俺の手には負えない
2
♦
引っ越しをしてから1か月が経過した。オートロックマンションでセキュリティが高い物件にしたせいで家賃が上がった。
でも、もう子供が出来ないのなら、結婚出来ない可能性の方が高く、貯金したって仕方ない気しかしない。
結局自分の人生は、巽によって狂わされたわけで。
若気の至りでは済まされない代償を背負った。
しかし、考えても仕方がない。
それならそれで、あの時巽が言ったように、犬でも飼うしかない。
公休日のその日、1人で近所のカフェに来ていた香月は、ケーキプレートを何にもとらわれず、ゆっくり口に運んでいた。
だが、ケーキの上に乗せられているヨーグルトクリームが好みではなく、それをメニューの詳細に書いていてくれたら注文しなかったのに、と若干後悔の念でもって食べ進めていた。
附和や四対、巽に頼めば、レストランのデザートくらいすぐに思い通りになる。『附和を手にすれば世界はあなたの物だ』と言われたこともあった。だけど、どれも自分が求めているものではない。
それが、最近になってようやく理解できた事だった。
紅茶を一口飲む。最近飲めるようになってはきたが、今日はジュースにすべきだったなと、このカフェを選んだことを後悔しながら、顔を上げた。
午後14時。客はそれほど入っていない。
ジュースを飲み切ったら帰ろうとスマホの時刻を見た瞬間。
バターン!!!
隣で人が派手に倒れた。観葉植物に顔から突っ込み、薄いピンクのワンピースから足が大きくはみ出し、それがガタガタ震えている。
「えっ!?」
咄嗟に立ち上がろうとしたが、何をどうすれば良いのか分からない。
悲鳴や叫び声と共に、
「お、お客様!!」
という店員の慌てた声が重なる。
だが、その中でも一番に動き出した男性がいた。
すぐに女性を植木鉢から抱き起し、床に横たえた。
女性の顔は樹に倒れ込んでいったせいで、大きな傷が出来ている。その上白目で口からは泡を吹き、身体は怖いくらいに震えていた。
男性は私のテーブルにあったおしぼりを取り、細長く丸めると、女性のガチガチ鳴る歯の奥に強引に押し込んだ。
「救急車を!」
全員が、なんとなく解放されたように辺りを見回した。
「店員さん、救急車を」
男性は、片手でおしぼりを押さえ、片手で女性の足を押さえて冷静に要望する。
「あっ、は、はいいい!!」
店員は慌てて動き出した。
「私は両手が塞がれています。どなたか、ズボンのベルトを緩めていただけると助かるんですが」
一番近くにいるのは私だ。足元に女性が倒れていて、すぐそこに男性の背中がずっと見えている。
「……はい」
勇気を振り絞って男性の隣にしゃがんだ。
男性は、左手でおしぼり、右手で足を押さえているため、男性の隣からベルトを外すのは困難だが、廊下は狭いし、反対側に回るという事が全く思い浮かばない。
香月は狭い中、震える手でベルトを外す。
「ああ゛ー」
突然女性が唸り声を上げ、驚いて手を止めた。
「おそらく、てんかんによる発作だ。大丈夫。ベルトの次はズボンのボタン。ズボンも少しずらしてあげて。ブラウスのボタンも半分くらいまで」
言われた通り、ズボンのボタンも外してズボンも少しずらしたが、ブラウスは同じ位置からでは届かない。
香月はここでようやく立ち上がり、反対側にしゃがみ直すと、女性の顔を見ないようにボタンに集中した。
顔は真っ青な上、目は白目を向いていて、とてもこの世の物とは思えない。
ボタンは顔に近く、しかもスカーフ付で、なかなかスカーフが外せない。
「ヴっ」
と女性の身体が大きく揺れ、慌ててブラウスから手を離した。
途端、
「きゃああああああ!!!」
女性の口から大量の鮮血が吹き出してくる。
それは、とても自らの意思とは思えず、何がどうなっているのか全く分からない。
香月は、隣の椅子に身体を押し付けるように逃げたが間に合わず、全身に生温かい血を浴びた。
「静脈瘤破裂だ、間に合わない」
救急車が来た後、もその前もその後も、全てその男性が段取りよく事を収めてくれた。
「あの人医者かな?」
「そうだろう。じゃなきゃ、適当であんなことできるかよ」
周囲の声を聞いて、ようやく状況が理解出来てくる。
「あの子すっごい血。どうやって帰るの?」
「店にシャワーなんかないよね?」
「でも、人助けに一躍買ってるじゃん、私隣にいなくてマジ良かったわ」
涙が出てきた。
めちゃくちゃ怖かった。
みんなが見ている前でどうして私がやったんだろうと後悔さえもしてきた。
救急車の中ではまだ蘇生作業らしいことをしている。
でも、これだけ血が出ているのに、助かるんだろうかとという疑念も芽生えてきた。
「すまないね」
医者の男性が帰ってきてくれた。
とりあえず、立たせて、ソファに座らせてくれる。
「すみませんが、おしぼりを。できるだけ」
店員に頼んでくれる。だけど、おしぼりだったら100枚くらいいるに違いない。
「家は近く?」
しゃがみ込んで、目を合せて聞いてくれる。
30分が近いのか遠いのかは分からなかった。
紺色のカットソーとズボンだが、服からは血が滴り落ちているし、なんだが、急に匂いが鼻についてくる。
「吐きそうかい? トイレに行く?」
無心で頷く。
トイレで、今食べたばかりの物を吐きだしてから、耐えきれずに洗面所でカットソーを脱いだ。ブラジャー一枚になって、服を洗う。
だが、流れ出る血に更に気分が悪くなってその場にへたり込んだ。
数秒は自動で水道水が出ていたが、それが止んですぐに、外からノック音が聞こえた。
「大丈夫かい?」
大丈夫ではない。
「開けるよ」
早く開けて欲しいという気持ちが先にたったくらいだった。
「……」
淫らな格好なのに顔色1つ変えず、黙って身体をきちんと座らせてくれる。
自らが羽織っていた薄手のレザージャケットを脱ぎ、着せてくれた。
「救急車を呼ぶか? まあ寝ていれば治るだろうが、そのままでは帰れないだろう」
救急車なんか呼んだら、また九条に何を言われるか……。
「救急車はいいです…」
けど、この恰好ではタクシーにも乗れない。
「……」
喋るだけで疲れて、壁にもたれにいってしまう。
「事情がないなら救急車に乗ればいいと思うが…。何かあるなら、俺の家でよければシャワーを貸そう。言っておくが、下心はない」
どんなヤツだと、力なく吹き出してしまう。
「……はあ……」
とにかく、なんでもいいからシャワーを浴びたいとだけ思ってしまう。
♦
カフェの裏のマンションに住んでいた男性の家に、簡単に入り込んでしまったことに後悔したのは、シャワーを浴びてさっぱりし、きちんと男性物のティシャツとトランクスが脱衣所に用意されていたのを見た瞬間だった。
浴槽や洗面所の感じからすれば、清潔感の塊のようで、毛一本落ちていない。しかし、女性の気配は感じられず、このまま、これを着て本当に出て行くべきかどうか迷う。
ブラジャーはあるにはあるが、汚れていて着ける気にはならないし。
素肌に知らない男のティシャツなど、今更ながら恥ずかしくなってきた。
が、仕方ない。こんなところで突っ立っているわけにはいかないし、大体疲れている。
香月は、考えていないふりをしてその上下を着込み、洗面所のドアを開けた。
2LDKくらいのマンション。廊下の先にリビングがありそうなので、胸を隠して恐る恐る進む。
「、気分は?」
デスクでパソコンに指を走らせていた男性は、パタリと閉じると、すぐに立ち上がる。
「えっ、あぁ」
意外に広いマンションだ。リビングは15畳くらいありそうだ。
胸を隠している自分が恥ずかしかったが、男性は見ようともせず、そのまま冷蔵庫を開けた。
「服は外に干してはいるが、そのまま帰るなら帰ればいいし。乾くまで待つならそこで横になればいい」
まずベランダを見ると、紺色のカットソーが揺れているのが目に入る。でも、皴々だ。あのまま着て帰れなくもないが、あれなら、ブラにティシャツを借りて帰った方がマシかもしれない。
横になってもいいと言われたソファを見ると、掛け布団が置いてある。香月は、ここぞとばかりにそこに入り込み、胸を隠さなくても良い状況を作った。
「しっかり水分をとって」
ミネラルウォーターをボトルのまま出してくれる。
「ありがとうございます……」
香月はそのまま手を伸ばして、一口飲んだ。冷たくて美味しい。
「……」
男性はそのままデスクに戻ってしまう。
パソコンのキーボードを叩く音が心地良い。
これ飲んだら帰ろうかな……でも……。
そう考えながら、横になる。
テレビの音で目が覚めた。
画面には、18時58分と表示されている。どのくらい眠っていたのかは分からないが、体調は平常時くらい回復していた。
「あ、すみません、寝てて……」
「いや。体調は?」
男性はテレビのニュースを見ながら聞いてくる。
「あぁ、大丈夫。普通です。あ、ありがとうございました。色々こんなにしてもらって……」
って、大したお礼は出来ませんけど……。
「服が乾いたかな」
ベランダに取りに行ってくれる。
「乾いてはいるが、アイロンしないと着れそうにないな」
随分女性目線だ。これは1人暮らし確定だな。
「あ、いえ。その…どうしようかな…」
とりあえず、自分の服を着て帰るか、ティシャツを着て帰るか。
「……ティシャツ…借りてもいいですか?」
ティシャツを返しに来るのもありだ。そう思えるほど、シャープな顔立ちと、スタイル。カフェの時の理知的で冷静な行動、そして今の紳士的な接し方が気に入った。
「また返しに来ますから」
「いや、捨てておいてくればいい」
淡い気持ちは一瞬にして、葬られてしまう。
「……じゃあ、自分の服で帰ります」
そう言うしかない。
側に居ても、何も喋らない。ただの人助け。わざわざ自宅にまで上げるほどのお人よしなのに、予告通り他意は全くない。
香月は仕方なく脱衣所で着替え、支度を整えるとすんなり玄関で靴を履く。
「ありがとうございました」
本当にそのまま帰らされる。
「……」
ドアが閉まり切って思う。
次はお礼に、と菓子折り持って、ピンポンを鳴らすか。
「……」
けど、鳴らしたところでお菓子を受け取られて終わりだろう。
多分きっと、その先になんて、絶対進展しない。
妙な勇気が出た香月は突然、そのインターフォンを押した。
なんとかなる!
「……忘れ物?」
相手は普通に出てくれる。
「あの……その……」
「ああ、雨」
同時に外を見た。小雨ではあるが、確かに降っている。
「傘…」
男性は、玄関の隅から傘を出して来たので、
「そういうことじゃないんです!」
なら一体どういう事だという顔をされたが、答えは特に用意していない。
「あのその、その、あの、し、食事でも……」
相手は、目をぱちくりさせた。
「その、考えたんです! お礼もしなきゃって」
「礼をしてもらうほどのことなんかしてない。気を遣わなくて構わない」
「いや、その、気を遣ってるわけじゃないんです!」
気を遣っているわけじゃない。
私はとにかく、この人のことをもっと知りたいと思っている。
「………まあ、腹も減ったし」
男性はもう一度雨を見ながら呟いた。
「でも仕事があるから、家でも構わないかな。簡単な食材はあるから」
「あっ、はい!!」
と言ったものの、それがどんなお礼になるのかとは思うが。
玄関に入り、ドアが閉まった瞬間、少し怖くなる。
早まってはいないだろうか。
「なに?」
男性は笑いながら、聞いてきた。
「えっ、いえ……」
何を思われたのか、見当もつかない。
「食事したら帰りな。雨が降ってたら、傘差して帰るといい」
♦
こういう時に料理が出来たらなあ……と思う。
一緒にキッチンに入ったものの、てきぱき手際よく動く姿に、元体育会系っぽいにも関わらず、器用な男性を初めて見た気がした。
「あ、名前……聞いてもいいですか?」
今更だ。
「友利 大樹(ともり だいき)」
「ともり……」
「友達の友に利益の利と大きい樹」
「ああ、まるほど……」
名前は、大樹か……。
「年っておいくつなんですか? あ、聞いてもいいですか?」
「42」
あ、以外にいってるんだ。38くらいには見えたのにな…。
「お医者さんなんですか?」
そうだと言われてもあまりピンとは来ない。何故なら白衣が似合わなさそうだったからだ。
「いや、ライターをやってる」
「ライター? 雑誌の記事を書く人ですか?」
「あぁ」
「あ、そうなんですか。なんかあの時てきぱき動いてたから、てっきり……」
ライターと言えば、貧乏暮らしのイメージだが、家が広くて綺麗なので、売れっ子なのかもしれない。後で調べてみよう。
「別に、専門的な治療をしたわけじゃない。痙攣した時は奥歯に割り箸噛ませとけと習わなかったかな?」
ふと、こちらに視線を送られる。
やっぱ、結構イケメンだ。
「いや…どこで習うんですか…」
「学校。保健体育で習ったんだがなあ。それくらいだよ」
「でも、みんな固まってて、一番に動いてました。…友利さんが」
「女性が多かったからね。そういう俊敏性は男性の方が高いのかもしれない」
そうか……。
なんか、たまたまこの人が恰好よく見えちゃってるのかな…。
「静脈瘤破裂は、血が吹き飛ぶって聞いたことがあったからね」
「………」
でも、なんかそれだけじゃない気がする。
「あ、私の名前は香月 愛です」
「どんな字?」
たまに聞かれる。
「香川の月の愛」
「ふんふん」
「私、家は西区の端の方なんですけど。今日はネットで調べてあそこのカフェに行って。そしたら……あんな感じになっちゃって。
救急車に乗って大袈裟になったら、みんなが心配するかなと思って……それで……」
「それで、ここへ?」
なんか、逆に下心があったと思われそうだ。
「……私、結構心配されてて。この前も家に空き巣が入って引っ越したばっかりだから。上司にも不運が重なるなとか言われるし」
「重なるとは、他にも?」
「うーん。職場に空き巣が入った時も偶然いたし、なんか事情聴取も慣れちゃって」
「そうか…」
香月はじっと友利の横顔を見ながら考えた。
何かは分からないけど、何か…。
何かもっとこの人を知りたい気がする。
「よし、出来た。ペペロンチーノとサラダ」
「すごー!!」
今の短時間でちゃんとしたご飯を出せるとは!!
「レシピとか見てないですよね!」
「まあ、これくらいは」
普通に顔を緩ませている。やっぱり、悪い人じゃないことは確かだ。
ダイニングテーブルに並べ、対面に腰かけて2人で食べる事にする。
「そういえば…こうやって2人で家でご飯食べるの久しぶりかも……」
香月はごつごつした友利の指先が、器用にフォークでパスタを巻きつける様を見ながらふと、巽の家で食事をとった日の記憶を思い出した。男性と2人きりというのはおよそ2年ぶりになる。
「普段は1人暮らし?」
「あ、はい…………。私、元々はルームシェアしてたんですけど。その時知り合った彼氏と同棲して。同棲している時に階段から落ちて、ちょっとの間だけ、記憶が飛んで。でもつい最近元に戻ったんです」
「それは良かった。記憶が飛んだままとなると、色々不安だったろうに」
記憶喪失と聞いて皆が引いていく中、初めて積極的に心配してくれた一言に衝撃を受けた。
急に、心が先走っていく。
「……そうですね……。一番最悪なのは、私浮気してないのに、浮気相手の人が、僕と浮気したんだよって言ったことです。あの人、懲らしめなきゃ」
そうだ、附和にはその切り札がある。今度会った時はそれを出さなきゃいけない。
「はは、まあそれくらいで良かった。借金やらそういう事で騙されると後がしんどい。人生が狂ってしまう」
「………」
そうか……。
そうかもしれない……。
「ない記憶を埋めるのは難しい。それには周りの手助けに頼るしかない」
「……」
あまりにも詳しい説明をするので顔を上げてその目を見つめた。
「という小説を読んだことがある」
「………」
急に、ペペロンチーノが胃にのしかかって、フォークを置いた。
「まだ本調子ではなかったかな」
すぐにフォローを入れてくれる。
「……。話していいですか? 色々」
「聞かなかった事にするよ」
友利はすぐに言い切る。
でも、そういうわけじゃないけど……。
友利は食べ終えてフォークを置いた。
「私……」
テーブルの端に視線を定めて始める。
「私、妊娠しないように卵管を切ったんです」
友利の反応は分からない。だけど、それ以上口が開かない。
「………、それまでに子供は?」
良かった。的確に質問をしてくれる。
「いません。妊娠したこともありません。だから、最近不妊とか多いけど、自分が妊娠出来る身体だったかどうかも知らないし………。
色々あって。
いや、色々というか……。彼氏への当てつけにやったんですけど」
ああ、きっとそうなんだ。
今ようやく気がついた。
そんな下らないことのために、私の人生は、この先の人生は捨てたも同然となったんだ。
堪えようとしても、涙は流れた。
「でも、……好きだから仕方なかったし」
そうだ。
「もうずっと………しんどかったし……」
そうだ。
「なのに今更結婚してもいいとか」
だから嫌になったんだ。
「だからもう、連絡とってないけど」
最悪だ。
「でも今は………」
溜息を吐く。
「記憶も元に戻ったし」
そう。
「仕事も出来るようになったし」
宮下がついてる。
「結婚とかしなくても、大丈夫そう」
そんなわけない。
巽が、アベンティスト教会でと言ってくれた。
だけど、昔のことを思い出すと、何を今更教会だ、ドレスだと腹が立ってくる。
子供がいないなら犬でも、など、そんなこと、言えるはずがない。
「いい人が見つかるさ、きっと」
思いもよらぬ一言を、友利は口から出した。
「まっとうに行きていれば、良いことは必ず起こるもんだ」
「………」
「今日の君はあの女性を助けようと必死だった」
でもそれは、友利に言われたから…。
「今日した良い事は、いづれどこかで返ってくる」
この人は良い人だ。ちゃんとした、まっとうな人だ。
急に、色々冷めて、
「………、じゃあ、友利さんは率先してやってたから、すっごくいい事が後にありますね」
笑いながら言うと、
「あったさ。俺も久しぶりに家で2人で食事をした。良い時間だったよ」
そん……。
友利は笑っている。別に、誘っているわけではない。誘われているわけではない。
ただの、話に合せた、と分かるただの笑顔だ。
「そ……そうですか」
なのに、それ以外に言葉が出ない。
「さあ、今日はうまい飯だった。そろそろ8時だ。タクシーを拾おう」
友利は自分の食器を持って立ち上がった。
仕方なく、香月も食器を持って立ち上がる。
「すみませんでした。残しちゃって……」
「いや、戻した後のメニューじゃなかったな」
食器を流しに置いて、そのまま玄関へ向かう。
「まだ雨降ってるかな」
言いながら、友利は靴を履いた。
「あの!」
香月は廊下から叫んだ。
「ん?」
普通の顔で振り返ってくれる。
「その……。その、その……」
「傘なら貸すから心配しないでくれ」
「そういうことじゃなくてぇ!」
友利は普通にこちらを見ている。むしろ、どうしたんだと言いたそうだ。
「……」
香月は、黙って近づき、思い切って、その胸に飛び込んだ。
拒否されるのが怖くて、思い切り身体を縮込ませる。
「……恰好良く俺は下心はないと言ったが、実はインポだ。君を満たしてはやれんよ」
驚きの一言に、さすがに身体が固まった。
しかし、引きも出来ず、負けじと言い返す。
「そんな事、どうだっていい」
キスさえすればなんとかなるはずだと思ったが、実際は友利の背は随分高く、唇を向けたくらいでは顔が届かない。
仕方なく、両手で頭を掴んで顔を下に向けさせたが、
「おいおい」
あっけなく、手首を取られた。
「……」
仕方なく、胸にうずくまる。
「………あんたくらいの美人なら、どこででも男が拾えるだろうに」
「友利さんがいい」
間髪入れず、甘えて言い切る。
「…………………」
その沈黙の後、少し息を吐いたと思ったら、
「力抜いて」
と、体勢を崩し、いきなりお姫様抱っこを試みようとしてきた。
「ななな、何!?」
「何って、誘ったのあんただろうが!」
いや、そんな簡単にいけるとは思わなかったから…。
「……」
そのままリビングに戻ると、ソファにゆっくり下してくれる。
「……」
そんなうまくいくと思わなかったし、ここでいきなり何かするとか考えてなかったから……。
急に怖くなって、そのしなやかに鍛え抜かれた身体にしがみついた。
「これじゃ、なんにもできないんだが」
「………」
むしろ、そのままでいいと、更に抱きしめ直す。
「………なんじゃこりゃ……」
友利は、気が抜けたのか、
「ちょっと座らせてくれ。腰が痛い」
香月は腕を離す。そのまま逃げられるかとも思ったが、予告通りソファに腰かけてくれたので、横から抱き着いた。
「……タバコを吸うからちょっと離れてくれ…」
「いや」
「…………ふうー」
「………」
「……何か話したいことがあるなら聞くよ」
「………、」
考えて、
「またここに来ていい?」
「ああ。いつでも」
「でも、来てもいないんでしょ」
「仕事で留守にする時もあるが、いる時もある」
「……じゃあ電話番号教えて」
「……名刺がデスクにある」
「でたらめの電話番号じゃないやつ」
「ちゃんと繋がる! 好きなヤツのことは随分疑うタチなんだな」
言いながら、友利は強引に立ち上がる。
あれ、私、まだ好きとか言ってないのに!!!
友利はデスクから一枚の名刺を取り出しながら、
「……メールがきてる」
パソコンをちらと操作した後スマホを確認した。
そしてようやく、
「携帯番号、ここに書いておく」
「………」
手渡してくれたフリーライターと肩書がある名刺の裏には、手書きの電話番号がある。単純に、でたらめかもしれない、と思いながら睨む。
「デタラメじゃないよ。プライベートな方。名刺は仕事用。かけてもいいぞ」
香月はバックからスマホを取り出すと、言われるがままにかけた。
ちゃんと鳴っていて、目の前で取ってくれる。
「な?」
ようやく納得できる。
「………、じゃあまた、かけます」
「……」
何も言わないので顔を上げると、目が合い、こちらを見ていたので、
「かけてもいいんですよね?」
「ああ……いつでも構わない」
♦
数ある肩書の名刺の中からライターのを選んで渡した明星 一矢(あけぼし かずや)は、その友利という偽名がすぐにバレるかもしれないと少し予感しながら、香月を見送った後でもう一度パソコンを開いていた。
まず、香月がカフェのトイレで戻している間にバックの中の免許証から所属している公安警察本部に問い合わせ、大筋の身分を割り出した。
そして、後から追加でパソコンに来たデータは詳細事項。
香月の前でパソコンを開くことは出来なかったが、電話番号を教えるタイミングだったので、一応見ておこうと思って、スマホに送信した方をざっと確認。
一番に目についたのは、『巽 光路』の名前。
すぐに思い出したのは、数年前、巽と中国マフィアが1人の女を取り合ったという話。それが、香月だったのかもしれない、と予感が走り、即飛ばしの携帯の番号を教えたのだ。
パソコンのデータをよくよく読み込んでいく。四対財閥社長 四対 樹(よつい いつき)、附和物産社長 附和 薫(ふわ かおる)、表は実業家、裏は裏社会を牛耳る二代目フィクサー 巽 光路(たつみ こうじ)、数々の大物達との繋がりを持つ彼女だが、その裏の顔は知れず、ただのOLとしか捜査では判明していない。
さっきの様子でもそうだ。
明星は、腕を組むとじっと画面を見つめた。
まったく普通の女の気配でしかなかった。
いや、普通ではない。
ありとあらゆる人間の心を射止めてやまないほどの魅力的な容姿だが、接してみると驚くほど日常に溶け込んだどこにでもいる女性なのだ。
そこに巽などの大物が惹かれているのだとしたら、納得だ。
それくらいの価値はある。
その美しさの影にあるかもしれない裏を、単純に探りたいと思ったほどだ。
公安に配属されてから、10年、今年で34。
身分を偽りながら幾多の人間と密に、時に薄情に接して、それなりに自信をつけていたつもりだったが、彼女に抱き着いて来られた時はかなり動揺し、咄嗟にインポだと嘘をついた。
あれほどまでに心臓が高鳴ったのは本当に久しぶりで、様々な事が頭を回って混乱したほどだった。
女はそれなりに抱いてきた。秘密裡に長く交際した女もいる。
そんな中で。これは、男を虜にする女だと思った。
既に俺は、彼女のことしか考えていない。
「………」
明星は、ふっと溜息を吐き、パソコンから離れる。
香月にはどんな下心があったのだろうか。本当に、ただ俺のことが気に入って抱き着いてきたのだとしたら……。
別に、香月とそのような関係になることは、問題ではない。
本当にただのOLなら身分もバレない可能性の方が高い。
「……」
今更、女を養う夢をみている自分に気づき、明星はようやく甘い想像から脱却する。
「……」
だがすぐに妄想は展開し、今少しだけなら、自分にもご褒美を与えてもいいのではないか、と、流しを片付けることを思い出し、再びここで彼女と食事をすることを夢に見た。
引っ越しをしてから1か月が経過した。オートロックマンションでセキュリティが高い物件にしたせいで家賃が上がった。
でも、もう子供が出来ないのなら、結婚出来ない可能性の方が高く、貯金したって仕方ない気しかしない。
結局自分の人生は、巽によって狂わされたわけで。
若気の至りでは済まされない代償を背負った。
しかし、考えても仕方がない。
それならそれで、あの時巽が言ったように、犬でも飼うしかない。
公休日のその日、1人で近所のカフェに来ていた香月は、ケーキプレートを何にもとらわれず、ゆっくり口に運んでいた。
だが、ケーキの上に乗せられているヨーグルトクリームが好みではなく、それをメニューの詳細に書いていてくれたら注文しなかったのに、と若干後悔の念でもって食べ進めていた。
附和や四対、巽に頼めば、レストランのデザートくらいすぐに思い通りになる。『附和を手にすれば世界はあなたの物だ』と言われたこともあった。だけど、どれも自分が求めているものではない。
それが、最近になってようやく理解できた事だった。
紅茶を一口飲む。最近飲めるようになってはきたが、今日はジュースにすべきだったなと、このカフェを選んだことを後悔しながら、顔を上げた。
午後14時。客はそれほど入っていない。
ジュースを飲み切ったら帰ろうとスマホの時刻を見た瞬間。
バターン!!!
隣で人が派手に倒れた。観葉植物に顔から突っ込み、薄いピンクのワンピースから足が大きくはみ出し、それがガタガタ震えている。
「えっ!?」
咄嗟に立ち上がろうとしたが、何をどうすれば良いのか分からない。
悲鳴や叫び声と共に、
「お、お客様!!」
という店員の慌てた声が重なる。
だが、その中でも一番に動き出した男性がいた。
すぐに女性を植木鉢から抱き起し、床に横たえた。
女性の顔は樹に倒れ込んでいったせいで、大きな傷が出来ている。その上白目で口からは泡を吹き、身体は怖いくらいに震えていた。
男性は私のテーブルにあったおしぼりを取り、細長く丸めると、女性のガチガチ鳴る歯の奥に強引に押し込んだ。
「救急車を!」
全員が、なんとなく解放されたように辺りを見回した。
「店員さん、救急車を」
男性は、片手でおしぼりを押さえ、片手で女性の足を押さえて冷静に要望する。
「あっ、は、はいいい!!」
店員は慌てて動き出した。
「私は両手が塞がれています。どなたか、ズボンのベルトを緩めていただけると助かるんですが」
一番近くにいるのは私だ。足元に女性が倒れていて、すぐそこに男性の背中がずっと見えている。
「……はい」
勇気を振り絞って男性の隣にしゃがんだ。
男性は、左手でおしぼり、右手で足を押さえているため、男性の隣からベルトを外すのは困難だが、廊下は狭いし、反対側に回るという事が全く思い浮かばない。
香月は狭い中、震える手でベルトを外す。
「ああ゛ー」
突然女性が唸り声を上げ、驚いて手を止めた。
「おそらく、てんかんによる発作だ。大丈夫。ベルトの次はズボンのボタン。ズボンも少しずらしてあげて。ブラウスのボタンも半分くらいまで」
言われた通り、ズボンのボタンも外してズボンも少しずらしたが、ブラウスは同じ位置からでは届かない。
香月はここでようやく立ち上がり、反対側にしゃがみ直すと、女性の顔を見ないようにボタンに集中した。
顔は真っ青な上、目は白目を向いていて、とてもこの世の物とは思えない。
ボタンは顔に近く、しかもスカーフ付で、なかなかスカーフが外せない。
「ヴっ」
と女性の身体が大きく揺れ、慌ててブラウスから手を離した。
途端、
「きゃああああああ!!!」
女性の口から大量の鮮血が吹き出してくる。
それは、とても自らの意思とは思えず、何がどうなっているのか全く分からない。
香月は、隣の椅子に身体を押し付けるように逃げたが間に合わず、全身に生温かい血を浴びた。
「静脈瘤破裂だ、間に合わない」
救急車が来た後、もその前もその後も、全てその男性が段取りよく事を収めてくれた。
「あの人医者かな?」
「そうだろう。じゃなきゃ、適当であんなことできるかよ」
周囲の声を聞いて、ようやく状況が理解出来てくる。
「あの子すっごい血。どうやって帰るの?」
「店にシャワーなんかないよね?」
「でも、人助けに一躍買ってるじゃん、私隣にいなくてマジ良かったわ」
涙が出てきた。
めちゃくちゃ怖かった。
みんなが見ている前でどうして私がやったんだろうと後悔さえもしてきた。
救急車の中ではまだ蘇生作業らしいことをしている。
でも、これだけ血が出ているのに、助かるんだろうかとという疑念も芽生えてきた。
「すまないね」
医者の男性が帰ってきてくれた。
とりあえず、立たせて、ソファに座らせてくれる。
「すみませんが、おしぼりを。できるだけ」
店員に頼んでくれる。だけど、おしぼりだったら100枚くらいいるに違いない。
「家は近く?」
しゃがみ込んで、目を合せて聞いてくれる。
30分が近いのか遠いのかは分からなかった。
紺色のカットソーとズボンだが、服からは血が滴り落ちているし、なんだが、急に匂いが鼻についてくる。
「吐きそうかい? トイレに行く?」
無心で頷く。
トイレで、今食べたばかりの物を吐きだしてから、耐えきれずに洗面所でカットソーを脱いだ。ブラジャー一枚になって、服を洗う。
だが、流れ出る血に更に気分が悪くなってその場にへたり込んだ。
数秒は自動で水道水が出ていたが、それが止んですぐに、外からノック音が聞こえた。
「大丈夫かい?」
大丈夫ではない。
「開けるよ」
早く開けて欲しいという気持ちが先にたったくらいだった。
「……」
淫らな格好なのに顔色1つ変えず、黙って身体をきちんと座らせてくれる。
自らが羽織っていた薄手のレザージャケットを脱ぎ、着せてくれた。
「救急車を呼ぶか? まあ寝ていれば治るだろうが、そのままでは帰れないだろう」
救急車なんか呼んだら、また九条に何を言われるか……。
「救急車はいいです…」
けど、この恰好ではタクシーにも乗れない。
「……」
喋るだけで疲れて、壁にもたれにいってしまう。
「事情がないなら救急車に乗ればいいと思うが…。何かあるなら、俺の家でよければシャワーを貸そう。言っておくが、下心はない」
どんなヤツだと、力なく吹き出してしまう。
「……はあ……」
とにかく、なんでもいいからシャワーを浴びたいとだけ思ってしまう。
♦
カフェの裏のマンションに住んでいた男性の家に、簡単に入り込んでしまったことに後悔したのは、シャワーを浴びてさっぱりし、きちんと男性物のティシャツとトランクスが脱衣所に用意されていたのを見た瞬間だった。
浴槽や洗面所の感じからすれば、清潔感の塊のようで、毛一本落ちていない。しかし、女性の気配は感じられず、このまま、これを着て本当に出て行くべきかどうか迷う。
ブラジャーはあるにはあるが、汚れていて着ける気にはならないし。
素肌に知らない男のティシャツなど、今更ながら恥ずかしくなってきた。
が、仕方ない。こんなところで突っ立っているわけにはいかないし、大体疲れている。
香月は、考えていないふりをしてその上下を着込み、洗面所のドアを開けた。
2LDKくらいのマンション。廊下の先にリビングがありそうなので、胸を隠して恐る恐る進む。
「、気分は?」
デスクでパソコンに指を走らせていた男性は、パタリと閉じると、すぐに立ち上がる。
「えっ、あぁ」
意外に広いマンションだ。リビングは15畳くらいありそうだ。
胸を隠している自分が恥ずかしかったが、男性は見ようともせず、そのまま冷蔵庫を開けた。
「服は外に干してはいるが、そのまま帰るなら帰ればいいし。乾くまで待つならそこで横になればいい」
まずベランダを見ると、紺色のカットソーが揺れているのが目に入る。でも、皴々だ。あのまま着て帰れなくもないが、あれなら、ブラにティシャツを借りて帰った方がマシかもしれない。
横になってもいいと言われたソファを見ると、掛け布団が置いてある。香月は、ここぞとばかりにそこに入り込み、胸を隠さなくても良い状況を作った。
「しっかり水分をとって」
ミネラルウォーターをボトルのまま出してくれる。
「ありがとうございます……」
香月はそのまま手を伸ばして、一口飲んだ。冷たくて美味しい。
「……」
男性はそのままデスクに戻ってしまう。
パソコンのキーボードを叩く音が心地良い。
これ飲んだら帰ろうかな……でも……。
そう考えながら、横になる。
テレビの音で目が覚めた。
画面には、18時58分と表示されている。どのくらい眠っていたのかは分からないが、体調は平常時くらい回復していた。
「あ、すみません、寝てて……」
「いや。体調は?」
男性はテレビのニュースを見ながら聞いてくる。
「あぁ、大丈夫。普通です。あ、ありがとうございました。色々こんなにしてもらって……」
って、大したお礼は出来ませんけど……。
「服が乾いたかな」
ベランダに取りに行ってくれる。
「乾いてはいるが、アイロンしないと着れそうにないな」
随分女性目線だ。これは1人暮らし確定だな。
「あ、いえ。その…どうしようかな…」
とりあえず、自分の服を着て帰るか、ティシャツを着て帰るか。
「……ティシャツ…借りてもいいですか?」
ティシャツを返しに来るのもありだ。そう思えるほど、シャープな顔立ちと、スタイル。カフェの時の理知的で冷静な行動、そして今の紳士的な接し方が気に入った。
「また返しに来ますから」
「いや、捨てておいてくればいい」
淡い気持ちは一瞬にして、葬られてしまう。
「……じゃあ、自分の服で帰ります」
そう言うしかない。
側に居ても、何も喋らない。ただの人助け。わざわざ自宅にまで上げるほどのお人よしなのに、予告通り他意は全くない。
香月は仕方なく脱衣所で着替え、支度を整えるとすんなり玄関で靴を履く。
「ありがとうございました」
本当にそのまま帰らされる。
「……」
ドアが閉まり切って思う。
次はお礼に、と菓子折り持って、ピンポンを鳴らすか。
「……」
けど、鳴らしたところでお菓子を受け取られて終わりだろう。
多分きっと、その先になんて、絶対進展しない。
妙な勇気が出た香月は突然、そのインターフォンを押した。
なんとかなる!
「……忘れ物?」
相手は普通に出てくれる。
「あの……その……」
「ああ、雨」
同時に外を見た。小雨ではあるが、確かに降っている。
「傘…」
男性は、玄関の隅から傘を出して来たので、
「そういうことじゃないんです!」
なら一体どういう事だという顔をされたが、答えは特に用意していない。
「あのその、その、あの、し、食事でも……」
相手は、目をぱちくりさせた。
「その、考えたんです! お礼もしなきゃって」
「礼をしてもらうほどのことなんかしてない。気を遣わなくて構わない」
「いや、その、気を遣ってるわけじゃないんです!」
気を遣っているわけじゃない。
私はとにかく、この人のことをもっと知りたいと思っている。
「………まあ、腹も減ったし」
男性はもう一度雨を見ながら呟いた。
「でも仕事があるから、家でも構わないかな。簡単な食材はあるから」
「あっ、はい!!」
と言ったものの、それがどんなお礼になるのかとは思うが。
玄関に入り、ドアが閉まった瞬間、少し怖くなる。
早まってはいないだろうか。
「なに?」
男性は笑いながら、聞いてきた。
「えっ、いえ……」
何を思われたのか、見当もつかない。
「食事したら帰りな。雨が降ってたら、傘差して帰るといい」
♦
こういう時に料理が出来たらなあ……と思う。
一緒にキッチンに入ったものの、てきぱき手際よく動く姿に、元体育会系っぽいにも関わらず、器用な男性を初めて見た気がした。
「あ、名前……聞いてもいいですか?」
今更だ。
「友利 大樹(ともり だいき)」
「ともり……」
「友達の友に利益の利と大きい樹」
「ああ、まるほど……」
名前は、大樹か……。
「年っておいくつなんですか? あ、聞いてもいいですか?」
「42」
あ、以外にいってるんだ。38くらいには見えたのにな…。
「お医者さんなんですか?」
そうだと言われてもあまりピンとは来ない。何故なら白衣が似合わなさそうだったからだ。
「いや、ライターをやってる」
「ライター? 雑誌の記事を書く人ですか?」
「あぁ」
「あ、そうなんですか。なんかあの時てきぱき動いてたから、てっきり……」
ライターと言えば、貧乏暮らしのイメージだが、家が広くて綺麗なので、売れっ子なのかもしれない。後で調べてみよう。
「別に、専門的な治療をしたわけじゃない。痙攣した時は奥歯に割り箸噛ませとけと習わなかったかな?」
ふと、こちらに視線を送られる。
やっぱ、結構イケメンだ。
「いや…どこで習うんですか…」
「学校。保健体育で習ったんだがなあ。それくらいだよ」
「でも、みんな固まってて、一番に動いてました。…友利さんが」
「女性が多かったからね。そういう俊敏性は男性の方が高いのかもしれない」
そうか……。
なんか、たまたまこの人が恰好よく見えちゃってるのかな…。
「静脈瘤破裂は、血が吹き飛ぶって聞いたことがあったからね」
「………」
でも、なんかそれだけじゃない気がする。
「あ、私の名前は香月 愛です」
「どんな字?」
たまに聞かれる。
「香川の月の愛」
「ふんふん」
「私、家は西区の端の方なんですけど。今日はネットで調べてあそこのカフェに行って。そしたら……あんな感じになっちゃって。
救急車に乗って大袈裟になったら、みんなが心配するかなと思って……それで……」
「それで、ここへ?」
なんか、逆に下心があったと思われそうだ。
「……私、結構心配されてて。この前も家に空き巣が入って引っ越したばっかりだから。上司にも不運が重なるなとか言われるし」
「重なるとは、他にも?」
「うーん。職場に空き巣が入った時も偶然いたし、なんか事情聴取も慣れちゃって」
「そうか…」
香月はじっと友利の横顔を見ながら考えた。
何かは分からないけど、何か…。
何かもっとこの人を知りたい気がする。
「よし、出来た。ペペロンチーノとサラダ」
「すごー!!」
今の短時間でちゃんとしたご飯を出せるとは!!
「レシピとか見てないですよね!」
「まあ、これくらいは」
普通に顔を緩ませている。やっぱり、悪い人じゃないことは確かだ。
ダイニングテーブルに並べ、対面に腰かけて2人で食べる事にする。
「そういえば…こうやって2人で家でご飯食べるの久しぶりかも……」
香月はごつごつした友利の指先が、器用にフォークでパスタを巻きつける様を見ながらふと、巽の家で食事をとった日の記憶を思い出した。男性と2人きりというのはおよそ2年ぶりになる。
「普段は1人暮らし?」
「あ、はい…………。私、元々はルームシェアしてたんですけど。その時知り合った彼氏と同棲して。同棲している時に階段から落ちて、ちょっとの間だけ、記憶が飛んで。でもつい最近元に戻ったんです」
「それは良かった。記憶が飛んだままとなると、色々不安だったろうに」
記憶喪失と聞いて皆が引いていく中、初めて積極的に心配してくれた一言に衝撃を受けた。
急に、心が先走っていく。
「……そうですね……。一番最悪なのは、私浮気してないのに、浮気相手の人が、僕と浮気したんだよって言ったことです。あの人、懲らしめなきゃ」
そうだ、附和にはその切り札がある。今度会った時はそれを出さなきゃいけない。
「はは、まあそれくらいで良かった。借金やらそういう事で騙されると後がしんどい。人生が狂ってしまう」
「………」
そうか……。
そうかもしれない……。
「ない記憶を埋めるのは難しい。それには周りの手助けに頼るしかない」
「……」
あまりにも詳しい説明をするので顔を上げてその目を見つめた。
「という小説を読んだことがある」
「………」
急に、ペペロンチーノが胃にのしかかって、フォークを置いた。
「まだ本調子ではなかったかな」
すぐにフォローを入れてくれる。
「……。話していいですか? 色々」
「聞かなかった事にするよ」
友利はすぐに言い切る。
でも、そういうわけじゃないけど……。
友利は食べ終えてフォークを置いた。
「私……」
テーブルの端に視線を定めて始める。
「私、妊娠しないように卵管を切ったんです」
友利の反応は分からない。だけど、それ以上口が開かない。
「………、それまでに子供は?」
良かった。的確に質問をしてくれる。
「いません。妊娠したこともありません。だから、最近不妊とか多いけど、自分が妊娠出来る身体だったかどうかも知らないし………。
色々あって。
いや、色々というか……。彼氏への当てつけにやったんですけど」
ああ、きっとそうなんだ。
今ようやく気がついた。
そんな下らないことのために、私の人生は、この先の人生は捨てたも同然となったんだ。
堪えようとしても、涙は流れた。
「でも、……好きだから仕方なかったし」
そうだ。
「もうずっと………しんどかったし……」
そうだ。
「なのに今更結婚してもいいとか」
だから嫌になったんだ。
「だからもう、連絡とってないけど」
最悪だ。
「でも今は………」
溜息を吐く。
「記憶も元に戻ったし」
そう。
「仕事も出来るようになったし」
宮下がついてる。
「結婚とかしなくても、大丈夫そう」
そんなわけない。
巽が、アベンティスト教会でと言ってくれた。
だけど、昔のことを思い出すと、何を今更教会だ、ドレスだと腹が立ってくる。
子供がいないなら犬でも、など、そんなこと、言えるはずがない。
「いい人が見つかるさ、きっと」
思いもよらぬ一言を、友利は口から出した。
「まっとうに行きていれば、良いことは必ず起こるもんだ」
「………」
「今日の君はあの女性を助けようと必死だった」
でもそれは、友利に言われたから…。
「今日した良い事は、いづれどこかで返ってくる」
この人は良い人だ。ちゃんとした、まっとうな人だ。
急に、色々冷めて、
「………、じゃあ、友利さんは率先してやってたから、すっごくいい事が後にありますね」
笑いながら言うと、
「あったさ。俺も久しぶりに家で2人で食事をした。良い時間だったよ」
そん……。
友利は笑っている。別に、誘っているわけではない。誘われているわけではない。
ただの、話に合せた、と分かるただの笑顔だ。
「そ……そうですか」
なのに、それ以外に言葉が出ない。
「さあ、今日はうまい飯だった。そろそろ8時だ。タクシーを拾おう」
友利は自分の食器を持って立ち上がった。
仕方なく、香月も食器を持って立ち上がる。
「すみませんでした。残しちゃって……」
「いや、戻した後のメニューじゃなかったな」
食器を流しに置いて、そのまま玄関へ向かう。
「まだ雨降ってるかな」
言いながら、友利は靴を履いた。
「あの!」
香月は廊下から叫んだ。
「ん?」
普通の顔で振り返ってくれる。
「その……。その、その……」
「傘なら貸すから心配しないでくれ」
「そういうことじゃなくてぇ!」
友利は普通にこちらを見ている。むしろ、どうしたんだと言いたそうだ。
「……」
香月は、黙って近づき、思い切って、その胸に飛び込んだ。
拒否されるのが怖くて、思い切り身体を縮込ませる。
「……恰好良く俺は下心はないと言ったが、実はインポだ。君を満たしてはやれんよ」
驚きの一言に、さすがに身体が固まった。
しかし、引きも出来ず、負けじと言い返す。
「そんな事、どうだっていい」
キスさえすればなんとかなるはずだと思ったが、実際は友利の背は随分高く、唇を向けたくらいでは顔が届かない。
仕方なく、両手で頭を掴んで顔を下に向けさせたが、
「おいおい」
あっけなく、手首を取られた。
「……」
仕方なく、胸にうずくまる。
「………あんたくらいの美人なら、どこででも男が拾えるだろうに」
「友利さんがいい」
間髪入れず、甘えて言い切る。
「…………………」
その沈黙の後、少し息を吐いたと思ったら、
「力抜いて」
と、体勢を崩し、いきなりお姫様抱っこを試みようとしてきた。
「ななな、何!?」
「何って、誘ったのあんただろうが!」
いや、そんな簡単にいけるとは思わなかったから…。
「……」
そのままリビングに戻ると、ソファにゆっくり下してくれる。
「……」
そんなうまくいくと思わなかったし、ここでいきなり何かするとか考えてなかったから……。
急に怖くなって、そのしなやかに鍛え抜かれた身体にしがみついた。
「これじゃ、なんにもできないんだが」
「………」
むしろ、そのままでいいと、更に抱きしめ直す。
「………なんじゃこりゃ……」
友利は、気が抜けたのか、
「ちょっと座らせてくれ。腰が痛い」
香月は腕を離す。そのまま逃げられるかとも思ったが、予告通りソファに腰かけてくれたので、横から抱き着いた。
「……タバコを吸うからちょっと離れてくれ…」
「いや」
「…………ふうー」
「………」
「……何か話したいことがあるなら聞くよ」
「………、」
考えて、
「またここに来ていい?」
「ああ。いつでも」
「でも、来てもいないんでしょ」
「仕事で留守にする時もあるが、いる時もある」
「……じゃあ電話番号教えて」
「……名刺がデスクにある」
「でたらめの電話番号じゃないやつ」
「ちゃんと繋がる! 好きなヤツのことは随分疑うタチなんだな」
言いながら、友利は強引に立ち上がる。
あれ、私、まだ好きとか言ってないのに!!!
友利はデスクから一枚の名刺を取り出しながら、
「……メールがきてる」
パソコンをちらと操作した後スマホを確認した。
そしてようやく、
「携帯番号、ここに書いておく」
「………」
手渡してくれたフリーライターと肩書がある名刺の裏には、手書きの電話番号がある。単純に、でたらめかもしれない、と思いながら睨む。
「デタラメじゃないよ。プライベートな方。名刺は仕事用。かけてもいいぞ」
香月はバックからスマホを取り出すと、言われるがままにかけた。
ちゃんと鳴っていて、目の前で取ってくれる。
「な?」
ようやく納得できる。
「………、じゃあまた、かけます」
「……」
何も言わないので顔を上げると、目が合い、こちらを見ていたので、
「かけてもいいんですよね?」
「ああ……いつでも構わない」
♦
数ある肩書の名刺の中からライターのを選んで渡した明星 一矢(あけぼし かずや)は、その友利という偽名がすぐにバレるかもしれないと少し予感しながら、香月を見送った後でもう一度パソコンを開いていた。
まず、香月がカフェのトイレで戻している間にバックの中の免許証から所属している公安警察本部に問い合わせ、大筋の身分を割り出した。
そして、後から追加でパソコンに来たデータは詳細事項。
香月の前でパソコンを開くことは出来なかったが、電話番号を教えるタイミングだったので、一応見ておこうと思って、スマホに送信した方をざっと確認。
一番に目についたのは、『巽 光路』の名前。
すぐに思い出したのは、数年前、巽と中国マフィアが1人の女を取り合ったという話。それが、香月だったのかもしれない、と予感が走り、即飛ばしの携帯の番号を教えたのだ。
パソコンのデータをよくよく読み込んでいく。四対財閥社長 四対 樹(よつい いつき)、附和物産社長 附和 薫(ふわ かおる)、表は実業家、裏は裏社会を牛耳る二代目フィクサー 巽 光路(たつみ こうじ)、数々の大物達との繋がりを持つ彼女だが、その裏の顔は知れず、ただのOLとしか捜査では判明していない。
さっきの様子でもそうだ。
明星は、腕を組むとじっと画面を見つめた。
まったく普通の女の気配でしかなかった。
いや、普通ではない。
ありとあらゆる人間の心を射止めてやまないほどの魅力的な容姿だが、接してみると驚くほど日常に溶け込んだどこにでもいる女性なのだ。
そこに巽などの大物が惹かれているのだとしたら、納得だ。
それくらいの価値はある。
その美しさの影にあるかもしれない裏を、単純に探りたいと思ったほどだ。
公安に配属されてから、10年、今年で34。
身分を偽りながら幾多の人間と密に、時に薄情に接して、それなりに自信をつけていたつもりだったが、彼女に抱き着いて来られた時はかなり動揺し、咄嗟にインポだと嘘をついた。
あれほどまでに心臓が高鳴ったのは本当に久しぶりで、様々な事が頭を回って混乱したほどだった。
女はそれなりに抱いてきた。秘密裡に長く交際した女もいる。
そんな中で。これは、男を虜にする女だと思った。
既に俺は、彼女のことしか考えていない。
「………」
明星は、ふっと溜息を吐き、パソコンから離れる。
香月にはどんな下心があったのだろうか。本当に、ただ俺のことが気に入って抱き着いてきたのだとしたら……。
別に、香月とそのような関係になることは、問題ではない。
本当にただのOLなら身分もバレない可能性の方が高い。
「……」
今更、女を養う夢をみている自分に気づき、明星はようやく甘い想像から脱却する。
「……」
だがすぐに妄想は展開し、今少しだけなら、自分にもご褒美を与えてもいいのではないか、と、流しを片付けることを思い出し、再びここで彼女と食事をすることを夢に見た。