ディモルフォセカの涙
 彼方が音大に通う意味をなくしたのは、交通事故で絹子伯母さんを亡くし、そして左手に深い傷を負ったから。

 あの頃の彼方はこの世に絶望し、来る日も来る日もベッドに横たわり、窓の外ばかりをボーッと眺めていた。

『カナタ、入るよ』----開け放つ扉の向こうには、静寂だけが在る。

 彼方の部屋はいつも、外まで音楽が漏れ、彼方が弾くギターの音色が響いていたのに。

 あんなにも音で溢れていた空間が、今では嘘のように静まりかえる。

『……』----私がかける声に、返答のない日々はずっと続いた。

 いつここへ来ても、同じ場所、壁側に放置されたままギターは並ぶ。開けたことさえ忘れられたギターケースには、薄汚れた手作りウサギのマスコット。

 動かない時に支配されたこの場所で、彼方を一人きりにはできなくて、私はここに泊まる日もあった。

----そんなある日、季節は、春も深まる頃。

 いつものように彼方の元へと向かい、窓側にぴったりと寄せてお布団を敷く私は、いつものように彼方に話しかけた。


「カナタ、寒いから窓閉めるよ」


----私は毎日、どんなに遅くなっても彼方の元へ行き、彼方が見つめ続けるその窓をバタンと勢いよく閉め、鍵をかけ、ぴったりとカーテンを引く。


「電気、消すね

 おやすみ、カナタ」


 真っ暗な室内----彼方が眠るその時まで私は眠ったふりを続ける。
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