Before dawn〜夜明け前〜
「帰んな。ここはあんたらの来るとこじゃ、ねぇよ」
不意にカウンターから大将の声がした。珍しく、低く怒りも露わにした声だ。
「あら、私はお寿司を食べに来た客よ?」
どこかで聞いたことのある声だ。いぶきはトイレに行くついでに、ヒョイとカウンターをのぞいた。
「帰ろう、玲子」
「いやよ。私はここのお寿司が食べたいの」
入り口に立っていたのは、ひどくやつれてはいるものの、風祭玲子、だった。
「…いぶき?」
玲子がいぶきに気づいた。
「どうして、あんたがここにいるの。
この女、私生児よ!しかもヤクザの組長の娘。こんな高級店に来られる人種じゃない。
そうか、あんた、弁護士になったんだっけ。
頭だけは良かったものね。
高給取りってわけか。
お父様もお母様も、あんたを手放さなきゃよかったって毎日のように、言ってる」
玲子のしゃがれた声がおどろおどろしい。
目は虚ろで落ちくぼみ、以前の美しさのかけらもない。眼球だけがギョロつき、見るからに薬物中毒そのものだ。
あまりの変わりように、さすがのいぶきも声を失い、足がすくんでしまう。
「あんたのおかげで、両親は私を見てくれない。
あんたなんか、いなけりゃいいのに」
玲子のただならぬ気配に、カウンターの客たちが避け始める。
ピンと空気が張り詰めた。
次の瞬間だった。
玲子は驚くほどの身軽さでカウンターを乗り越えて包丁を手にすると、いぶきめがけて走りだした。
いぶきは、とっさに避けたが、包丁は脇腹をかすめる。
勢いで包丁を落とした玲子はそのままいぶきの首を手で締める。
「死ね!死んでしまえいぶき!」
「玲子、やめるんだ、玲子!」
玲子と一緒にいた夫、風祭司が玲子を慌てて羽交い締めにする。
その時、玲子の指が絡んで、ネックレスが千切れて床に落ちる。
その様子がいぶきにはまるでスローモーションのようにうつって見えた。