極艶恋~若頭は一途な愛を貫く~
伊藤はキャメルのハンチング帽を脱ぎ、深緑色のバリスタエプロンを外す。

それらはこの店の制服で、実乃里も同じ装いである。

詰襟の白いブラウスも制服だが、それは着たままで伊藤はコートを羽織り、実乃里に渡された財布を持って店を出ていった。


(このままの暇な状況が続けば、伊藤さんに辞めてもらわないといけないかも。雇ったばかりなのに、言い出しにくいな……)


それから十五分ほどすると、たったひとりの客であった女性も、文庫を閉じてバッグを手に席を立った。


「ラップサンドもコーヒーも美味しかったですよ。ご馳走様。また来ますね」


先ほどの伊藤との会話が耳に届き、気を使って励ましてくれただけかもしれないが、素直に喜んだ実乃里は、「ありがとうございます!」と声を弾ませ、女性客を見送った。


(ほら、一度、来店してくれたら、また足を運びたくなる店なんだよ。味も趣味もいいもの。うまく宣伝さえできれば、繁盛すると思うんだけど、どうしたらいいかな……)


SNSでの宣伝は定期的に行っている。

けれども東京にはカフェがごまんとあるため、メニューや店内の普通の写真が、大勢に拡散されるわけがない。


(雑誌に掲載をお願いすると、いくらくらいかかるだろう)


レジカウンターに体重を預けつつ、実乃里がスマホで検索を始めたら、ドアが開いて若い男性がひとり入ってきた。

塗料で汚れたジャンパーとデニム姿で、重そうな鞄を斜め掛けにし、小洒落たこの街の雰囲気に馴染まない男性である。

しかしながら、どのような客であっても、今の実乃里には後光が差して見えた。


< 191 / 213 >

この作品をシェア

pagetop