ウソキオ 〜 ウソのキオク喪失から始まる同棲生活〜
5、 恋人繋ぎに決まってる
◯ マンションのエントランス
エレベーターに乗り込みカイが1Fのボタンを押す。
糸 ( 凄いな…… 専用エレベーターだ)
カイ 「このエレベーターは27階から29階までの住人専用だけど、 カードキーを忘れたら使えないから気をつけてね」
糸 「はい」
カイ 「車で出掛けてもいいけど、 糸にこの辺りのことを覚えてもらいたいから、 今日は近所を散策してみようか」
糸 「はい」
エレベーターが1Fに到着し、 ドアが開くと、 目の前には白い大理石の廊下。 両側を挟んでいる大きな嵌め殺し窓から、 緑の庭を眺めながら真っ直ぐ進んでいくと、 いきなりだだっ広いグランドラウンジに出る。
そこには等間隔でソファーと丸テーブルが置かれていて、 一見すると、 まるで高級ホテルのラウンジを訪れているようだ。
カイが、 周囲をキョロキョロ見回していて数歩離れた糸に気付いて振り返り、 左手を差し出す。
カイ 「糸」
糸 「えっ? 」
カイ 「手。 繋いでないと糸が迷子になるから
糸 「この歳で迷子になんてなりませんよ」
クスクス笑いながらそう答えると、
カイ 「それじゃ…… 俺が繋ぎたいから手を握って」
糸 「えっ?! あっ…… はい 」
糸が指先を遠慮がちにそっと握ると、 カイが立ち止まって、 糸の右手をグイっと掴む。
そして糸の顔の前で糸の右手に自分の左手を重ねると、 そのまま指を開いて絡ませていく。
カイ 「恋人繋ぎに決まってるでしょ? 覚えておいてね」
糸 「…… はい、 分かりました」
顔をぽっと赤くしてコクリと頷いたら、
カイ 「まだ敬語が抜けないね。 今度それ言ったらキスするよ」
糸 「はい…… えっ、 キスですか?! 」
カイ 「言ったね」
間髪入れずにチュッとキスをして、 いたずらっ子のようにニヤリとしてから、 そのまま糸の手を引いて歩き出す。
糸 (こんなところでっ?!)
既にもうこれ以上赤くならないってくらい顔が赤かったのに、 今ので完熟トマト並みになった。
『恋人』状態のカイは予想を超えて甘過ぎる……。
玄関脇のカウンターに立っているコンシェルジュにお辞儀をされながら外に出ると、 カイは一旦立ち止まって糸を見た。
カイ 「そうだな…… 今日は疲れてるだろうから近場がいいね。 これからよく利用するだろうから、 駅やショッピングモールを覚えておこうか」
糸 「は…… うん! 」
糸 (またキスされるところだった! いや、 別に嫌ではないんだけど…… って、 いやいやいや! 私、 何考えてるの?! )
首をブンブンと横に振っていたら、 カイにクスッと笑われた。
糸 (全く誰のせいだと…… って、 こんな事態になってるのは私の嘘のせいか)
カイは周囲を指差しながら、 糸を案内していく。
カイ 「マンションのすぐ隣が24時間営業のコンビニ。 マンションの北側の通路からも直接行けるから、 急に必要な物があったらここに買いに来ればいい。 そこの角を右に曲がると川沿いの道に出る。 行くよ」
川を臨みながら北に歩いて行くと、 3分程で駅に着き、 その向こうに立体駐車場とモールの看板が見えた。
カイ 「入るよ」
◯ モール内
駅の通路の途中にあるエスカレーターで上に上がると、 そこにはブティックや雑貨のお店がズラッと並んでいる。
カイ 「糸は買いたいものはある? 」
糸 「ううん、 特に。 カイは? 」
カイ 「そうだな…… 糸のマグカップに、 糸のパジャマ。 あとは、 糸の下着…… 」
糸 「もうっ、 冗談ばっか! カイがそういうことを言う人だなんて知らなかった! 」
頬をプクッと膨らませ、 下から見上げてそう言ったら、 カイは人差し指で頬を掻きながらちょっと困ったような顔をして、
カイ 「糸といる時の俺なんて…… こんなことばっか考えてるよ」
糸 (こんなことってどんなコト?! )
お互いに頬を染めて恥ずかしがりながら、 それでも楽しくお店を見て回っていった。
◯ モール内のレストラン
外を見渡せるガラス張りのオシャレなレストラン。
窓際の2人掛けテーブルに2人で向かい合って座っている。
カイの前には食後のコーヒー、 糸の前にはアイスティーとデザートの『バニラアイスのいちじくコンポート添え』がある。
糸 「ご馳走様でした。 食後のデザートまでいただいちゃって…… それと、 今日はいろいろ買っていただいてありがとうございました」
カイ 「うん、 いいのがあって良かった」
糸 「それにしても凄いね。 ここで買った品をマンションまで届けてもらえるなんて」
カイ 「うん、 マンションと提携してるんだよ。 マンションのカウンターで受け取ってもいいし、 コンシェルジュに言えば、 部屋まで届けてもらうことも出来る」
糸 「マンションの目の前にはバス停があるし、 駅やモールもこんなに近く。 なんだか楽ばかりして太っちゃいそう」
カイ 「だったらマンションのプールで泳げばいいし、 なんならフィットネスルームで汗をかいてもいい」
糸 「本当にマンションの中だけで生活出来ちゃいそう。 引きこもりにならないように気をつけなきゃ! 」
カイ 「俺は糸と2人で部屋に引きこもっても一向に構わないけどね」
糸 「もっ、 もう! またそういう事を言う! 」
照れながらストローを持ってアイスティーを口にする。
糸 「それにしても…… 本当に良かったの? 全部払ってもらっちゃって。 なんだか申し訳なくて…… 」
カイ 「うん、 いいの、 俺が買いたかったんだから。 糸とお揃いの歯ブラシにお揃いのパジャマっていうのがずっと夢だったんだ」
糸 「夢?! 」
カイ 「うん。 早く一緒に住みたいと思ってた。 やっと叶った」
テーブルに片手で頬杖をつきながら、 カイがジッと糸を見つめてくる。
その瞳はどこまでも甘くて柔らかい。
糸 (そんな風に…… まるで大切な宝物を見るような視線を向けられると……勘違いしてしまいそうになる)
糸 「なんだか本当の恋人同士みたい…… 」
思わずポロリと本音が溢れた。
ハッとした糸を見て、 カイが眉を下げて切なげな顔になる。
カイ 「本当の恋人だよ。 俺は本当に本当に君のことが大好きで、 君も俺のことを好きだと言ってくれて…… 本当に嬉しかったんだ」
遠くを見つめて、 何かを懐かしむような目をしている。
糸 (カイは一体何を考えているんだろう。 私がずっと記憶が戻らないフリを続けていたら、 このまま責任を取って一生私といるつもりなんだろうか)
ストローでグラスの中をかき混ぜると、 氷がカランと軽い音を立てた。
糸 (ごめんなさい…… それでも私は、 カイと一緒にいたいです。 振った相手と一緒にいるのは不本意かも知れないけれど、 あなたに好きになってもらえるよう頑張らせて下さい! )
***
◯ カイのマンションのリビング
ソファーの近くには沢山のショッピングバッグ。
カイがドサッとソファーに座り込む。
ソファーの背もたれに腕をかけながら、 後ろの糸を振り返って声を掛けた。
カイ 「糸、 疲れただろう。 シャワーでも浴びてきたら? 」
糸 「えっ? はい…… シャワー?! 」
壁に掛かった薔薇モチーフのアンティーク時計をちらりと見ると、 時刻は午後8時40分。
カイ 「今、 バスタブにお湯を張ってるから、ゆっくり浸かっておいで。 シャワーの使い方は…… 」
糸 「あっ、あの、 大丈夫です! 見たら分かると思うんで! 着替えを取ってきます! 」
カイ 「あっ、 ちょっと待って! あれを着てよ、 今日買ったパジャマ」
糸 「えっ? 」
メインベッドルームに向かおうとする糸を呼び止めて、 カイが買い物してきた品をガサゴソ漁っている。
カイ 「あった! はい、 これ」
カイが差し出したのは、 さっき買ってきたばかりのシルクのパジャマ。
光沢のある柔らかい生地のそれは、何の飾り気もないシンプルなもので、 2人で同時に気に入って、 速攻で購入したものだ。
糸のは白色、 カイは黒……。
その白色のパジャマを差し出されて、 糸はおずおずと手に取る。
カイ 「湯上りのパジャマ姿、 楽しみだな」
そう言われて顔を真っ赤にしながら、 糸はバスルームへと向かった。
◯ バスルーム
タオル一枚で前を隠して、 糸がバスルームに入ってくる。
シャワーヘッドを見上げ、 それからシャワーのハンドルに目をやる。
糸 「えっと、 ここを回すのかな? えっ 違う。 押すの? 」
いじっているうちにシャワーから勢いよく冷水が降ってくる。
糸 「キャーーーーッ! 」
カイ 「糸、 どうしたの? 」
もくもくと湯気が立ち上る中に、 勢いよく飛び込んでくるカイ。
糸 「急に水が出てきて…… 」
バスルームの床にしゃがみ込んでいる糸の上に、 今もまだ冷水が降り注いでいる。
カイは自分が濡れるのも構わずシャワーを止めに入った。
カイ 「ああ、 このシャワーは…… っ! 」
シャワーを止めたカイは、 今更のように、 糸がタオルで前を隠しただけの状態であることに気付き、 顔を赤くして、 右手の甲で口を押さえた。
見下ろした視線の先には、 しゃがみ込んだ背中のなだらかなラインと、 その先の桃のような丸み。
片手で簡単に抱きすくめられそうな細い腰と、 その下の膨らみの対比が欲情をそそって……。
惚けた顔で見ていたカイが、 我にかえって首を振る。
カイ 「あっ…… バスローブ! バスローブを取って来るから! 」
糸 「いえっ、 あのっ! お湯に入って暖まるので! 」
糸の声に振り返ったカイの目に飛び込んできたのは、 カイを追って立ち上がった糸の、 あられもない姿。
糸のタオルは濡れて、 その下の身体のラインも肌の色も透けて見えている。
糸 「…… あっ! 」
糸もその事実に気付き、 クルッと背中を向け、 身を縮める。
ビクッ!
後ろから抱きしめられ、 肩をすくめる糸。
そして、 その耳元に唇を寄せ、 カイが苦しそうに顔を歪めていた。
カイ 「…… ったくキミは…… 無防備すぎる。 俺がせっかく紳士でいたいと思っているのに…… 」
糸は目を閉じると、 回されたカイの両手にそっと自分の手を重ねる。
糸 「カイ…… いいよ」
カイ 「えっ?! 」
糸 「私は…… カイが紳士じゃなくたっていい」
バスタブから溢れ出したお湯が、 2人の足元をザッと濡らしていった。