ウソキオ 〜 ウソのキオク喪失から始まる同棲生活〜
4、 君とのキスは気持ちいい
◯ マンションのダイニング
糸とカイがダイニングテーブルに向かい合って座っている。 テーブルの上には白い紙。
カイ 「糸、 俺はね、 君にはここで快適に暮らして欲しいと思ってるんだ。 だから、 不安は全て取り除いてあげたいし、 不満があったら何でも言って欲しい」
糸 「不満…… ですか? 」
カイ 「そう。 いつまでも遠慮してちゃ楽しく過ごせないだろ? 俺への不満でも希望でも構わないから、 我慢せずに言ってよ。 俺も希望を言うから、 ちゃんと意見を擦り合わせて、 お互いが納得できるルールを決めようよ」
糸 「はい」
糸 (カイは嘘をついてる私のために、 こんなにもいろいろ考えてくれている。 私も彼が私といて楽しいと思ってくれるように、 出来る限りの努力をしよう)
カイは紙を持って糸の隣に移動すると、 手に持ったボールペンで、 紙に文字を書き込んでいく。
『同棲生活のルール』
カイ 「そうだな…… まずは、 お互い敬語は使わない。 それから、 下の名前で呼びあうこと。 これはOK? 」
糸 「はい」
カイ 「『はい』じゃなくて…… 」
糸 「あっ!……うん」
カイがボールペンを指先でクルリと回してから、 用紙にその2項目を書き込む。
糸 (うん。 これは何度もカイ先生が言ってた事だもんね )
心の中で、 『カイ、 カイ、 カイ…… 』と何度も復唱する。
カイ 「家事は…… その日に時間がある方がやればいいと思うんだけど」
糸 「あっ、 それは全部私が! 」
糸 (こんな高級マンションに住まわせてもらって、 家賃も光熱費もいらないって言うんだもの。 家事くらいは私がしなきゃ)
するとカイは少しムッとしながら、 糸の頰をムニュッと摘んだ。
カイ「俺は糸に家政婦として来てもらった覚えはないんだけど」
糸 「でも、 せめてそれくらいは…… 」
カイ 「それっ! 俺は糸のそういう遠慮を無くしたいの。 そのためのルール作りだってこと、 分かってる? 」
糸 「……はい」
糸が肩をすくめてしょげかえると、 カイは苦笑しながら、 糸の頭にポンと手を置いた。
カイ 「糸は料理が得意だったよね。 お弁当も自分で作ってた」
糸 「うん。 お母さんと一緒に夕食も作ってたから、 大抵のことは出来ると思う」
カイ「お菓子作りも得意だもんね。 僕にも何度かプレゼントしてくれた」
糸 「はい…… いえっ、 そうだったの? 」
糸 (うわっ、 覚えていない設定なのに、思わず「はい」って言いそうになった! これからこういうトラップにも気を付けて生活していかなきゃいけないんだ……)
カイは楽しい時間を思い出すかのように目を細め、 つらつらと糸とのエピソードを語り出す。
カイ 「糸はね、 高校の『お菓子部』で作ったものを、 よく俺にプレゼントしてくれたんだ。 透明の袋を可愛いリボンで結んであってね。 付き合い始めてからは、 クッキーなんかを「あ〜ん」て食べさせてくれた」
糸 「ええっ?! 嘘っ! 」
糸 ( リボンをかけてプレゼントまでは本当だけど、 後半部分は捏造! )
カイ 「ん…… 本当だよ。 早く思い出すといいね、 糸」
耳元に顔を寄せ、 甘い声で囁かれると、 全身がゾクッとした。
糸 (以前からカイは優しくて素敵だったけれど、 恋人同士という嘘の設定が加わってからは、 そこに色気と甘さが加わったような……)
カイ 「ん〜、 そうだな。 家事のことはひとまず置いといて、 もっと重要な性生活についてを先に決めちゃおうか」
糸 「えっ、 ええっ? せ…… 性?! 」
カイ 「 うん、 俺的にはそっちの方が重要だし。 まず、 キスはどうする? 俺的には、 最低でも起床時と寝る前の1日2回はしたい。 今はまだ春休み中だけど、 会社が始まったら、 そこに『行って来ます』と『ただいま』の2回追加で」
糸 (ええっ! つまり計4回ですかっ?! 多い! っていうか、 私はファーストキスもまだなんですけどっ! )
中学時代からカイを一筋に思い続けて来た糸は、 当然他の男の子に目が向く事はなく、 お付き合いもキスも今だに未経験なのだ。
糸 (この歳で未経験って言ったら引かれるかな…… いや、 カイの中では私と既にキスをした事になっていて…… ああ、 ややこしい! )
カイ 「糸が希望を言ってくれれば回数の増減は可能だよ 」
糸 ( キスをするのは確定ですかっ?! )
糸 「あの…… 私とカイは、 もう何度も? 」
糸 (……って、 あるわけないんだけど )
カイ 「うん。 付き合ってすぐにして、 それから何度も」
糸 「それは…… 本当に? 」
糸 (どうして嘘をつくんですか? これは私が記憶を取り戻すまで続くんですか? そして…… 記憶が戻ったら、 サヨナラなんですか? )
カイは手に持ったペンをテーブルにコトリと置くと、 糸の頰に親指でそっと触れた。
その指がススッと移動して、 糸の唇をなぞる。
カイ 「…… 試してみる? キスしたら思い出すかも知れないよ」
カイが長い睫毛を伏せて、 顔を近づけて来る。
糸 「えっ?! 」
カイ 「糸とのキスはね、 とても気持ちよかったよ。 糸の小さくてキュッと締まった唇が、 僕の唇と重なった途端、 サッと熱を帯びて、 柔らかく蕩けていくんだ…… 」
糸 (えっ、 このままキスしちゃうの? ファーストキスなのに?! )
だけど、 初めてがカイならいいと思っている自分もいて……。
糸はどうすればいいか分からないまま、 ギュッと目を閉じた。
糸 ( ずっと好きだったんだもの。 カイがファーストキスの相手になるのが嫌なわけがない。 たとえそれが同情や責任からだとしても…… )
カイの吐息をすぐ近くに感じて、 心臓がドッドッドッと早鐘を打つ。
糸 (あっ、 来る! )
閉じた瞼に力を込めた途端、 柔らかい感触がフニッと頬に落ちてきた。
糸 「えっ、 頬っぺた?! 」
パッと目を開けたら、 糸の額に自分の額をコツンとくっつけたカイが、 色気だだ漏れの瞳で見つめている。
カイ 「本当に無防備だな、 糸は」
糸 「どうして…… 」
カイ 「だって糸がガチガチに緊張してるからさ、 俺が無理矢理襲ってるみたいで罪悪感を感じちゃったよ」
糸 「そんな…… 」
糸 ( あっ…… 私、 ホッとするよりも、 むしろガッカリしてる…… )
カイ 「 糸はまだ俺のことを思い出してないし、 好きになってもいないんだろ? だったらそんな簡単に目を閉じちゃダメだよ。 OKなのかって勘違いしそうになる」
糸 (勘違いなんかじゃない! 私はカイのことが好きなのに…… )
カイは再びボールペンを手に取ると、 今のやり取りが無かったかのように紙に向かう。
糸( 私は階段で頭を打った時に、 告白も振られたこともリセットして、 一からやり直すチャンスを得たんだ。 なのにこれじゃ、 家庭教師の先生と生徒と変わらない )
カイ 「それじゃキスは、 糸の気持ち次第でって事で、 しばらく保留だな。 寝室だけど、 これも糸の受け入れ態勢が整うまでは別々で…… 」
糸 「一緒でいいです」
カイ 「えっ?! 」
糸 「だって…… カイと私は結婚を約束した恋人同士なんでしょ? だったらキスだって、 その…… 夜のことだって…… 自然なことだと思うし…… 」
顔を真っ赤にして俯いて、 最後の方はゴニョゴニョと小さな声で呟いた。
カイ 「くっそ…… 俺がせっかく…… 」
吐き捨てるようにそう言って、 カイは俯いたままの糸の顎をクイッと持ち上げ、 唇を合わせてきた。
糸 (えっ?!…… )
唇に触れた生まれて初めての感触。
柔らかくて、 フニッとしていて……。
一瞬の出来事に言葉を失って茫然としている糸に、 カイは色気のある瞳で甘ったるく囁く。
カイ「 糸、 キスの仕方も忘れたの? こういう時は目を瞑るんだよ」
糸 「あっ…… ごめんなさい」
糸が今更ながら慌てて目を閉じる。
その『キス顔』を見て、 カイが参ったという表情でガシガシと髪を掻く。
カイ 「くそっ、 ナチュラルに煽ってくるよな。 ああ、 もう! 」
じっと目を閉じていたら、 今度は後頭部に手を回され、 顔をぐっと引き寄せられた。
口づけてきたのはさっきと同じ柔らかい唇だったけれど、 今回は初めての時よりも長く、 そして熱を帯びていた。
数秒後にようやく唇を離すと、 カイは糸をギュッと抱きしめ、 耳元で苦しそうに呟く。
カイ 「ヤバい…… 舌を入れそうになった」
糸 「え…… えっ、 舌?! 」
カイ 「糸とのキスは…… やっぱり気持ちいいね」
糸 「気持ちっ!……」
ポポポッと顔が熱くなる。
カイは糸の肩を抱いてそっと身体を離すと、 クスッと笑う。
カイ 「どう? 何か思い出した? 」
糸 「えっ? あの…… まだ…… 」
カイ 「そうか、 残念。 とりあえず今日はここまでだな」
カイはガタッと音をさせて椅子から立ち上がる。
カイ 「このままここにいたら、 もっとイケナイ事までしちゃいそうだ。 気分転換に買い物に出掛けよう」
ニコッと見下ろしながら言った。
糸 「あっ…… うん」
糸 (今、 イケナイことって言った?! )
先に立ってドアへと歩き出したカイの背中を見ながら、 糸はそっと指で自分の唇に触れてみる。
糸 (私、 カイとキスしちゃったんだ…… )
大好きな人とのファーストキス。
それは嬉しくもあり、 反面、 嘘をついたままで交わされたことが切なくもある。
糸 (私はカイのことが好きだからキスをした。 だけど、 先生はどうなんだろう。 同情? それとも雰囲気に流されただけ? 私が記憶を戻したら…… このキスは無かったことにされるんだろうか)
カイ 「糸、 行くよ、 おいで」
糸 「あっ…… うん! 」
カイが差し出した左手をギュッと掴む。
糸 (だけど、 とりあえず今は…… このまま幸せに浸っていたい)