あなたに捧ぐ潮風のうた
「何でしょうか、これは……」
突如として聞こえてきた笛の音色に、呉葉は不思議そうな表情で辺りを見渡す。
だが、孝子はこの笛の吹き手を知っていた。
もの寂しさに見事に調和し、柔らかくもひんやりとした清流のごとく澄み渡っている音色は、色のない辺りに彩りを加える。
「……まるで、誰かがわたくしを応援して下さっているようね」
孝子の口許に自然と笑みが浮かぶ。
優美な笛の音が、緊張で落ち着かない孝子を鼓舞した。
呉葉はその吹き手が自分の息子であるということを知らないのだろう、彼女は目を瞑って美しい音色に感じ入る。
「ええ、どなたかは存じませぬが、雅なことをなさる方がいたものです」
感心する呉葉を見ていると、孝子は可笑しくなって思わず笑ってしまった。
「姫様、如何されました」
「ふふ、いいえ」
(わたくしは、大丈夫)
孝子はそっと笑うと、怪訝な表情を浮かべる呉葉を背後に置き去りにし、ただ前だけを真っ直ぐに見つめて廊下を突き進む。どこからともなく聞こえてきた笛の音は、孝子の心を優しく包み込んだ。
「行ってまいります」
これからしばらくの間は里に帰れない。誰に言うでもなく短く言い残すと、孝子は屋敷に背中を向けた。