私、愛しの王太子様の側室辞めたいんです!【完(シナリオ)】
番外編
例えば家庭教師(連載1周年記念SS)
「お嫁さんとお菓子職人の他にやりたい事ってなかったの?」
まだ柔らかい午前の日差しの中、城の調理場に遊びに来ていたユリシーズは何気なしに聞いた。質問を投げかけられた本人は、モグモグとフィナンシェを頬張っている。お菓子作り途中のつまみ食いだった。
「うーん……、思いつかなかったわ……」
「ああ、やっぱり……」
お行儀良く飲み込んでから答えたローズマリーに、ユリシーズは驚きもなく微笑んだ。そして手元のフィナンシェを摘んで、その甘さにほんの少しだけ眉を寄せる。
そんな2人の様子を、調理場の隅からブラッドは微笑ましそうに眺めていた。隅に控えているはずなのに、体格のせいで圧倒的に存在感がある。
しばしの間、真剣に考え込んでいたローズマリーだったが、いきなり顔を輝かせた。
「そうだわ!他なら家庭教師なんてどうかしら?」
一瞬、その場に不自然なまでの沈黙が降りた。
一番早く復活したユリシーズが口を開く。ローズマリーの肩にそっと手を置いた。珍しく神妙な面持ちで。
「ローズマリー……」
「な、何……?」
奇妙な空気になった事を察したローズマリーは、たじろぎながらも返事をする。
「たぶん多くの人が一瞬想像しただろうけど……」
「そうなの?」
「誰も提案しなかったんだよね。結果が分かりきっているから」
「そこまでなの?!」
一瞬安心したような表情を見せたローズマリーだったが、ユリシーズのあんまりな言葉に頭を抱えた。
「わ、私だって……、しっかり勉強してきたもの!人に教えるくらい出来るわよ!」
「そうだね……。ローズマリーは何故か勉強は出来るからね……」
「何故かってどういうことよ?!」
遠い目をするユリシーズに突っ込んだローズマリーは、クルリと調理場の隅のブラッドへと向く。
「そうだ!ブラッドにいつもお菓子作りを教わっているから、今度は私がブラッドに勉強を教えるわ!」
「……えっ?」
厄介事が、ブラッドに被弾した。
「――こうやって、この条件の時はこうだから、こうすると、この式の解はこの答えになるの」
急遽開催されたお勉強会で、ブラッドは遠い目をした。手元には分厚い数学の本。字も細かく、目は良いはずのブラッドですら瞬きを繰り返しながらではないと読みにくい。
「……薄々気付いていましたが、全然分かりませんね。元々基礎学校時代でも私は遊び呆けているタイプでしたし……」
頬をかきながらブラッドは苦笑いをする。それにフォローをしたのは、ローズマリーではなかった。
「気にする事はないよブラッド。指示語が多いのは勿論だけど、今の式、ローズマリーは途中式を幾つかすっ飛ばしていたから」
ブラッドの隣でお勉強会に参加しているユリシーズもまた、遠い目をしていた。
「あと……問題が、非常に初心者向けではないというか……」
「な、なるほど……」
普段は優秀な自国の王太子のリアクションに、ブラッドは珍しいと思いつつも、納得する。確かに本の内容からして、複雑そうで基礎学校では習うようなものではない。当のローズマリーは「えっ?!そうなの?!」と、食い入るように本の中身を確認する。
「問題選びが駄目だったのかしら……?」
「これだから天才肌は……」
ローズマリーの見当違いの疑問に、ユリシーズは頭を抱えた。
「……ブラッド。昔からローズマリーはこんな調子なんだ。何故か重要な途中式を勝手に頭の中で処理してしまって、話さないから、ローズマリー自身では分かりやすく説明しているつもりでも……、相手にとっては何を言っているのか分からない」
「……ああ!途中式すっ飛ばして、答えだけ書いちゃうタイプですか?」
「そうそう」
クラスに1人はいましたよね、とブラッドはぼんやりと思い出しながら続けた。基礎学校に通っていないユリシーズは、イマイチ分からずに不思議そうな表情になったが。
「しかもローズマリーは、解の無い問題もちゃんと正解するんだよね……」
「ユリシーズ様はちゃんとコツコツ途中式書くタイプよね」
「数学は途中式が大事なんだよ……」
ユリシーズが深い息をつきながら、ペンを手に取った。そして、ローズマリーが書いた式に付け加える形で途中式を嵌め込んでいく。そこでブラッドはようやく、ローズマリーの言いたい事が何となく分かってきた。
「……ああ。なるほど。こういう条件でしたか」
「そうそう。省略のし過ぎなんだよね」
すぐ隣から、ブラッドの手元にある問題用紙に記入をするユリシーズ。伏せられたまつ毛まで金色、中性的に美しい王太子の顔が間近にある事に気付いて、ブラッドは固まった。心無しか大きな体が縮こまる。
「つまり途中式も書けば、ブラッドも分かるという事よね?」
2人の向かいに座っていたローズマリーが、身を乗り出すようにしてユリシーズの手元を見る。長いまつ毛は緩く上を向き、新雪のように真っ白な肌がほんの僅かに色付いているのが分かって、ブラッドはさらに固まった。巨体が気持ち分、また小さくなる。
王太子と第一側室――それも、王太子妃に一番近い人物から勉強を教えて貰っているこの状況。贅沢が過ぎる。少なくとも、一介の菓子職人が体験していいものでは無い。
正気に返ると、今まで見えなかった初歩的な事にも気付けるというものである。
「……そういえば、ローズマリー様が家庭教師になったとして、誰に教える事になるのでしょうか?」
元公爵令嬢、王太子の唯一残された側室。身分が低いと教えて貰う側が恐縮してしまう事になるだろう。ローズマリーの身分が高すぎる。
ブラッドはその場の空気に流されただけなので、ノーカンで、と心の中で言い訳をした。
「……え?誰だろう……。王族になるのかしら?」
「家庭教師を付けるような年齢の王族は今居ないよ」
「そうよね……。一番可能性があるとしたら、ユリシーズ様の将来のお子様とかになるのかしら?」
「へえ?」
ユリシーズは笑みを浮かべて、ローズマリーの手首を掴んだ。
「それは僕に頑張れと言っているのかな?」
ガッチリと手を掴まれたローズマリーは、ユリシーズが言わんとするところを悟って顔を真っ赤に染める。慌てて首を横に振った。
「違う!違うの!そういう意味じゃないわ!」
そしてブラッドの方へと手を伸ばす。
「ブラッド……、助けて!」
「私はフィナンシェを追加で焼いてきますね」
ローズマリーのSOSを華麗にスルーして、ブラッドは立ち上がった。ちなみにフィナンシェはまだ山ほどあったりするのだが。
「なんで無視するのよ?!」
行き場の失くした手をそのままにしていると、ユリシーズに取られる。
「なんで僕以外の男を頼っているの?
――ローズマリーは男心が分かっていないね」
ローズマリーの手の甲にキスを落としながら、ユリシーズは爽やかに微笑んだ。その笑みを見たローズマリーの顔から、冷や汗がダラダラと滝のように流れる。
「ち、違うの!そうじゃなくて……っ!」
あれよあれよという間に連行されていくローズマリーを見送りながら、ブラッドは思った。
これは本当に、ユリシーズの子供に教えるのが、1番現実的でだいぶ早そうだ、と。
まだ柔らかい午前の日差しの中、城の調理場に遊びに来ていたユリシーズは何気なしに聞いた。質問を投げかけられた本人は、モグモグとフィナンシェを頬張っている。お菓子作り途中のつまみ食いだった。
「うーん……、思いつかなかったわ……」
「ああ、やっぱり……」
お行儀良く飲み込んでから答えたローズマリーに、ユリシーズは驚きもなく微笑んだ。そして手元のフィナンシェを摘んで、その甘さにほんの少しだけ眉を寄せる。
そんな2人の様子を、調理場の隅からブラッドは微笑ましそうに眺めていた。隅に控えているはずなのに、体格のせいで圧倒的に存在感がある。
しばしの間、真剣に考え込んでいたローズマリーだったが、いきなり顔を輝かせた。
「そうだわ!他なら家庭教師なんてどうかしら?」
一瞬、その場に不自然なまでの沈黙が降りた。
一番早く復活したユリシーズが口を開く。ローズマリーの肩にそっと手を置いた。珍しく神妙な面持ちで。
「ローズマリー……」
「な、何……?」
奇妙な空気になった事を察したローズマリーは、たじろぎながらも返事をする。
「たぶん多くの人が一瞬想像しただろうけど……」
「そうなの?」
「誰も提案しなかったんだよね。結果が分かりきっているから」
「そこまでなの?!」
一瞬安心したような表情を見せたローズマリーだったが、ユリシーズのあんまりな言葉に頭を抱えた。
「わ、私だって……、しっかり勉強してきたもの!人に教えるくらい出来るわよ!」
「そうだね……。ローズマリーは何故か勉強は出来るからね……」
「何故かってどういうことよ?!」
遠い目をするユリシーズに突っ込んだローズマリーは、クルリと調理場の隅のブラッドへと向く。
「そうだ!ブラッドにいつもお菓子作りを教わっているから、今度は私がブラッドに勉強を教えるわ!」
「……えっ?」
厄介事が、ブラッドに被弾した。
「――こうやって、この条件の時はこうだから、こうすると、この式の解はこの答えになるの」
急遽開催されたお勉強会で、ブラッドは遠い目をした。手元には分厚い数学の本。字も細かく、目は良いはずのブラッドですら瞬きを繰り返しながらではないと読みにくい。
「……薄々気付いていましたが、全然分かりませんね。元々基礎学校時代でも私は遊び呆けているタイプでしたし……」
頬をかきながらブラッドは苦笑いをする。それにフォローをしたのは、ローズマリーではなかった。
「気にする事はないよブラッド。指示語が多いのは勿論だけど、今の式、ローズマリーは途中式を幾つかすっ飛ばしていたから」
ブラッドの隣でお勉強会に参加しているユリシーズもまた、遠い目をしていた。
「あと……問題が、非常に初心者向けではないというか……」
「な、なるほど……」
普段は優秀な自国の王太子のリアクションに、ブラッドは珍しいと思いつつも、納得する。確かに本の内容からして、複雑そうで基礎学校では習うようなものではない。当のローズマリーは「えっ?!そうなの?!」と、食い入るように本の中身を確認する。
「問題選びが駄目だったのかしら……?」
「これだから天才肌は……」
ローズマリーの見当違いの疑問に、ユリシーズは頭を抱えた。
「……ブラッド。昔からローズマリーはこんな調子なんだ。何故か重要な途中式を勝手に頭の中で処理してしまって、話さないから、ローズマリー自身では分かりやすく説明しているつもりでも……、相手にとっては何を言っているのか分からない」
「……ああ!途中式すっ飛ばして、答えだけ書いちゃうタイプですか?」
「そうそう」
クラスに1人はいましたよね、とブラッドはぼんやりと思い出しながら続けた。基礎学校に通っていないユリシーズは、イマイチ分からずに不思議そうな表情になったが。
「しかもローズマリーは、解の無い問題もちゃんと正解するんだよね……」
「ユリシーズ様はちゃんとコツコツ途中式書くタイプよね」
「数学は途中式が大事なんだよ……」
ユリシーズが深い息をつきながら、ペンを手に取った。そして、ローズマリーが書いた式に付け加える形で途中式を嵌め込んでいく。そこでブラッドはようやく、ローズマリーの言いたい事が何となく分かってきた。
「……ああ。なるほど。こういう条件でしたか」
「そうそう。省略のし過ぎなんだよね」
すぐ隣から、ブラッドの手元にある問題用紙に記入をするユリシーズ。伏せられたまつ毛まで金色、中性的に美しい王太子の顔が間近にある事に気付いて、ブラッドは固まった。心無しか大きな体が縮こまる。
「つまり途中式も書けば、ブラッドも分かるという事よね?」
2人の向かいに座っていたローズマリーが、身を乗り出すようにしてユリシーズの手元を見る。長いまつ毛は緩く上を向き、新雪のように真っ白な肌がほんの僅かに色付いているのが分かって、ブラッドはさらに固まった。巨体が気持ち分、また小さくなる。
王太子と第一側室――それも、王太子妃に一番近い人物から勉強を教えて貰っているこの状況。贅沢が過ぎる。少なくとも、一介の菓子職人が体験していいものでは無い。
正気に返ると、今まで見えなかった初歩的な事にも気付けるというものである。
「……そういえば、ローズマリー様が家庭教師になったとして、誰に教える事になるのでしょうか?」
元公爵令嬢、王太子の唯一残された側室。身分が低いと教えて貰う側が恐縮してしまう事になるだろう。ローズマリーの身分が高すぎる。
ブラッドはその場の空気に流されただけなので、ノーカンで、と心の中で言い訳をした。
「……え?誰だろう……。王族になるのかしら?」
「家庭教師を付けるような年齢の王族は今居ないよ」
「そうよね……。一番可能性があるとしたら、ユリシーズ様の将来のお子様とかになるのかしら?」
「へえ?」
ユリシーズは笑みを浮かべて、ローズマリーの手首を掴んだ。
「それは僕に頑張れと言っているのかな?」
ガッチリと手を掴まれたローズマリーは、ユリシーズが言わんとするところを悟って顔を真っ赤に染める。慌てて首を横に振った。
「違う!違うの!そういう意味じゃないわ!」
そしてブラッドの方へと手を伸ばす。
「ブラッド……、助けて!」
「私はフィナンシェを追加で焼いてきますね」
ローズマリーのSOSを華麗にスルーして、ブラッドは立ち上がった。ちなみにフィナンシェはまだ山ほどあったりするのだが。
「なんで無視するのよ?!」
行き場の失くした手をそのままにしていると、ユリシーズに取られる。
「なんで僕以外の男を頼っているの?
――ローズマリーは男心が分かっていないね」
ローズマリーの手の甲にキスを落としながら、ユリシーズは爽やかに微笑んだ。その笑みを見たローズマリーの顔から、冷や汗がダラダラと滝のように流れる。
「ち、違うの!そうじゃなくて……っ!」
あれよあれよという間に連行されていくローズマリーを見送りながら、ブラッドは思った。
これは本当に、ユリシーズの子供に教えるのが、1番現実的でだいぶ早そうだ、と。