俺の手には負えない
≪登場人物≫

友利 大樹(ともり だいき)  公安外事二課 本名 明星 一矢(あけぼし かずや)



 勢いで連絡先を聞いたものの、家に帰ってよく考えてみると、えらく大胆なことをした自分に自分でも驚くほどだった。

 記憶が戻り、いつもの自分に戻れたような解放感があったのは確かだが、それでも、友利は魅力的で、新鮮で、斬新だった。

 友利のセリフを落ち着いた声や感触を頭の中で何度もトレースしてしまう。

 胸板は厚く、筋肉質だった。黒いシャツの下はインナーを着ていたようだった。少し石鹸の匂いがしたので、こちらがシャワーを浴びた後に、シャワーを浴びたのかもしれなかった。

 女性の影は見えなかった。と、思う。

 インポだと言ったのは本当だろうか…。

 それも、ネットで調べてはみたが、精神的なことだということ以外は何も分からない。

 それを相談する相手が欲しい。

 そこまで考えて、ようやく、今まで一緒に働いていた佐伯や西野と連絡を取り損ねていることを思い出した。

 だけど今更……今更だ。

 今勤めている新しい店にも若い女性は幾人もいる。

 フリー要員の女性も数人いる。が、皆主婦だ。

 友達がいない。

 かろうじて、連絡を取ってきてくれるのは、以前まで巽を介して仲が良かった四対財閥の社長、四対 樹(よつい いつき)くらいのものだった。

 かといって、四対とそんな相談をしたくはない。

 友達が欲しい…。

 でも、すぐにできるようなものでないことは、この年になるとよく分かっている。

 それらをとりあえず諦めた香月は、翌々日の公休日は行き慣れたカフェへ向かった。

 新店舗オープンしてから、忙しさから逃れるために、思い切って1人でランチに行ったのが始まりで、それからだと3度目になる。

 自宅近くのなかなか良い雰囲気のカフェでケーキも美味しく、以前行った閉店1時間前の午後16時なら人がいないことも分かっていて、その日も16時前に店のドアを開けた。

 店員は若い夫婦だけだが、今は旦那さんだけしか見えない。客は2人だけ。

 香月はいつものようにカウンターに腰かけて、ソーダ―フロートとマカロンを注文した。コーヒーはあまり好きではないので、コテコテしいメニューだといつも思う。

 友達も良いが、こうやって1人で店に来られるようになれば逆に大人っぽくていいのではないかと、ただ無駄に周りの目を気にしてしまう。

 家から持って来た、最新家電雑誌を広げる。

 1人寂しくないようにと持って来たものだが、それは恰好だけで、ただぼんやりと先日の友利のことを考えていた。

 連絡をしてみようか……。

 出るか、出ないか…。

 客が少ないので、すぐに注文した物が並ぶ。

 とりあえず雑誌は広げたままにして。16時45分には店を出ようと決めているので、30分を確認してから、ほとんどフロートを食べてしまう。

 客はもう自分1人だ。30分を過ぎたらもう新しい客は来ないかもしれない。

 でも、あと10分くらいは許されるだろう。

 そう考えながら、腰をそのまま据えていると、

「あの、良かったら」

 旦那さんの店員が話しかけてくれる。

「今日最後なんで、どうぞ」

 抹茶ケーキだ。

「えっ、いえっ、そんな……」

 売れ残りを無料で提供してくれるのは、単純に嬉しいが、抹茶自体があまり好きではない。

「お代はいりません。明日は定休日だし、今食べないと廃棄処分にしないといけないですから」

 持って帰ればいいのにな、でももう食べ飽きてるんだろうか。

「あ、じゃあ、すみません…ありがとうございます。頂きます」

 どうせならチーズが良かったが、抹茶は売れ残る方なのかもしれない。

 ちら、と目の前のカウンター内で作業する旦那さんを見た。今日は奥さんの姿は見ていない。旦那さんの方が少し若い気がするが30いってるかどうか、奥さんは30くらいだと思う。

 確か…、郁人(いくと)君、と呼んでいたっけ……。でも逆に旦那さんが奥さんのことを店長と呼んでいた気がする。多分、奥さんが年上だろう。

 香月は急に、興味が沸いて、

「奥さんは今日はいらっしゃらないんですか?」

と、さりげなく話しかけた。

「え、奥さん?」

 夫婦じゃなかったか。

「え、ええ。いつも一緒にいる…店長の……」

「ああ、いえ。僕はバイトです」

 この年でカフェでバイト…。いや、それにしても良い感じ過ぎる。ジャニーズ顔だし、身体も鍛えられているようだし、白いシャツに黒いパンツはファッションセンスも良い。

 何か別のことをやりながらのバイト、の方がしっくりくる。

「あ、そうなんですか。じゃあ……」

「そうです。夫婦によく間違えられますけどね、店長には別のご家庭があります」

 言葉遣いもきちんとしている。

 あそうか。自分のカフェを作りたいと思っていて、バイト修行中なのかもしれない。それが一番ぴったりくる。

「……家電、好きなんですか?」

 相手もマスターさながら話しかけてくる。家電雑誌はどちらかといえば男性向けに作られている物が多く、確かにその質問には納得がいく。

「いえ…いや、まあ。仕事柄」

「電機屋さんですか。大変ですね。お仕事の勉強とは」

 人懐っこい笑顔に、この人が店を持ったらイケメン店主として若い女の子が行列を作るだろうと思った。今でもこの人目当てに来ている客も多分いるだろう。

 しかし、あまり話し込んでもいけない気がして、ケーキを食べ、水も飲み切って席を立つ。

「今日はすみません、ありがとうございました。美味しかったです」

 言いながら、会計を済ませる。

「いえ、また来てください」

 その笑顔に、看板娘とはこのことかもしれない、そう思いながら、最高に良い気分でカフェを出た。




 友利にメールをすると、比較的早く返事が返ってくることに、最初は驚いた。

 連絡など全然マメな雰囲気はなかったが、予告通り、仕事でない時は短い文ではあるが返事をしてくれる。

 だから簡単に電話をするようになった。 

 いつが空いている時間かをメールで聞いて、それに合わせて電話をする。

 ほとんど毎日の3時間もの長電話の内容は主に、お互いの過去について。それでも、香月の過去について話すことが多かったが、友利もそれなりに話してくれるようになっていった。

 大学を出てからフリーターをしたり、知り合いの仕事を手伝ったりしながら、今のライターの仕事にたどり着いてはいるが、時々知人の仕事の手伝いも続けているということ。

 結婚はしたことがない、ということ。

 彼女は1年前にいたのが最後だということ。

 お互い、すれ違いが多くなって別れたということ。

 食べる物は和風が好きだということ。

 この前のペペロンチーノは、偶然の洋風だったということ。

 電話もし始めると、たった5分でもそばに居たくなり、すぐに会う約束をとりつけた。

 それは、出会ってから、たった1週間後のことだった。




 連休の前日のその日、仕事中にメールを見た香月は固まった。

『明日は仕事になった。すまない』

 約束したのは3日前なので、まだダメージは少なかったが、それでも、映画からの夕食がなくなったのである。

 でも、仕事だから、仕方ない。

 ある意味、それには慣れている。

『その次の日はどうですか?』 

 友利の反応がいつも良いので、怖がらずにメールを打つ。

 どちらかといえば、今香月自身が仕事の途中で、たまたま倉庫に来ているタイミングでスマホを見てさぼっている方が怖いくらいだ。

 しかし返事が早いといっても、数十分はかかる。

 しばらくポケットのバイブ音を気にしていると、30分後に足が震えた。

 友利だと思うが、とりあえず、スマホを少しポケットから出して名前だけ確認し、一仕事終えてから、廊下で続きを確認する。

『仕事だが、夕方には戻る予定』

 せっかくの連休、うまくいけば泊まりもありかもと予測して力んでいたが、あっさり力が抜ける。

 まあ、そんなもんか。

『夕食だけでもいいから一緒に食べたい』

 思い切って送信する。

 どんな返事が来るのか待ち切れないと思いながら、スマホをポケットに入れ、廊下から出ようとドアを開こうとすると、ポケットが揺れた。

『OK』





 昼を過ぎてからシャワーを浴び、念入りにメイクをして、一昨日買い揃えた下着をつけた。考え抜いたマキシワンピ。髪の毛は簡単にヘアアクセサリーでお団子にまとめる。鏡の中の自分は今、最高だ。

 行き先は、2度目の友利の自宅。

 今回の夕食は、外でと友利が提案したが、『疲れているだろうから、何か作ってあげる。この前のお礼に』とそれらしく理由をつけ、再び上り込むことに成功した。

 大丈夫。今日、どうこうなっても、大丈夫だ。心の準備は出来ている。

 インポ、という言葉が頭をかすめたが、そこまでいかなくても全然大丈夫だ。

 ふっと、力を抜いて、友利のマンションのインターフォンを押す。

 中からは人の気配がして、すぐにドアを開けてくれた。

「どうぞ」

 友利は、前回と変わらず、落ち着いている。

「こ、こんにちは。お邪魔します……」

 香月は、自然さを振る舞って中に入り込む。



 今日は紺色のシャツにジーパン。前回と少し色が変わったかなくらいで、普段着はいつも濃い色のシャツにパンツだということが伺い知れる。

「あ、買い物…してきました。あの、……和食が好きだと言っていたので…一応それらしい物は……」

「それはそれは」

 言いながら、両手いっぱいの荷物を持ってくれる。

 玄関から、キッチンの距離なのに。

 かといって、友利は自然だ。これまで1週間、ほぼ毎日電話をしていたというのに、前回の続きと変わらないくらいの自然さだ。

「さて、何を手伝おうか」

 そんでもって、キッチンの横に立ってくれようとしている。

「い、いっえ、あの、今日は仕事で疲れていたでしょうに…私は今日休みでしたから!」

 たどたどしい包丁捌きだけは横で見ないでほしい!!

「そうかい?」

「あ、…はい、大丈夫です。作ったことあるメニューですから!」

 といっても、魚を焼いて、味噌汁を作って、ほうれん草を茹でるだけだ。

「米は炊いてあるから」

「あ……」

 お米も持ってきたけど、既に炊いてくれている。突然、魚を焼いただけのメニューに不安を感じて立ち止まってしまう。

「……鮭か……。玉ねぎがあるからホイル焼きにしよう。そうすれば匂いもつかない」

 隣に立ってくれた横顔を見上げた。友利は普通に鮭を見ていた視線をこちらに移し替え、

「玉ねぎが苦手なら、そのまま焼いたものでも大好物だ」

「いえ…ホイル焼き、美味しそうです…」

 友利は、玉ねぎを出して、薄く切っていってくれる。

「味噌汁は頼んだ」

 と、言われても、それも、数えるほどしか作ったことはない。

 かくして、なんとか、鮭のホイル焼きと、ほうれん草の煮びたし、豆腐の味噌汁は完成し、前回と同様、ダイニングテーブルで2人対面して座って食べ始める。

 まず、最初に味噌汁を飲んだ。

「………なんか…味噌汁、あんまり美味しくないですね」

 先手を打っておく。レシピ通りだとは思うが、何故かあまり美味しくはない。母の味噌汁はもっと、味噌汁っぽかったはずだ。

「ダシがきいてないが、こういう時は、とろろでも入れれば…」

 とろろなんかあるんだ!と驚いてその方を見る。

 友利は、冷蔵庫から取り出したとろろを味噌汁の中に一塊入れてくれる。

「うん、これなら大丈夫だ」

「………」

 32だ。32にもなって、味噌汁一つできないなんて……。

「………」

 泣きそうだ。

 料理教室に行かなきゃ……。駅前にあることはちゃんと分かってるし……。

 なんとなく会話も弾みながら、なんとか食べ終えることはできる。

 今日は片付けも一緒にしたが、それでも時刻は19時だ。

 帰るにはまだ早い。

「明日仕事なら、早めに帰った方がいい」

 それは、料理の味をみて言ったのかもしれない、と思う。

「………そうかも……しれません、けど……」

 足は動かない。

「…料理はうまかった。ありがとう」

 友利はお世辞を言ってくれたが、

「反省しました。料理教室行こうって」

「反省?」

 友利は律儀に聞いてくれる。

「…、料理くらい、できなきゃ」

 なんとか、笑顔を作って言えた。

 帰ろう。今日は。

 抱かれる準備をしてきたけど、そんな気持ちには到底なれない。

「送るよ、そこまで」

 胃袋をつかめていない、証拠だ。

 そのまま、玄関に向かう。

 ふと、このまま距離が開いてしまうのではないか、という予感が走った。

「……あの」

 友利の目をきちんと見つめる。

「ん?」

「また、連絡してもいいですか?」

「あぁ。来週はちょっと忙しくなるかな」

 そうだよね……。

「……そうですよね……」

「その後の予定は今は分からない」

「……」

 だろうなと思う。

「ふっ、何をそんなにしょげてる」

 友利は、半笑いで聞いた。

 狭い玄関で、もう2人は靴を履いている。

「……料理、ちゃんとできなかったなあって……」

 正直に言う。

「いいや。ちゃんと飯にはなってた。うまい夕食だったよ」

「………」

 飯にはなってた……。

「わざわざ買い物行って、俺のために作ってくれたんだろ。うまいに決まってるよ」

 思わず、目を逸らした。

 どきどき、している。

「さあ、帰るか」

「待って!」

 ドアをあけようと、ドアノブに伸ばした腕を掴んだ。

 思い切って、しなだれかかる。

「何故いつも玄関で」

 友利は笑いながら言う。

「帰ろうかと、帰らなきゃと思ったんですけど」

「……」

「帰りたくなくなるんです、いつも」

 思い切って、バックを床に落とし、背中に腕を回した。




 明星は前回、インポだと言ってしまったことをどう回収しようか悩みながら、頭を掻いた。

 今日香月がドアの外に立っていた瞬間から、そのつもりだということは見てとれた。首筋に垂れる後れ毛、色っぽいメイク、身体のラインを強調した1枚のワンピース。

 いかにもなそれで、そのまま夜の街など到底歩かせられるはずがないほどの色気を漂わせていて、自分もそれに乗ろうかどうか、「帰ろうか」という一言を出すまでずっと考えていた。

 しかし、香月本人が帰ると言い出したから、まあ、今日はここまでかと思ったわけである。

 料理はもちろん、味噌汁もダシが出ていないし、ほうれん草も茹ですぎていて基本が出来ておらず、お世辞にも「美味しい」と言えるものではなかったが、食べられないわけではなかったし、味に文句をつけなければ、それは「うまい」と言えるものではあった。

 さて、前回インポだと言ったことを香月が忘れている可能性は、低い。

 それ、そのつもりでそこに抱き着いているのだとしたら、完全なプラトニックラブを視野に入れてということになる。

 本人はそれを臨んでいるのか、はたまた、……こちらの正体を暴いた上で、ネタ探しに来ているのか……。いや、後者の可能性はない。

「……」

 まあ、なるようになるか……。

 友利は、ある程度の覚悟を決めて、顔をおろした。

 しかし、香月はこちらを見てはいない。

 顔をこちらに向かせようと、顎をとろうにも、顔が胸板にへばりついてしまっている。

「このままじゃ、キスが出来ない」

 手を背中に置いて、少し力を緩めるように催促したつもりだが、

「………」

 逆に香月は固まった。

「……」

 仕方なく、背中を撫で、少し腕が緩んだ瞬間、自らが背を引いてその顎をとり、強引に割り込んでキスを、触れるだけのキスをする。

「………」

 それでいいのかどうか、反応を確認したかったが、再び胸にうずくまってしまう。

 まあ、それで良かったんだろう。

「………部屋に入ろう」

 とりあえず、玄関から抜け出して、後は適当に言い訳するしかない。






 友利は女性には反応しないはずなので、こちらのことだけを気持ちよくしてくれるものだと思っていたら、ズボンを脱ぎ、ゴムをつけてあてがったので、あれは聞き間違いだったかと考えた。

「……あの時は自信がなくて、つい……けど、今日は大丈夫そうだ」

 終始落ち着いていて、前戯も手慣れた感じで気持ち良かったのに、そこだけは消極的なんだと驚いて目を閉じた。

「………ッ」

 どうしよう、痛い。

 痛い。

 それにすぐに気付いた友利は、身体を離し、

「痛いか?」

 ストレートに聞いてくれる。

「……」

 でも、答えようがない。

「……大丈夫」

「………」 

 もう一度、トライしてくれる。

 ゆっくり。

 さっきもゆっくりだったが、更にゆっくり。

 息を整える。久しぶりのせいだ。

 卵管を切ったせいじゃない。

 痛くはない。

 大丈夫、動かなければ、なんとか……。

「……」

 だが、じっとしているわけにはいかず、友利は当然、身体を動かし始める。

「……、……」

 痛い。

 ゆっくりしてくれている。

 だけど、痛い。

 どこら辺が痛いのかは分からないけど、痛い。

 なんか、痛い。

「……」

 再び友利が身体を離した。

「大丈夫!」

 慌てて、我慢することを宣言する。

 だけど、友利は、

「悪い。俺が無理そうだ。今日はうまくいくと思ったんだがな……」

「………」

 ちゃんと出来そうな気がしたが、何か無理な部分があったのだろうか…。

「すまない。セックスには自信がなくてね。痛い思いをさせたかもしれない」

「………」

 友利のせい……なんだろうか。

「……いや……」

 白いシーツを見つめて考える。

「シャワーを浴びてくる。少し横になって、休むといい」

 友利は、さっとベッドから降りると、こちらを見ずにドアノブを握った。

「帰りは送るよ」



 予告通り、翌週の友利は全く返事をよこさなかった。

 だが、それが考えるのに丁度良い時間になったことは確かだった。

 何故あの時痛かったのか。

 卵管を切った事が関係しているのか。

 一度、病院に行ってみた方がいいのかもしれない。

 その週の公休日と評判の良い病院の定休日がかぶったため、シフト変更を言い出そうかどうか迷う。

 他の病院も木曜日は休みが多く、1時間先の所なら午前中のみ開いていた。

 どうしようか……。

 シフトの相談をするなら、市瀬だ。

 だが。

 以前の市瀬ならきっと、休みの変更を相談して…なんなら、病院に行く内容まで相談できそうな雰囲気だったが、今は少し違っていた。

 前回市瀬を飲みに誘っていた花端という女性の部門長が、市瀬より10近く下だろうが、徐々に彼を顎で使い始めた。

 しかし、市瀬は逆に花端を尊敬している、らしい……。

「市瀬」

「はい」

 花端に呼ばれて、市瀬は素早く返事をする。まるで、よくしつけられた犬のように。

「これ、できたら今日中にやっといて」

「分かりました」

 別に、上司と部下で内容もおかしくはない。

 だけど、市瀬が花端に必要以上に好意を持っている気がしてならない……と感じているのは、フリー要員の中でも自分だけではなさそうだというのは分かる。

 花端も市瀬もきちんと仕事をしているし、部下もみてくれているのだが、2人が妙に意思疎通してきているような気がして、それがなんとも奇妙で、香月は市瀬と距離を取り始めていた。

 そんな状態で、病院の相談はしたくない。花端に通じて何か言われるかもしれない。

 とりあえず、自分の代わりに出勤してくれる代役を探し、交代のお願いをした上で市瀬に子宮がん検診に行くので、とそれらしく理由をつけた。

 予想通り、何も返してこない。

 しかしこれが花端なら、何故このタイミングにとか色々言われるに決まっているので、今日自分が交代した理由を花端にだけは知られたくない。そう思いながら、その火曜日は休みを取った。



 病院では、特に異常はなかったが、一度も妊娠していないのに卵管を切ったのはどのような経緯だったのかと聞かれ、どう説明するのか全く考えていなかったので、「色々考えて」とその一言でやり過ごした。

 しかし、身体に異常はなく、つまりは相手との相性か、精神的な事のどちらかだと言われた。

 友利はあの時、うまくいかない、と言っていた。だけど、今までの経験から考えてみると、おそらく、気を遣って言ってくれたのだと思う。

 無性に会いたくなる。

 会って、もう一度試してみたい。

 あれから料理も1回作ったし、次は前よりはうまくいくと思うし。

 来週、もし会えたら。

 きっと、うまくいくはず。




 来週を待たずに友利が時間を作ってくれた事に、香月は今までにない喜びを感じていた。仕事の早上がりの日と友利が会える日が重なったおかけで、再び、同じ部屋にいる。

 今日は友利が買って来たピザをアレンジして、夕食を出してくれた。料理が出来る彼を褒め、会話が弾み、座る位置が近くなり、密着度が増していく……。

 そして、今日はもう玄関を経由することなく、そのままベッドへ。

 前戯に時間をかけてくれる。そしてゆっくり、身体を合わせていく。

 大丈夫、今日は痛くない。

 大丈夫、うまくいくはず。

「……」

 そう信じているのに。

「眉間に皴を寄せるほどのことじゃない」

 友利は、少し笑って途中で腰を引いて、身体を離した。

「……」

 どういうつもりかと、身体を起こして様子を見ていると、ベッドから降りようとする。

「え! 私、大丈夫だから!」

 まだ最後まで試していない。

「………、我慢してまでしなくていい」

「我慢なんてしてない!」

 言い切って、自ら枕に頭を落とす。

 大丈夫、なんとかなる。

 精神的なことって、そんなこと、あるはずがない。

「……」

 友利は何も言わず、再び、最初からの前戯を繰り返してくれる。

 大丈夫、痛くない。

 大丈夫、痛くない。

「……」

 もう一度、トライしてみる。

 ゆっくり、ゆっくり。

「……」

 ゆっくり、ゆっくり。

「……、……」

 大丈夫、痛くない。

「…、……」

 そんな気がしただけで、痛くない。

「………はあ」

 息を吐けば、痛みが和らぐはず。

「……、無理をするな」

 友利は、簡単に身体を離すと、どすんと隣に横になった。

「俺は無理にしたいとは思っていない」

 言わせている、そう感じ取った香月は、黙ってシーツを見つめた。

「……昨日、病院に行った」

「………」

 友利は黙って聞いてくれている。

「特に、悪いところはなかった」

 それは、でも、逆に友利が悪いと言っているようなものかもしれないと思い、慌てて、

「精神的な事だって言われた」

 それを付け加えておく。

「気が乗らないだけさ。俺も前回はうまくいかなかった。お互い、調子が合わない時もある。それに、そればかりを望むのも苦手でね」

 セックスが苦手……という意味だろうか。

「こうやって、触れているだけで俺は充分なんだが」

 抱き締めて、くれる。

「俺も、インポかもしれないと思うほど調子が悪い時もある。それも精神的な事でね。仕事が忙しかったり、考え事をしていたり、色々だ。単に風邪気味な時もある」

 その言葉が温かくて、涙が流れた。

「同じ人間なんだ、考えなんてそうそう変わらないさ」

 ああ、だから、この人は私のことを見透かすように理解してくれるのかもしれない。

「さあ、寝よう。今日は一緒に寝たい。…朝早く、送るよ」

 無理矢理顔を合わせて、キスをしてくれる。

 これ以上、何も望むことなどない。

 何も深く考えなくていい。

 ただ、この胸の中で、言われるがままに目を閉じていればそれでいい。



  ホステスに落ちた時に卵管の手術をした事を、もちろん調査済みの明星は、そうだろうなと予測して、胸の中で目を閉じる彼女に納得した。

 精神的なことなら、時が過ぎればできるようになる可能性は十分ある。

 だが、今の34歳という年齢の自分から考えれば、それを待つくらいのことはどうとも思わない。

 それなしでも楽しめるセックスも知っているし、なんら問題はないように思えるが、香月の心の闇はまださらけ出しはできないだろうなと見てとれた。

「何も、問題はない」

 艶やかな髪の毛を優しく、撫でてやる。

 それが心に響いたように急に顔を歪めた香月は、再び胸に顔を預けてきた。

 胸元が涙で濡れて冷たい。

 良い香りがする頭を再び撫でながら、この女に幾人の男が狂い、離れて行ったかを改めて思い返していた。

 巽、四対、附和…いづれも、政界でも財界でも顔がきく日本を代表する大物だ。

 附和とはまだ、会社で繋がってはいるが、本人は嫌っているという。

 別に、嫉妬ではない。

 こんな良い女に言い寄られ、抱き着かれて、色っぽい恰好で家で手料理でも振る舞われた日には、皆が皆ベッドになだれ込むだろう。

 俺も、その例外ではない、というだけだ。

「………」

 気が済んだのか、涙が止まっていく。

「何も気にする必要はない」

「友利さんは、全然気にならないんですか? …私と会う事に意味がないとか思ってませんか?」

 思わず噴き出した。

「そんなまさか、もうそんな年ではないよ」

「……年の問題ですか?」

 すんなり見破られる。

「いや、そういう風に君のことを思ってはいない」

「じゃあ、どういう?」

 しっかり目を見て聞いてくる。

 その、長い睫を揺らし、潤んだ瞳で見つめられて、ここで妙な事が言える男がいるのなら教えて欲しい。

「……」

 とりあえず、キスで返す。そして、ぎゅっと抱きしめて、

「ああ、君の事が大好きだ」

 一応、心を引かせておく。大好き、というのは仕事の時、必要な時に時々使えるように出すようにしている言葉だ。

 稚拙なようで、意外に心に響き、言いやすい言葉。

 予想通り、抱き着き返してくる。

 どんな甘い言葉を返してくるかと思い、まったりと待つ。

 だが、それは意外にもきつい言葉で息を飲むほどの反撃だった。

「お願いだから、捨てないで」



「………」

 隣には彼女がいる。

 その重みが急にのしかかる。

 抱き締められる。

 体重をかけて、締め付けてくる。

「う、ん……」

 息がしづらくなり、仕方なく柔らかな身体をどけた。

「重かった?」

「いや、首が締まりそうだった…」

 何時頃だと時計を見た。22時。変に寝たせいで、身体がだるい。

「ねえ……私達って、恋人?」

「、」

 寝起きで聞かれて、つと間が空いてしまって失敗しそうになり、キスで誤魔化す。

「ああ」

 大丈夫だ。この女には妙な駆け引きはいらない。

 俺が公安警察だということは、しばらくはバレないはずだ。




 気分は最高潮だ。

 るんるん気分で仕事に行ける。

 今週の友利は忙しいと言っていたので会えないかもしれないが、突然でもまた、会う時間を作ってくれるかもしれないし。

 さて、休憩中に料理教室の情報を集めて、料理の勉強をしていかなければいけない。

 自分の弁当を自分で作れれば…そうか、うまくいけば友利にもお弁当を作ってあげられるかもしれない!

 自分が遅出のタイミングで朝お弁当を渡しに行って……。

 それってもう、完璧な……、

「香月」

「……、あ、はい」

 市瀬が難しい顔をしている。

 一瞬で現実に返り、真剣にその顔を見た。

「昇給査定の面談がある」

 半年に一度、昇給できるかどうかの面談を直属の上司とするようになっているのだが、香月は簡単に、

「はい」

 と頷く。

「……、退社の30分前。事務室で待ってるから」

「はい」

 昇給……かぁ……。

 はた、と周りが見え始める。

 エレクトロニクス、リバティにいた時は、仕事の事しか考えていなかったので、特にリバティでは簡単に昇給したが、今はどうだろう。仕事はそれなりに楽しいし、宮下が用意してくれた場所で、ののびのび出来てはいるが、それが昇給に繋がっているような状況ではない。

 そもそも、カウンターならカウンター、各部門なら各部門でそれぞれやらなければならない事が明確に決まっていて、それが出来れば昇給し、部門長、副店長、店長と上がっていけるのだが、フリー要員というのは業務内容が多岐にわたり、うまくいけば、例えば市瀬ならそもそもの経験値があるので副店長に上がれるだろうが、香月のように、適当に仕事をしていっているようでは、各部門をまとめる部門長にはなれるはずがなく、ましてや、経験もないのに副店長にもなれず、完全にここで滞留してしまう。

「………」

 今になってようやくそれに気づいた香月は、先日、カウンター部門長の桜井がシフトを作って宮下に褒められていたことを知った時の嫉妬心を思い出した。

 宮下は私には仕事をしてほしいとは思っていないのかもしれない。

 ただ…トラブルを起こさず、九条にも背かなければそれでいいと思っているのかもしれない……。

「………」

 でも、例え今は宮下に褒められたとしても、自分には彼氏がいるし、あまり、褒められ過ぎても困るわけで。

「………」

 だけど……。

 香月は、花端に寄り添い、返事をしてまたそれぞれ仕事に戻る市瀬の背中を見て思った。

「……」

 自分の。自分の居場所がなくなっている。



 市瀬との面談は滞りなく、形式的に終わった。ほんの10分だった。

 退社まで、残り15分以上ある。

 昔なら、その15分でしなければいけないことが完全に分かっていたと思うが、今は全く何も浮かんで来ない。

 さすがにそれじゃあいけないかもしれない。資料でも読み込み直さなければいけないと思いながら廊下を歩く。

 向こうから歩いて来たのは、宮下と桜井だ。

 少し、俯いて、すれ違う。

「来月のセールの応援人員は、桜井が好きなだけとっていい」

 あり得ない一言に、さすがに足が止まった。

 もちろん2人は、さっと通り過ぎ、上階にある店長室に向かうために階段を登って行く。

「……宮下店長、九条専務へのお電話が済んでからでかまいませんよ。私の面談は」

「いや、その電話は長引くに決まってるから。それより、面談の方が遥かに大事だ。先に面談に入るよ」

 面談?

 基本的に、宮下に面談をしてもらえるのは副店長だけのはずだが、何故桜井が……。

「香月、早く売り場に戻れ」

 こちらにいつから気付いていたのか、近くにいた市瀬が無表情で言い切る。

「あの、部門長って店長に面談してもらえるんですか?」

 一瞬、嫌な顔をされた。今は無駄話をしている場合じゃないと言われているのが顔で分かる
だが、今それを聞きたかった。

「希望者だけな」

 いつも、近くに宮下はいる。

 いつも、助けてくれる。

 だけど、他に助けたいという人が出てきてもおかしくはない。

 特に、よく仕事ができるなら尚更だ……。

「……」

 売り場に出て、思う。

 でもきっと、今自分が仕事をしたいと思ったら、それは人生の遠回りになる。

 もう仕事で恋愛を無駄にはしないし、今度こそは、友利をきっと大切にしてみせる。

 四対との連絡も取らないし、巽にも絶対会わない。

「……」

 そう思い歩いているだけで、退社時刻になる。

「香月、退社します。お疲れ様でした」

 インカムのマイクに簡単に言うと、そのまま退社することにする。お昼は駅前の料理教室の講座を見たが、行けそうなのは、毎週水曜日午後19時からのコースくらいだった。だけど、毎週水曜日を早上がりか休みに申請するしかない……。思い切って、申請してみようか……。

「……」

 考えながら廊下を歩いていると、ポケットのスマホが震えた。まさか!と思い、見てみる。……九条だ。さっき宮下が九条の電話がどうのと言っていたし……嫌な話でなければ良いのだが。

「……もしもし」

 とりあえず、階段の踊り場で出る。

『今退社したところだな?』

 それを宮下に確認していたようだ。

「そうです」

『本社に来てくれ』

 どういう風の吹き回しだと思いながら、

「……いつですか?」

 研修ですか、と聞いてみるのもいい。

『今すぐだ』

「……、それは、研修か何かですか」

 間髪いれず、九条が答えた。

『……察してほしいね』

 電話は簡単に切られる。

 香月はすぐに、行かないことを決め、スタッフルームへと急ぐ。附和の与太話に付き合っている場合ではない。料理教室に行くことも考えなければいけないし、すぐには無理なら本屋で本でも買おう。

 スタッフルームからは同時刻に退社した花端が大振りのバックを持って帰っている。あのバックには何が入っているのかは知らないが、仕事に関係ないものに違いない。小さいバックを買えばいいのに……。

 少し頭を下げたまますれ違った後、すぐに

「市瀬」

と言う声に反応して、後ろを振り返った。後ろからは、市瀬が来ていたようだ。

「送って」

 花端は簡単に言い、そのバックを預けている。

 未だかつて、そのような上司と部下の図を見たことがなかった香月はその場で固まった。ちら、と市瀬がこちらを見たが、彼はそのままバックを持って車まで送るようだ。

「………」

 2人の間に何があったのかはしらないが、これは良い兆候ではない。

 こういうことを宮下はどう思っているのか……。

 ふと、階段の上から声が降ってくる。

「……いいや。さあ、どうかな。俺もこの店でいつまでいられるか……」

 宮下だ……相手は、桜井。

「そうなんですか」

「でも、桜井なら、何にも左右されない心を持ってる。大丈夫だよ」

 その声は、優しい。

「ええ。私は今しなきゃいけない仕事をしてるだけです。ありがとうございました。お疲れ様です」

 桜井はしゃんとした声をはっきり、宮下に向けると、足早に階段を下りてきた。

「あ、お疲れ様です」

 何にも動じず、挨拶してそのまま売り場に戻って行く。次に自分がしなければいけないことが分かっている証拠だ。

 次に宮下が下りてくる。

「あぁ、九条専務から連絡いった?」

 どうでもいい内容だ。

「………はい」

「必ず、本社に行くように」

 ああ、きっと、どうでもいいと思われているんだとはっきり感じた。

 店がうまくまわるかどうか、何が大切かどうかという考えの中に、自分が入っていないということだけは、しっかりと伝わってきた。
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