キスからはじまるエトセトラ
1、 ファーストキスを奪った責任取れよ

◯ 病院の病室

白いベッドの上で、 月白楓花(つきしろふうか)がまどろみながら薄っすら目を開けると、 ぼんやりした景色の中心に、 大好きな初恋の人、 柊天馬(ひいらぎてんま)の顔があった。


楓花 ( えっ、 天にい? まるで夢みたい……あっ、 これは夢か…… )

まだ意識が朦朧(もうろう)としている。 楓花は軽い頭痛を感じて、 少しだけ顔をしかめた。


天馬が目を細め、 大きな手で、ゆっくりと楓花の頭を撫でている。 彼女の顔にかかった髪を何度も優しく()いて、 そのままその手を頬へと移す。

顔を近づけて、最初におでこに軽いキス。
次に左の頬、 そして最後に唇に口づけると、 離れる瞬間にチュッという音がした。


楓花が薄っすら目を開けているのに気付くと、 天馬は顔を離して優しく微笑む。


天馬 「まだ寝てろ。 麻酔が抜けてない」

そう言って、 大きな手のひらで瞼を閉じられた。


楓花 ( そうだね…… まだ…… 眠い……。もう少しだけ、 この素敵な夢の続きを見ていよう…… )

楓花は、 病院独特な消毒の匂いに混じったほんのり漂う石鹸の香りに包まれながら、 もう一度深い眠りに落ちていった。


***


楓花が目を覚ますと、 まず最初に、 見慣れない真っ白な天井が目に飛び込んできた。


楓花 (あれっ? 私、 昨日お腹が痛くなって、 それから…… )

寝たままの姿勢で、 首から上だけをキョロキョロさせて周囲を見回すと、 どうやらここが病室らしいと気付いた。


窓から差し込む光が目に眩しい。

楓花 (今は何時なんだろう? )


その時、 病室のスライドドアがスーッと開いて、 見慣れた顔が入ってきた。


楓花 「茜ちゃん! 」

ガバッと起き上がろうとして、 「イタタタタッ!」と顔をしかめる楓花を、 茜が優しくベッドに横たえ、 布団を掛けてくれた。


茜 「急に動いちゃ駄目よ。 まだ手術してから半日しか経ってないんだから」

楓花 「手術? 何の?! 」

茜 「盲腸(もうちょう)だって。 もう、 ビックリしたよ〜! 心配して様子を見に行ったら、 部屋の前の廊下で倒れてるんだもん。 めちゃくちゃ焦ったわよ。 すぐに救急車を呼んで、 お向かいの『(ひいらぎ)胃腸科』に運んだの」


楓花 ( それじゃあ、 私は、 昨日あれから柊胃腸科病院で知らないうちに盲腸の手術を受けて、 今は入院中ってわけ?! )


***


<< 楓花の回想 >>

ーー 私は高校卒業後、 地元の名古屋を出て、 東京の短大に進学した。

大学で熱心に講義を受けている楓花。


ーー 短大卒業後はそのまま東京に残り、 保育園で保育士として働いていた。


◯ 保育園の園庭


園児 : 翔 「せんせー、 健太くんが噛んだ〜! 」

楓花 「えっ、 健太くんが?! 」

楓花が翔の右腕を見ると、 くっきりと歯型がついている。


楓花 ( ああ、 まただ。……ちゃんと見てたつもりだったのに…… )

健太の父親との会話を思い浮かべる楓花。


健太父は30台前半のイケメン。
保育園で話している健太父と楓花。


健太父 『 それではよろしくお願いします。 お恥ずかしい話ですが、 妻との離婚の際にはかなり揉めまして…… そのストレスからか、 健太に噛み癖がついてしまったようで…… 」

楓花 『噛み癖…… ですか』

健太父 『はい。 前に通っていた保育園でも、 それでトラブルになりました。 今は僕の実家に引っ越してきたばかりなので、 健太が新しい生活に馴染むまでご迷惑をお掛けすると思いますが、 よろしくお願いします」



楓花は健太の父親の言葉を思い出し、 翔の前にしゃがみ込むと、 彼の頭を撫でながら言った。


楓花 「噛まれて痛かったね。 これから消毒してガーゼを貼るね。 健太くん、 翔くんに謝ろうか」

健太 「嫌だ! そいつがいつまで待っても砂場のスコップを貸してくれないから…… 」


お迎えに来た翔の母親に事情を説明する楓花。

楓花 「目を離して本当に申し訳ありませんでした」

園児の母親 「ホント、 ちゃんと見ててもらわないと困るわよ! 健太くん、 この前も他の子を噛みましたよね。 恐ろしい! うちの子には全く非が無いのにこんな怪我させられて…… どう責任取るつもり?! 」

楓花 「本当にすいませんでした。 でも、 健太くんも新しい環境で精神的に落ち着いてないんだと思います。 今日はスコップを翔くんが貸してくれなかったようで、 それで腹を立てて…… 」

園児の母親 「責任転嫁? だから若い先生って嫌なのよ」

楓花 「えっ?! 」

園児の母親 「トラブルの対処もちゃんと出来ないし、 若い父親に色目使うことばかり考えて、 園児の贔屓(ひいき)をして…… 」


ーー その母親が園児の保護者の中心的存在だったため、 これをきっかけに、 母親たちの陰口が始まった。

これ見よがしに嫌味を言われたりヒソヒソ話をされたり。
挙げ句の果てには地域のコミュニティーサイトに楓花の誹謗中傷の投稿までされるようになった。


『バツイチの父親に色目を使っている』
『若いだけが取り柄で頼りない』
『園児のえこ贔屓をする』
『危なっかしくて安心して子供を預けられない』


そのうちに、 仕事に行こうとすると胃痛がするようになってきた。
それがどんどん酷くなると、 食欲が落ち、 吐き気もするようになった。

病院で検査しても異常は見られず、 精神的なものだろうと言われた。

休職して家で静養して、 2ヶ月程で症状が治まったものの、 今度は怖くて職場復帰できなくなった。

そのまま退職して家で引きこもっていたところに、 母親が訪ねてきて言った。


母 「 楓花、 名古屋に帰ってらっしゃい。 お父さんの転勤で、 お母さんたち神奈川に行くことになったの。 帰っておじいちゃんのお店を手伝ってくれない? 」

楓花 ( 家に帰る…… それもいいかも知れない。 ここで引きこもっているよりは )


ーー そして実家に帰ってきた私は、 祖父母の喫茶店でお手伝いを始めることになったのだけど、 帰ってきたその翌日……。


◯ 喫茶 『かぜはな』

喫茶店の奥で洗い物をしていた楓花がお腹を押さえて顔をしかめる。

楓花 「…… 痛っ」

茜 「楓花ちゃん、 どうしたの? やっぱりまだ胃が痛むんじゃ…… 」

楓花 「そうなのかな…… もう治ったと思ってたのに 」

茜 「昨日帰ってきたばかりで疲れてるんだよ。 お店はもういいから、 部屋に戻って休んでたら? 」

楓花 「ありがとう。 そうさせてもらうね」


◯ 楓花の部屋

自分の部屋のベッドで背中を丸めて横になっている楓花。
お腹を押さえ、 額には脂汗。


楓花 ( どうしよう…… どんどん痛みが酷くなっていく気がする)

机の上の時計を見ると、 針は午後7時半を指している。


楓花 ( 喉が渇いた…… 。 お店が終わるまで、 あと30分…… みんなには迷惑を掛けられない )


のろのろとベッドから起き上がり、 前かがみになりながらゆっくり部屋から出たところで…… 目の前が真っ暗になり、 意識を手放した。


<< 回想終了 >>


***

◯ 再び病室

楓花 「今って何時? 」

茜 「午前11時過ぎ。 楓花ちゃんがぐっすり眠ってたから、 私は入院セットを取りに一旦家に帰って、 今戻ってきたところ」


茜はベッドサイドに置いていた袋から歯ブラシとコップ、 ヘアブラシや楓花の着替えを取り出しながら言う。


楓花 「迷惑かけてごめんね。 大輝(たいき)の送迎やお兄ちゃんのお世話があるのに。それにお店の方だって…… 」


茜 「コラ! 迷惑なんて言わないの! 義姉(あね)が入院中の義妹(いもうと)のお世話をするのは当たり前! 大輝は大河(たいが)が出勤ついでに保育園に送ってったし、 お店はおじいちゃんとおばあちゃんがいるから大丈夫。それに、 うちの家とここはお向かいさんなんだから、 行ったり来たりも楽勝よ! 」

茜はウインクしながらそう言うと、 出した荷物をテキパキと床頭台(しょうとうだい)の引き出しに片付けていく。


楓花 「うん、 茜ちゃん、 ありがとう」

茜 「 まあ、 天馬が言うには、 傷口も小さいし、 もう体も動かしていいんだって」


楓花 (天馬 …… 天にい?! )

楓花は今度こそガバッと完全に体を起こして茜を見た。


楓花 「天にいが…… この病院にいるの?! 」

茜 「いるって言うか…… 楓花ちゃんの手術をしたのはアイツだから」

楓花 「嘘っ! 」


茜「ハハッ、 ほんとホント。 救急車を出迎えた時の天馬の顔ったら! 私も大河も高校の時からアイツを知ってるけどさ、 あんなに焦った顔は初めて見たわ〜 」


楓花 (天にいが、 私の手術を…… って、 裸を?!)

嬉しいと同時に、 無防備な姿を見られたと思うと顔が熱くなる。



茜 「…… と言うわけで、 天馬が後は任せていいって言うから、 私はもう行くね」

楓花 「えっ?! 」


茜 「天馬が後で様子見に来るって。 それじゃあ、 私はお店に戻るから、 何かあったら電話して。 お大事にね! 」

楓花 「あっ、 ありがとう! 」


茜はニッコリと手を振りながら出て行った。


楓花 ( 病院か…… だから無意識に、 天にいの夢を見てしまったのかも知れない。 ううん、 こっちに帰って来ると決めてから、 ずっと天にいの事を考えてたから…… )


その時、 病室のドアがコンコンとノックされた。

楓花がハッとしたように病衣の襟元を合わせ、 髪を撫で付けて身だしなみを整えていると、 スライドドアが開き、 白衣姿の男性が現れた。


高身長にスラッとした長い足。 顎の尖った小さな顔に、 少し吊り上がった猫のような目。 薄くて形の良い唇は、 あの頃と変わっていなくて……。

楓花 ( ううん、 あの頃よりも、 もっと大人びて素敵になっている。 私が想像していた以上に )


楓花 「天にい…… 」

天馬はベッドサイドのパイプ椅子に座ると、 楓花の額に手を当てた。

天馬 「うん、 熱はなさそうだな」

そして楓花の顔をじっと覗き込んで、 ニコッと微笑む。


天馬 「ガスは出たか? 」
楓花 「えっ、 ガス? 」

天馬 「オナラだよ。 俺が主治医なんだから、 隠さずに報告しろよ〜 」

真っ赤になった楓花に向かってニヤニヤしながら言う。


天馬 「腹腔鏡(ふっくうきょう)を使ったから傷口も殆ど目立たなくなる。 嫁に行っても大丈夫だぞ」


楓花 (嫁…… )

その言葉に胸がズキンと痛む。


天馬 「今日にでも退院していいんだが、 どうせお前、 暇なんだろ? 2〜3日入院してゆっくりしていけよ」

楓花 「でもここ、 個室で…… 」


天馬 「大丈夫、 個室は俺が手配したんだ…… 茜から聞いたよ。 向こうで大変だったんだな。 お前は頑張った。 もう無理しなくていいから、 ゆっくり心身のリハビリをすればいい。 俺も手伝ってやるから、 遠慮なく頼れ」


優しく頭をポンポンとされて、 涙腺が緩む。

楓花 (うっ…… ずるい…… 大好きだった人にこんな風に優しくされたら…… )


ベッドの上で俯いたまま、 ポトリと涙を零すと、 いつのまにかベッドサイドに腰を下ろしていた天馬の胸に、 グイッと抱き寄せられた。


天馬 「大丈夫…… 大丈夫だ…… 」

その時、 フワッと漂ってきた石鹸の香りに、 楓花は覚えがあった。 それも、 ついさっき。


楓花 「石鹸の香り…… 」
天馬 「ああ…… 手術の後でシャワーを浴びたからな」


楓花がガバッと身体を離し、 天馬を見る。


楓花 「天にい…… さっき私にキスした? 」
天馬 「えっ? …… 」

最初は驚いた顔、 そしてニヤリとして……


天馬 「…… なんだ、 お前、 朦朧(もうろう)としてたと思ってたけど、 しっかり覚えてんのか」

楓花 「夢かと思ったけど…… っていうか、 ふざけてそういうことしないで下さい! ヒドイ! 軽すぎる! 」


楓花 (そりゃあ、 天にいは昔からモテてたから、 そういうことも簡単にするんだろうけど、 私は…… )



すると天馬が怒ったような真剣な表情で、 顔をズイッと目の前まで近づけて言う。


天馬 「それじゃあさ…… お前はどうなんだよ」
楓花 「えっ? 」


天馬 「お前も俺に断りなくキスしたよな」
楓花 「えっ?! あっ…… 覚えて?! 」


天馬 「ああ。 しっかりハッキリ覚えてるよ。 俺のファーストキスを奪われたんだからな」

楓花 「えっ、 ファーストキス?! 嘘っ! だって天にいは昔からモテモテで…… 」


天馬 「嘘なんかつくかよ。 しかも唇を奪っておいてヤリ逃げしやがって。 どう責任とってくれるの? 」

楓花 「責任……? 」


天馬は猫のような目をちょっと細めて、 楓花の耳元で囁いた。

天馬 「そう…… 俺のファーストキスを奪った責任、 取れよ…… 」


そう言うと、 楓花に口づけた。

楓花 ( 天にい、 これって…… )


顔を赤らめた楓花がぼ〜っとしていると、 体を起こした天馬が立ち上がって、 上から冷たく見下ろしてきた。


天馬 「お前ってさ…… 本当に酷い女だな」
楓花 「えっ? 」

天馬 「誰にでも簡単にキスさせてんじゃねえよ」
楓花 「違う! 私は…… 」


楓花の言葉を遮るように、「お大事に」とだけ告げると、 天馬は足早に病室を後にした。


ベッドの上には呆然とした表情の楓花だけが取り残されていた。

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