キスからはじまるエトセトラ
10、 もう始まってるんだ
◯ 楓花の部屋
楓花 「天にい…… どうして?! 」
楓花がガバッと起き上がると、 天馬はベッドにポスンと腰掛けて、 楓花の額に右手を当てた。
天馬 「熱は無さそうだな。 手術の痕は? お腹は痛くないの? 」
楓花 「…… 大丈夫」
楓花 (もしかして、 私の体調を心配して、 わざわざ?! )
楓花 「ありがとう。 心配掛けてごめんなさい。 大丈夫だから…… 」
天馬 「……大丈夫じゃないだろ? 」
楓花 「えっ?! 」
天馬 「俺に言うことは無いの? 」
楓花 「あの…… わざわざ来てもらって…… 」
天馬 「それだけ? 他には? 」
急に低い声音になり、 ジッと見つめてきた天馬の瞳には、 怒りと悲しみの色が混ざり合っていた。
天馬 「…… 椿に何を言われた? 」
楓花 「えっ、 どうして…… 」
楓花が驚きの声を上げると、 天馬は深い溜息をついてから、 ゆっくり口を開いた。
天馬 「茜から電話をもらったんだ。『椿さんが楓花ちゃんに会いに来た。 何か言われたみたいで様子が変だけど、 天馬絡みなんじゃないか、 どうなってるんだ』って」
楓花 「あっ! 」
会話が全部聞こえなかったにしても、 お店の中での出来事だ。 深刻な様子は丸分かりだったのだろう。
いくら私が平気なフリをしていたって、 茜ちゃんが心配しないはずは無いんだ……。
天馬 「『元カノの始末くらいちゃんとしろ! 楓花ちゃんを巻き込むな!』って叱られたよ」
苦笑しながらそう言う天馬に向かって、 楓花は布団の上で両手をギュッと握りしめながら項垂れる。
楓花 「…… ごめんなさい。 みんなに迷惑をかけて…… 」
天馬 「違うだろっ! 」
楓花がビクッとすると、 天馬は切なげに眉を寄せて、 楓花の手を握りしめた。
天馬 「大きな声を出して悪かった…… ただ、 今日のドタキャンが椿と関係あるんだとしたら…… それはつまり、 俺が関係してるんだよな? 」
楓花 「……。」
天馬 「俺には言いたくない? ……この前も言ったけど、 椿と付き合ったのはほんの短い間だけだったし、 俺が好きなのはずっと楓花だけだよ」
楓花 「好きじゃないのに……婚約して、 エッチまでしたの? 」
天馬 「えっ?! 」
楓花 「椿さんとはまだ会ってるんだよね? どうして嘘をつくの? ちょっと遊んでまた彼女に戻るつもりだったのなら…… もういいじゃん。 私をからかって充分楽しんだでしょ? 」
天馬 「ちょっと待てよ! からかうって…… 俺はようやくお前と付き合えると思って…… 」
楓花 ( こんな事は言いたくないのに…… こんなの思いっきり嫉妬じゃん! )
だけど言葉は止まらない。
楓花 「天にいにとって、 こういうのは普通なのかも知れないけれど…… 私は適当に遊ぶとか、 そういうのは出来ないから……」
天馬 「おいっ、 何言って…… 」
楓花 「本気になる前に…… まだ始まる前に気が付いて良かったよ」
天馬 「おいっ、 人の話を聞けよっ! 」
天馬にガッと肩を掴まれ顔を上げると、 彼の猫のような瞳が大きく見開かれ、 真剣に何かを訴えようとしていた。
楓花とようやく視線が合うと、 肩を掴む指にグッと力が籠り、 切なげに呟く。
天馬 「『始まる前に』なんて…… まだ始まってないみたいに言うなよ……。 俺ん中ではさ、 お前にキスされたあの瞬間から、 もうとっくに始まってるんだから…… 」
楓花 「えっ? 」
天馬 「お前にキスされて、 やっぱり諦めきれなくて…… そしたら今度は再会して、 両想いだって分かって……。 俺の気持ちはもう前に向かって走り出してるんだよ! 今さら止められるかよっ! 始まってないなんて言うなっ! 」
そのまま強く抱きしめられて、 胸が一杯になった。
楓花 (嬉しい。 だけど…… )
椿に言われた言葉が胸をよぎり、 背中に回そうとした手を止める。
そんな楓花の逡巡に気付いたのか、 天馬が手を緩め、 楓花の顔を覗き込んできた。
天馬 「椿に何て言われた? 1人で抱え込まずに教えて欲しい。 椿の言葉も、 お前の問いも迷いも怒りも、 全部受け止めて、 正直に答えるから」
その言葉を聞いて、 楓花の心は決まった。
楓花 ( どうして私は椿さんの言葉だけを鵜呑みにして、 天にいに確かめようとしなかったんだろう。 天にいがこんなに正直に向き合おうとしてくれてるのに…… 私が逃げてちゃダメだ)
楓花はコクリと頷いて、 途中で声を詰まらせながらも、 椿との会話を順に話していった。
楓花 「…… それで…… 私のせいで医局を去った天にいに、 何か与えてあげられるのか?…… って聞かれて、 私は何も答えられなくて…… 」
天馬は楓花の話に相槌を打ちながら黙って聞いていたが、 話が一通り終わると、「ハ〜ッ」と深い息を吐きながら、 片手で顔を拭った。
天馬 「楓花…… 今の話には、 合っている部分もあるけれど、 間違っている所も沢山ある」
楓花 「間違い? 」
天馬 「まず…… 婚約間近だったのは本当だ」
その言葉に楓花は顔を曇らせる。 胸がズキンと痛んだ。
天馬 「お前のことを諦めなきゃって思ってた時に椿と見合いをして、 お試しでの付き合いを提案されて……いい機会だと思ったんだ」
楓花 「私に彼氏がいると思ってたから? 」
天馬 「そうだ。 それに、 幼馴染のいいお兄ちゃんの座を失うのが怖かった。 だから、 無理にでも椿に気持ちを傾けようとした」
***
<< 天馬の回想 >>
◯ 居酒屋にて
4人掛けのテーブルで、 天馬と椿、 大河と茜が向かい合って座っている。
椿がトイレに立った隙に、 大河が言う。
大河 「お前が彼女を紹介してくれるなんて初めてだよな。 コレは真剣って事なの? 結婚とか考えてんの? 」
天馬 「まだソコまで話は進んでない。 でも、 始まりが見合いだしな…… このままって訳にはいかないよな。ちゃんとしないと…… 」
茜 「そうなんだ…… 私はてっきり…… 」
大河 「なんだよ茜、 なんか不満なの? 椿さん美人じゃん」
茜 「椿さんに不満があるとかじゃなくて…… 天馬、 本当にそれでいいの? 今、 幸せ? 」
大河 「おいっ、 何言ってんの? 意味わかんね〜 」
天馬 (幸せ……か。 でも、 しょうがないだろう? 本当に欲しいものは、 もう他の男のモノなんだ)
◯ 大学病院にて
廊下を歩いている天馬を呼び止める椿。
椿 「天馬、 今週末って忙しい? 」
天馬 「いや、 特に予定は無いけど」
椿 「それじゃあ、 うちに来てくれない? 両親が天馬に挨拶したいんだって。 ほら、 学生時代にみんなで遊びに来た事はあるけど、 お見合いしてからはちゃんと顔合わせしてないじゃない? 」
天馬 「…… ああ」
椿 「…… 逃げられなくなるのが怖い? 」
天馬 「そんな事は無いけど…… まだ俺たちってお試しだったよな? 」
椿 「そうは言ったけど…… まだ続いてるって事は、 天馬的にはアリだと思ってるって事よね? 父はあなたの事を気に入ってて、 病院を継いで欲しいと思ってるの。 私もあなたなら立派に院長を務められると思ってるわ。 大丈夫、 私たちはいいパートナーになれる」
そこを偶然通りかかった教授に話しかけられる。
教授 「やあ、 柊くん、 彼女と仲がいいのはいいが、 院内では程々にしてくれよ」
椿 「教授、 父が今度また同期で集まって飲もうって言ってましたよ」
教授 「ハハハッ、 君の父上とはこの前飲みに行ったばかりなんだけどな……。柊くん、 水瀬先生が、 君が婿に入ってくれれば将来安泰だって喜んでたよ。 それまではまだまだうちの医局で腕を振るってくれよ」
天馬 「…… はい」
天馬 (パートナー…… か)
◯ 水瀬家のリビング
椿の父 「いやぁ〜、 椿が天馬くんと見合いをしたいと言い出した時は、 どうなるかと思ったけどね、 ちゃっかり捕まえたもんだから、『でかした! 』って家内と大喜びしてね」
椿 「お父さんったら、 はしゃぎ過ぎよ」
椿の父 「それで、 結婚式はいつにするんだね? 」
椿の母 「まあ、 あなたったら急かし過ぎよ。 でも、 天馬くんなら大歓迎だわ」
椿の父 「まあ、 見合いっていうのはその先を見据えて付き合うって前提だからね。 とりあえず婚約だけでも済ませておいてはどうかね? 」
天馬 「はい…… そうですね」
天馬 (このままこの流れに乗ってしまっていいんだろうか…… 俺は…… 楓花を諦められるのか?)
<< 回想終了 >>
***
◯ 楓花の部屋
天馬 「椿との未来を考えなかった訳じゃない。 迷いはあったけれど、 それもいずれは吹っ切れて、 それなりに幸せな家庭を築けるんだろうとも思った。 だけど…… 」
天馬は楓花の肩に置いていた手をそっと下ろしていく。
肩からゆっくりと腕を伝って手首まで来ると、 そのまま楓花の手をギュッと握って、 真正面から顔を見つめた。
天馬 「今でもハッキリ覚えてる。 大河の結婚式の翌日、 お前が俺に会いに来た」
楓花 「あっ…… 」