あなたに捧ぐ潮風のうた
福原では人々が住まうための家屋を建設するために木々を伐採して筏で資材を運んでいたが、建設は遅々として進まなかった。
大内裏の建設も、公卿たちの合議が終わらないために一切進まない。平らな土地が足りないのである。
場所を他に移すか、限られた土地に限られた物を選んで建設するか、そもそも安徳天皇の践祚大嘗会(即位後初の大規模な大嘗祭)は何処で行うのかなど、激しい議論が重ねられた。
清盛には何としても福原を都とする執念とも言える思いが有ったのだろう、福原を確かに都とするための数年に及ぶ詳細な建設計画および都市区画の計画を提示し、反対する公卿らを黙らせた。
老獪な清盛の手腕は恐ろしいほどで、親平家の貴族から順に良い宅地を与え、屋敷の工事を滞りなく遂行する流れを作り、福原の開発は人々の予想を遥かに上回る速さで進んでいた。
しかし、今年の践祚大嘗会には内裏の建設は間に合わず、旧都に安徳天皇が行幸して行うという形で行われることになった。
その折、高倉院の体調が思わしくないという知らせと、関東で反平家への動きが盛んになっているという知らせが同時期に平家に届けられ、教盛邸にもその知らせは届られていた。