音楽のほとりで
「そういえば僕、桜さんのピアノをまだ聴いたことありませんでしたね」
「たしかに、そうですね」
「ぜひ聴いてみたいです」
「ぜひ……と言いたいところですけど、恥ずかしいですねやっぱり」
「桜さんの好きな曲を弾いてくれればいいんですよ」
「私の好きな曲…………」
桜の頭の中に最初に浮かんだのは、シューマンの『トロイメライ』だった。
しかも、あのオルゴールのメロディで。
その音や音楽は、夕方のオレンジの空のように、美しさの中にどこか切なさを帯びている。
「桜さん?」
「好きな曲、何かなと考えてました」
本当は、尚とのあの日の出来事を思い浮かべていた、オルゴールをくれたあの日のことを。
桜は、小さい嘘を無意識に付いてしまう。
「それで、思い浮かびましたか?」
「ええと…………たくさんありすぎて絞れないですね」
何故だか、桜は『トロイメライ』のその名前を言わない。
「それじゃあ…………僕がリクエストしようかな」
「それもいいですね」
「ええと、それなら…………」
奏音は、腕を組んでその脳内で数あるピアノ曲を思い出している。
「今言うんですか?」
「はい、少しさらう時間も必要かなと」
「そうですね」
「ええと…………フランツ・リストの愛の夢なんてどうでしょう?」
「いい曲ですね」
「楽しみにしてます」