あなたに捧ぐ潮風のうた
清盛は更に平家の勢力を盤石なものとするため、福原から高倉院に圧力をかけ、勅命と院宣を引き出した。
同年五月、以仁王(もちひとおう)という後白河法皇の第三皇子の皇籍を剥奪し、源姓を与えて臣籍に降下し、土佐国に配流する決定を下した。
以仁王は齢三十の皇子であり、親王宣下もなく不遇の立場にあったものの、出家することなく安徳天皇即位後も虎視眈々と皇位を狙っていたという。
以仁王はこの勅命を事前に知ると、検非違使が邸宅まで迎えに来る前に抜け出し、平家と対立する園城寺を頼って逃げ出した。
園城寺が以仁王の引き渡しを要求する平家に対して時間を稼いでいる間、以仁王は「最勝親王」と自身を親王の身分であると偽称し、自身の所領や全国の寺院や平家に不満を持つ武士たちに対し、皇位を騙し取る平家を追討するように命を下した。
以仁王の父親である後白河法皇ですら、偽りの令旨に対して不当、不快と発したほどであり、平家一門の思いはいかほどであろうか。
以仁王は、寺院であればおいそれと平家も手出し出来ないだろうと踏んだのであるが、これを知った親平家の寺院は当然この令旨の存在を平家に伝え、事は発覚した。
直ぐに園城寺への攻撃を行う編成が行われ、多くの平家一門および郎党が参加することになった。
結果的に、平家は以仁王と彼に従った者、密通した者を追い詰めて討ち滅ぼすことに成功した。
この以仁王が身分を詐称して発した「令旨」は、効力を持たぬものであると知られていたものの、全国の反平家勢力を呼び起こす大義名分に使用されることになった。