社まで1時間かけて通うほど、当時住んでいたマンションを大切にしていたが、さすがに2時間かけての通勤は苦痛だと思い、3カ月前に引っ越し、その近くのマンションに香月を住まわせた。事に彼女はまだ気付いていない。
高層マンションの上階からは、3階建てのマンションの2階部分、香月の部屋の窓が見下ろせるようになっている。
そうしておけば、夜帰っていない時が分かるし、何かあった時にいつでも駈けつけられる。
そこまですることを、附和社長自身が本当に望んでいるのかどうかは知らないが、「香月愛を丁重に扱え」の1つだと信じ、秘かに監視することにした。
監視というのは表現が悪いが、世話役として近くに住むのは当然のことだと言える。
職場は店舗と本社でお互い別々だが、香月のシフトは毎日必ず確認している。
この2か月は忙しかったため、さすがに疲れが出ているだろうとは思ったが、むやみに会いに行くようなマネだけはしていない。
予想出来る範囲内のことは、店長の宮下に任せておけばいい。別に、彼女のことをどうしたいと考えているわけではないし、ただ、いざと言う時、すぐに力になれる存在であればいいと思うだけだ。
そういう思いと、行動が一致しているのかどうかは考えないようにして。
雨が小降りになったこともあり、なんとなく気になって、香月のマンションの駐車場の方を回り道する。
「え?」
九条は思わず急ブレーキを踏み、駐車場の空きスペースに車をねじ込んだ。
慌ててドアを開き、エントランスまで走る。
「……九条参与!!」
自動ドアから突然現れた俺に、目を真ん丸にさせて驚く香月と、その隣にいる男。あれは市瀬か。
「…………帰っていたら、2人の姿が見えたから。市瀬、君は香月の恋人か?」
冷静を装いつつ聞いた。
「そっ、いや…」
「違います」
動揺する市瀬を尻目に、香月は急に目を吊り上げて睨んだ。
「でも例え、私に恋人がいたって何が悪いって言うんですか!」
堂々と言い切られる。『香月愛を丁重に扱え』という言葉に一瞬迷いを感じたが、
「悪くはない。だが、附和社長のお気持ちも考えるように、と言いたいわけだ」
「そんなの知りません!」
香月は顔ごと逸らしてそっぽを向いた。その、なびいた髪の毛が少し頬にかかり、絶妙な色気を醸し出したせいで、一瞬たじろぐ。
とりあえず、ギロリと市瀬を睨んでおく。バツが悪そうな市瀬は、さっと目を逸らした。
「…もしかして、つけてたんですか?」
邪鬼にされていることに、さすがに苛立った俺は、
「そんなわけないだろう! そもそも君が附和社長との事を曖昧にしているから、こうなってるわけだ。 こっちだっていい迷惑なんだ」
声が壁に反射して響いた。さすがに香月は唇をへの字に曲げ、微動だにしない。
「あの…その、よくは分かりませんが」
市瀬が口を挟もうとするので、
「分からないのなら、黙っていたまえ」
抑制する。
「何が大事でそこまでするんですか? そこまで言えるんですか」
香月は攻撃の糸口を見つけ、口答えしてくる。
「ただの仕事だ」
冷静になった方が勝ちだと、静かに言い切る。
「君と違って真面目に仕事をしているだけだ。君がちゃらちゃら男といるからこんなハメになるんだ」
自分でも言い過ぎたことは分かっていたが、止められなかった。
何故よりにもよって、市瀬なんかと。しかも自宅マンションにまで呼んで、こんな玄関先で2人でいて、その言い訳にどんな意味がある。
しかし、さすがに香月は肩を震わせ、歯を食いしばった。
「九条参与」
市瀬も睨んで言い返してくる。
「…私のなんにも知らないくせに」
俯いたまま震える声で言い切り、後ろを向いた。そのまま階段を駆け上がってしまう。
追いかけても仕方ない。
溜息を吐きたかったが、とりあえず市瀬に、
「先に帰りたまえ。私はしばらく経ってから帰る」
腕時計を確認した。まさか、荷物をまとめて出て行くとは思えなかったが、この先何かあれば、失態確実だ。
「………。どういう事なんですか。附和社長って、母体の附和物産の社長ですよね?」
そんな呑気な事を言っているヤツに、説明する義務はない。
「君には何も関係のない事だ。ただ香月愛には、むやみに近づかないように。それだけ守っていれば何も言うことはあるまい」
市瀬の背中を見送ってから、2分が経過した。さて、いつまで待つか。俺の自宅マンションからは香月の駐車場が見えず、車で逃げられると後がやっかいだ。
「………」
しかし、冷静になってくると、言いようのない虚無感と、罪悪感、後悔などが入り乱れ、大きく溜息を吐く。
香月に何かあれば即首……になる可能性だってなくはない。それくらい香月の事を思うことは大事なんだと、自分に言い聞かせて、エレベーターの表示を見た。
荷物をまとめて出て行く可能性……そんなもの、本当にあるのだろうか。
3分経っただけだが、ようやく無意味なことを悟り、外へ出ることを決意する。
その時、階段から、
「誰か来て!!」
あり得ない展開に、俺は慌てて階段を駆け上る。
香月の悲鳴にも似た声、一体何が!
見上げると、手すりにつかまりながらも、降りようとしている姿が見えた。
「……香月、いっ……」
たい。
胸に抱き着かれる。
甘い香りが全身を襲い、柔らかな感触が服越しに伝わる。触れてはいけない。分かっているのに、身体がいうことを効かない。
「……」
ネクタイの辺りをぎゅっと掴んでくる。
身体を小さく縮こませ、我が胸にすがりついてくる。
「………」
たまらず、抱きしめ返した。
「……」
柔らかなその感触を確かめるかのように、抱きしめ直してしまう。
「………」
つと、香月が胸から離れた。
慌てて、我に返る。
今、俺は、一体……。
「へ……部屋が荒らされていて…」
「部屋?」
ようやく、会話になる。
「……見てくる」
「あっ、誰かいるかも! 何か動いた気がして……」
ようやく目を合せた。
が、すぐに逸らされる。さっきの事を気にしているのかもしれないが、あれは、ただ抱き着いてきたから抱きしめ返しただけで…。
「………警察を呼ぶ。いいな?」
「……」
香月は何かを考えながらも、小さく頷いた。
♦
事情聴取や現場検証は朝まで続いた。
警察の待合室でうとうとしたが、時折、九条が電話に出る声で目が覚めた。
「附和社長はニューヨークにいらっしゃるそうだ。よく様子を見ておくように預かっている」
「……」
今は言い返す気力はない。
むしろ、誰か側にいて欲しいとさえ思っている。
あの時、誰かまだ中にいると思ったのはおそらく、揺れるカーテンを見間違えたせいだろうと判断された。証拠に、目撃者はないし、防犯カメラにもそれ以降何も映っていない。
警察にはプロの犯行だと言われた。
部屋はそれほど荒らされてはいなかったが、少し扉が空いていたり、別人の気配は明らかに感じ取れるほどだった。調べると、風呂の排水溝やブレーカーまで開けた痕もあるほどだったという。何か探そうとしていたことは明確らしく、何か預かった物はないか、と何度も聞かれた。
だが、引っ越しして2カ月で、その間に預かった物などなく、記憶も大抵は戻っていることから、預かった物は確実にないと自分では判断している。
それよりも、感じたのは。考えてみれば、親会社の絶対権力者である社長、附和に大事にされ、九条にもそのように扱われていることを幾人かは知っているようだし、それが噂になっているのだとしたら、逆恨みとか、そういうことではないかという気がしてきていた。
もちろん、それは警察に言うつもりはない。
附和だって色々遊び歩いていたし、輩を雇えるような女はいくらでもいるだろうし。
ひょっとしたら他に盗まれている物もあるかもしれないが、今の時点では分からない。
貴重品には全く手はつけられておらず、下着類もあるとしたら、後は最初からあったかどうか、引っ越しの際に捨てたかどうか、すぐには思い出せない物だろう。
溜息を吐く。
警察沙汰になったことを知ったら、また宮下が心配するだろう。
そして、何度目だと思われるだろう。
また、トラブルのタネだと思われるだろう。
この大事な時期に……。
「……」
顔を覗き込んできた九条と目が合った。
が、すぐに逸らす。
「…さっきの…人の気配を感じたと言っていたが、本当にカーテンだったか?」
「………多分……」
でも、外に出た形跡がないのなら、カーテンなのだろう。しかし、香月的には誰かが居た気配を感じて外に飛び出したのは確かだ。
「……数日は休んで部屋の片づけをして。必要なら引っ越し、店舗ではない、本社への異動も考えておく」
それらは、半分予想していた事だった。警察沙汰になると、いつもこの話題になる。
鍵がかかっていたドアの中に入った途端の、あり得ない人の気配は確かに怖かったし、同じ所を片付けたとして、住める気にはならない。
1人暮らしなんか、当分したくない。
「……」
「いいな?」
念を押してくる。
だけど、店舗から本社には戻りたくない。市瀬だって昨日はかばってくれようとしていたし、何より、宮下の下で働いていたい。
「………でも……」
それを、九条にうまく伝えられるか…自信がない。
「ダメだ。決定事項だ」
九条の頭は固く、分かってくれそうにはない。
香月は、冷静に口をつぐむとただ一度、頭を小さく縦に振った。
♦
警察から解放されたのが、午前7時半過ぎ。マンションまでは九条が送ってくれて、その足で本社へ戻る九条を見送った後すぐにタクシーを呼んだ。
そして店舗の近くのコンビニで下車、化粧直しと匂い消しのスプレー、朝食を買い込み、歩いて店舗へと入る。8時前。もう裏口は開いているはずだ。
そのままトイレでしばらく身なりを整え、スタッフルームで朝食を食べて、9時から勤務を開始する。
昨日の制服のままだが、誰もそんな事気付かないだろうし、夏じゃないから一日くらい大丈夫だ。
14時。倉庫の一部から雨漏りしたせいで備品の掃除機が故障したことに気付き、新しい物をおろしてもらおうと稟議書を副店長室に取りに行く。
「失礼します」
まだ誰も、昨日の事は知らないはずだ。
「稟議書を取りに来ました」
「はーい」
こちらを見もしない関副店長と、長谷川副店長はそれぞれのデスクでパソコンに集中している。
「…」
どちらもここに入る前の面識はない。関は元ホームエレクトロニクスだったらしいが、記憶にはないし、長谷川のこともよくは知らない。
稟議書、という棚を開ける。しかし、一枚も用紙がなく、香月は仕方なく空いたパソコンに手を伸ばした。だが、電源が入っていない。立ち上げてからとなるとしばらくかかる……。
「失礼します」
カウンター部門長、桜井 眞依(さくらい まい)が入室してくる。
「来月のシフトのことでご相談が」
香月は驚いて桜井を見た。思わず目が合ったので逸らす。
気付いた関が振り返り、
「あぁ。この前のでだいたい良かったから、同じようなのでいいみたいな感じで宮下さんが言ってたけどな。聞いてない?」
宮下が……。
「あ、それは聞いてるんですけど、ちょっと、ご相談が」
関にあるらしい。しかし、その場でも大丈夫なようで、桜井はさっと関の側に寄ると、用紙を見せ、2、3質問して、それに関が簡単に答えてすぐに部屋から出て行った。
シフト……。
カウンター部門長がシフトを……。
「桜井さんが、シフトを作ってるんですか……」
香月は、桜井が出たと同時に呟いた。
「…うん。前からカウンターは作ってたから」
「……」
突然、ただ稟議書を取りに来ただけの自分が惨めで仕方なくなった。と、同時に今日休まなくて本当に良かったと思った。
休んでいる場合ではない。
市瀬の上っぺりの褒め言葉に喜んでいる場合ではない。
私は宮下に、ちゃんと褒められるはずなのに……。
「……稟議書?」
突然長谷川がこちらを向いて聞いてきた。
インテリメガネをかけた、落ち着いた印象の長谷川は、長い腕を伸ばしてプリンターに溜まっていた印刷済みの用紙をごっそり取り、
「誰か印刷してたみたいだけど」
「……ありがとうございます……」
なんだ、ちゃんと棚に入れてくれればいいのに。
「ひょっとて掃除機?」
「あ、はい」
もしかして、長谷川も書こうと思ってた?
「さっき市瀬主任が印鑑取りに来た。もうファックス済み」
一歩遅い、と言われたも同然だ。
「すみません」
仕方なく、手渡された稟議書の束を棚に戻す。
みんな、仕事をちゃんとしている。
私だって、ちゃんとやらなきゃ!
バタン。
ドアを開けたのは宮下で、
「香月! ええ!? なんで出社してる!?」
そんな言葉ってあるんだろうか。
「………香月………」
宮下はこちらをじっと見つめて来た。眉間に皴を寄せて、困っているのが分かる。だけど私は今日は出社になっているから…。
「……ちょっと、店長室まで」
宮下はそれだけ言う。
稟議書はもう棚にしまったし、ここにいる意味はない。だけど足が動かない。店長室になんて、用はない。
「……」
返事をしない理由を見破ったのだろう。黙ってじっと顔を見つめた宮下は、再び口を開いた。
「………香月、店長室で待ってる」
バタンとドアが閉められた。
喉の奥が熱く、痛くなる。
♦
ドアが閉まったと同時にデスクから身体を離した関は、宮下の言葉の意味が分からず、ただ突っ立つ香月の形の良い背中を見た。
まさか、今の会話がプライベートなものだとは思えないが、この時間帯にこの場所にきっちり合っているのだとしたら、不自然すぎる。
美しい香月は一点を見つめ、物憂げな顔をしている。
「……どういう意味?」
優しく聞いてやる。だが、その横顔は長い睫が揺れるだけで、何も語らない。
「………。何か仕事があるなら代わる、店長室へ行け」
隣の長谷川はそう切り出した。彼のことはまだよく分からないが、それでも気にしていることは確かだ。
「…………仕事なんか、ありません」
香月はそう吐き捨て、ドアを開けて簡単に出て行った。
美人だ、綺麗だともてはやされている上、附和社長との関係もあり、九条参与との三角関係も噂され、更には宮下の心も掴んでいる……。副店長の俺達にはまるで吐き捨てるよう…か……。
その言い草に引いた俺は、長谷川と顔を見合わせ、ドアが閉まり切るのを待ち、
「香月、今日出社じゃなかったんですか?」
思い当たる事を聞いた。
「シフト上は出社のはずだが…。さぁ」
長谷川はそれでも言葉少なに冷静に返した。
♦
店長室に行くのは気が引けた。今の状況ではどうせ、九条の言う事を聞けと言われるに違いなかった。
だから、附和に直接文句を言いたいのに……。言いに行っても、うまく交わされるに違いない。
結局、結局誰も私のことなんか考えていないくせに。
「……」
半ば、乱暴にドアを開ける。
「……」
宮下は、何もしようとはせず待っていてくれたようで、腕を組んで尻だけデスクに乗せ、入口をじっと見ていた。
「………失礼、します」
背後でドアが閉まる。
「朝聞いた。昨日の事。空き巣が入ったから今日は休みになると。それから本社へ異動。引っ越し」
「………」
全部、自分の意思ではない。
全部、何もかも、私の意思は反映されない。
悔しくて、涙が出た。
「他の社員はみんな、自分の希望を聞いてもらえます!異動希望用紙に、希望を書いています!」
「全部じゃない。家の近くの店舗を望んでも、単身赴任しているヤツはいくらでもいる」
「………」
それはそうだ。そうだけど……。
「ある程度は仕方ない。そういうものだ、会社というのは」
「そうかもしれません。そうかもしれません!」
宮下はじっとこちらを見てくれている。
「でも、引っ越しは私の意思は入っていません!」
「同じ所に住みたいのか?」
そう聞かれれば……。
「九条参与は頭が固い」
ふっと宮下は笑った。
「真っ直ぐで真面目だ。その上香月の性格も、過去も知らない。おそらく今の状態もあまり話してないだろう? 記憶が戻った話をしたか?」
香月は力を抜いて、首を横に振った。
「九条参与は世話役の義務をしっかり果たそうとしている。それなら、香月もそこに身を預ける気持ちでいいと思う」
「でも、」
「言いたいことは分かる。店舗でいたい。それは昔からそうだ」
宮下はしっかり頷いてくれる。
「今回のことは、店舗で起きた事件ではないし、店に迷惑をかけたわけじゃない。だから、店でいられるように、掛け合ってはいる」
「ほんとですか!!!」
思いもよらぬ宮下の言葉に、身を乗り出して見つめた。
「だから、香月も、九条参与と仲良くしてくれ」
宮下は、眉を顰めて笑う。見たこともない苦笑顔に、宮下がそういう風に折り合いをうまくつけて仕事をするようになったんだと改めて感じた。
「まだホームエレクトロニクスとリバティが統合する前、附和社長が、リバティの店舗視察で副社長に、『香月愛を丁重に扱うように』と言った時、俺も近くにいた。あの時は香月をどう扱うかで、大騒ぎしてた」
香月は思わず顔を伏せた。
「その一言が、九条参与をああしてるんですよね…」
「悪いことじゃないとは思う。今回だって、九条参与がいたから香月も早くに安心できたんだし。色々、記憶喪失を心配して言ったんだと思う」
宮下がそう言うのなら、そうなのかもしれない…。
「香月が九条参与にもっと心を開いてくれたら、今回の店舗残留もうまくいくかもしれないし。でもまあ、仮に本社勤務になったとしても、店舗応援で指名して、何度でも呼ぶよ」
ああ、やっぱりこの人は。
「ほんとですか!」
涙が出るほどに、私のことを理解してくれている。
「それでこの店が軌道に乗って俺が本社に戻ったら、いつでも店舗に戻してやれる」
「えっ、そんなことが決まってるんですか!?」
思わぬ人事の告白に、目を真ん丸にさせた。
「多分な」
簡単に言う。その視線で、信頼してくれているんだということが分かる。
「涙は止まった?」
宮下は、デスクから尻を下して、組んでいた腕を離した。
「あぁ……私、きっと宮下店長にまた警察沙汰だって思われて、厄介者だと思われてるって思いました」
急に吐露したくなる。
と、宮下は笑い。
「まあ、思うけど」
「えっ、厄介者だって思ってるんですか!?」
香月は驚いて問い直した。
「いや、厄介者だとは思ってないけど、不運が重なるなあとは思ってる。でも、そのトラブルを解決するのは俺の役目だと思ってるし。まあ、今回は九条さんが主に面倒をみてくれるんだけど」
ああそうだ…以前もそう言って、私を受け入れてくれた。
「香月」
「はい」
しっかりと目を見て返事をした。宮下もこちらをしっかりと見つめてくれている。
「行っていいよ。今日は出社できそうだと俺が判断したと九条参与に伝えておく。退社したら香月から連絡するようにも言っておくから、必ず連絡を入れるように」
「あ……ありがとうございます!」
頭を下げて、部屋を出た。
今が、最高だと思えるほど、嬉しい瞬間だった。
ああきっといつになっても、私を全て丸ごと分かってくれるのは、やっぱりこの人しかいない。