音楽のほとりで
「緊張しちゃったわ」
ショパンのノクターンを弾き終えた敬子は、ふうっと息を吐いた。
そして、ゆっくりと鍵盤から手を離す。
「たしかに少しミスもありましたが、いつもの通りにとても丁寧に弾けてましたよ」
「あら、そう?」
そう、ぱあっと花びらが開くように敬子の表情は明るくなった。
「はい」
「桜ちゃんにそう言われるとやる気が出てくるわ」
2人のやりとりやその様子を、尚はじっと見ている。
桜の笑顔、生徒の笑顔、言葉……。
それを、脳裏に焼き付けるかのように見ていた。
そして、敬子の視線は尚に向く。
「私、ぜひ尚さんの演奏を聴いてみたいの。ダメかしら?」
「ええ、いいですよ。一曲なら」
「あら、ありがとう」
尚は、そう言うとソファから立ち上がりもう一台のピアノをセットして、椅子に座る。
鍵盤に指を乗せた。
流れてくるのは、優雅だけれど力強いショパンの英雄ポロネーズで、尚は時々桜を見ながらその曲を弾き終えた。
「やっぱり素晴らしいわね」
「ありがとうございます。ちょっと僕、外に出てきますね」
尚は、部屋から出て行く。
尚の姿が完全に見えなくなった時、敬子はそれでもなるべく小さめの声で桜にこう言う。
「告白された相手って、尚さんでしょう?」
「ええ、まあ」
「彼はとても素敵な人だと思うわ」
と、柔かな表情で敬子は桜にそう伝える。
「尚さんはまだ日本にいるのかしら?」
「あと半月ほどですね」
「それなら、今度のレッスンの時に今日のお礼を持ってこなくちゃ」
「そんなっ、大丈夫ですよ」
「いいのいいの」
敬子は、再びピアノに向かう。
先ほどよりも、いや、いつもよりも音が明るかった。
どこかに行っていた尚は、敬子のレッスンの最中に戻ってきた。
そして再び座り、音に耳を傾けている。
その後も、尚は最後まで桜のレッスンを見ていた。