音楽のほとりで

「誰かが昔に、こう言ってたんです。ピアノの音は自分自身だって。だから、人に聞かれるのはすごく恥ずかしい。だけど、だから芸術なんだ、と」

一字一字、その人の言葉をそっくりそのまま思い出しているのか、桜はそれを時間をかけてゆっくりと言った。

その言い方はどこか、自分に言い聞かせているようでもあった。

「僕も、そう思います」

「でも、本当に私なんて尚に比べたら全然下手で」

自然と、尚と比べてしまっている桜がいる。

「なんで高倉尚と比べるんですか? 僕は、桜さんのピアノ、すごく好きです。ずっと聴いていられます。いや、むしろずっと聴いていたい」

奏音は、昔桜が尚に言った同じことを桜に言う。

尚は、その『好き』という言葉があったからこそピアノが好きになれたと言っていた。

だから、いつも桜のためにピアノを弾くんだと。

「ありがとうございます」

「桜さん……」

奏音は、突然桜の肩に両手を置いた。

そうして、自分の顔を桜に近付ける。

「ごめんなさい」

しかし桜は咄嗟に、顔を横に背けそれを拒んでしまった。

「すみません、つい。いきなりでしたよね」

「いえ……」

その桜の一言は、奏音の何かを動かしたようだ。

「桜さん、僕は桜さんの中に高倉尚がいても構わない。それは、今の愛の夢からも分かります」

そう言われた桜は、顔を赤くする。

自分でも、分かっていた。

尚が桜のために弾くように、桜も尚のためにピアノを弾いてしまっていたことを。

「でも、それでもいいし、むしろそれは仕方ない事です。……だから、僕たちのペースでゆっくり進んでいきましょう」

でも、奏音はそんな桜を一切責めたりはしないで、むしろ春の陽気の様に包み込んでくれる。

「今から、たくさん思い出作りましょうね」

桜は、ただとにかく目の前にいる奏音に投げかける言葉を探して、そう言った。
< 56 / 142 >

この作品をシェア

pagetop