音楽のほとりで
「じゃあ……」
会話が途切れたところで、桜は黒く光っているピアノの蓋を開ける。
コトンと、深みのある音が聞こえてくる。
「リストの愛の夢、弾きます」
奏音は「はい」と言って、ソファに静かに座って桜の顔を見る。
ピアノに向かった桜の顔は、奏音が今までに見た中で1番凛々しかった。
奏音が見た、初めての桜の姿だった。
芯が強くて、簡単に折れることのない魂をその中に見る。
その雰囲気を持つ彼女の奏でる優雅なメロディが、空間を埋め尽くす。
奏音は思った。
桜は、誰を思い、何を思いこの曲を弾いているのだろうと。
奏音には、その愛の夢が切ないものに聞こえる。
言いたいのに言えない愛を、メロディに乗せて奏でる。
それは恐らく無意識のうちに行なっていて、本人でさえそれに気がつかない。
訪れるダイナミックな表現で、その膨れた愛は弾ける。
ぱあんと、空気を入れすぎた風船が割れるように。
だけどまた、それは波が引いてしまうように静かに収束する。
それは初めとは違う、切ない愛じゃない。
愛しくてたまらなくて、全てを包み込んでしまうかのようなもの。
何事もなかったかのように音は消えた。
曲が終わると、静寂が空間を支配され、奏音は、息を吸うのさえ躊躇う。
桜が椅子から立った瞬間にようやく空気が動いた。
「どう、でしたか?」
「あ、はい。すごかったです」
奏音は、その言葉しか出てこなかった。
これを、なんと表現したら良いか、自分の知っている言葉では言い表せないと思った。