音楽のほとりで
「誰かが昔に、こう言ってたんです。ピアノの音は自分自身だって。だから、人に聞かれるのはすごく恥ずかしい。だけど、だから芸術なんだ、と」
一字一字、その人の言葉をそっくりそのまま思い出しているのか、桜はそれを時間をかけてゆっくりと言った。
その言い方はどこか、自分に言い聞かせているようでもあった。
「僕も、そう思います」
「でも、本当に私なんて尚に比べたら全然下手で」
自然と、尚と比べてしまっている桜がいる。
「なんで高倉尚と比べるんですか? 僕は、桜さんのピアノ、すごく好きです。ずっと聴いていられます。いや、むしろずっと聴いていたい」
奏音は、昔桜が尚に言った同じことを桜に言う。
尚は、その『好き』という言葉があったからこそピアノが好きになれたと言っていた。
だから、いつも桜のためにピアノを弾くんだと。
「ありがとうございます」
「桜さん……」
奏音は、突然桜の肩に両手を置いた。
そうして、自分の顔を桜に近付ける。
「ごめんなさい」
しかし桜は咄嗟に、顔を横に背けそれを拒んでしまった。
「すみません、つい。いきなりでしたよね」
「いえ……」
その桜の一言は、奏音の何かを動かしたようだ。
「桜さん、僕は桜さんの中に高倉尚がいても構わない。それは、今の愛の夢からも分かります」
そう言われた桜は、顔を赤くする。
自分でも、分かっていた。
尚が桜のために弾くように、桜も尚のためにピアノを弾いてしまっていたことを。
「でも、それでもいいし、むしろそれは仕方ない事です。……だから、僕たちのペースでゆっくり進んでいきましょう」
でも、奏音はそんな桜を一切責めたりはしないで、むしろ春の陽気の様に包み込んでくれる。
「今から、たくさん思い出作りましょうね」
桜は、ただとにかく目の前にいる奏音に投げかける言葉を探して、そう言った。