花のようなる愛しいあなた
もともと豊臣家と徳川家は微妙な関係性を持っていた。
織田信長が死んだ天正10(1582)年、その当時はまだ羽柴姓だった秀吉は織田家のナンバーワンの家臣であったが、家康は織田家の同盟国の当主であり家臣ではない。
羽柴が成り上がろうとも徳川は羽柴の下につく必要はなかった。
織田家の家督争いがこじれ、秀吉と家康の代理戦争が行われた時、家康は軍事的に秀吉に勝利した。
しかし政治的に勝利を収めたのは秀吉だった。

羽柴と徳川、どちらが天下に近いのか?
どちらに着くべきか?
世論は騒がしかった。

家康は織田家の家中のことに首を突っ込んでもろくな事にならないのを悟り、距離を置くことにした。
擦り寄ってきたのは秀吉からだった。
「今度上洛するから自分の下に着いてほしい」
こうハッキリお願いした。
「領内が揉めているのでそれどころではなく…」
領主が領外に出ると、領内で揉め事が起こったり、その隙に他国から攻め込まれることは当時の常識であった。
領外で暗殺される可能性だってある。
家康は言葉を濁して断ろうとした。
すると秀吉は自身の妹を家康の継室にと送りつけて来た。
上に立ちたいと言ってる者が自ら進んで人質を差し出すなんて前代未聞だ。
家康が躊躇していると、次に秀吉は生母を送りつけて来た。
秀吉にとって大切な母と妹を人質に差し出すくらい徳川を信頼しているという証明だった。
この送り付け商法のような戦略に家康は更に思案していると、
今度は何と秀吉本人が護衛もつけず単身で家康の元にやって来た。
そして驚く家康に対して秀吉は
「お願いします!
私の下について下さい!
何ならフリだけでも良いんで!」
と頼み込んだ。
「あぁ、もう…めちゃくちゃな人だわい!
こんな男に勝てる訳がないわい!」
家康は可笑しくて快諾してしまった。

その後秀吉は家康に気を遣いながら天下をまとめていく。
自分が官位を賜るときは家康にも自分の次に良い官位を賜われるよう奏上した。
兵を出す時は被害があまり出ない場所に布陣してもらうなど配慮した。
何事にも徳川に協力を仰ぎ相談し良きパートナーシップを築き上げて行った。

死ぬ間際、秀吉は豊臣の一番の脅威は家康であることも、
しかしながら日本をまとめて仕切れるのはこの男しか居ないこともわかっていた。
だからこそ何度も枕元に呼んで
「秀頼のことを何卒お願いします」
と遺言して起請文に何度もサインをさせた。
家康は親身に接した。
時には涙を流してみた。
死を目前に弱り切った老人の遺言を無碍にすることはなかなかできない。
秀吉最後のパフォーマンスだった。
「徳川殿の律儀物」
世間にそう宣伝された家康はそのように振る舞ざるをえない。

…都合の良いことばっかり言ってんじゃない。
今までどれだけ我慢して格下のお前に付き合ってやったと思ってるんだ…!

秀吉の死後、家康は「律儀物」「忠義者」の体裁を守りつつ、天下を我が物にするために尽力して来た。
きちんとした手順を踏んで
力を蓄えて
誰も逆らえないように
自分がいないと日の本が回っていかないような仕組みを作った。
地盤を固めた。

それでもまだ足りないのだ。
かつての主人に部下になれと命令する大義名分が。

そして家康はいよいよ古希を迎える。
寿命が迫って来ている。
時が足りない。 
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