レテラ・ロ・ルシュアールの書簡
四話
それから数時間経って、吸魂竜は猿轡をされて転移の黒い穴から出てきた。こんなに近くでドラゴンを見たのは初めてだ。僕は内心でびびっていた。
(落ち着け、レテラ)
僕は自分に言い聞かせて、メモ帳とペンを取り出した。
吸魂竜は、一メートル半はある黒い巨体をくねらせながら、何とか拘束を解こうともがく。
左右で手綱を引く紅説王と陽空は、振り払われないように踏ん張っていた。
「マル、結界を」
紅説王がマルに向って声を張り、それを聞いてマルが印を結ぼうと指を立てる。
「では、もう少し離れて下さい」
マルが言って、二人はドラゴンから距離をとるように、手綱をぴんと張ったままにして、じりじりと下がった。そのとき、陽空の足が床に散らかっていた機材に取られて、一瞬手綱がたわんだ。
その瞬間、吸魂竜は小さな前脚を隠すようにぐんと、体を前に沈み込み、頭を勢い良く振り上げた。その衝撃で、手綱を持っていた二人は両手を上へ取られた。
「しまった!」
マルが叫んだ瞬間、吸魂竜は腹ががら空きになった紅説王へ頭突きを食らわせた。紅説王は弾き飛ばされて、地面へ転がった。
「大丈夫ですか!?」
僕は駆け寄って、紅説王の肩を抱く。
「ああ、大丈夫だ」
紅説王は唸るように呟いた。顔色が悪い。息を吸うのが苦しそうだ。僕は焦りながら、吸魂竜を見上げた。
吸魂竜は手綱を引く陽空と格闘しながら、前かがみになり、僕らの方へ向くと、その太い後ろ足に力を込めた。
(突進してくる気か!?)
僕の背筋を、冷たいものが駆け上がる。
「王、お立ち下さい!」
僕が叫んだ、その刹那。
「ギャッ――!」
獣の悲鳴が短く響き、吸魂竜は地面へ沈んでいた。苦しそうにもがいているが、何故か立ち上がれないみたいだ。いつの間にか吸魂竜を抑えていたはずの陽空も後ろへ下っている。
僕は訳が分からずに、馬鹿みたいに口をぽかんと開けた。
「大丈夫?」
優しく、艶のある声に、僕は我に帰った。目を瞬かせて、その人を見る。
「アイシャさん」
彼女はにこりと笑んだ。アイシャさんは、両手をドラゴンの方向に押し出していた。能力者によく見られるポーズだ。
「ってことは、これはアイシャさんが?」
「そう。吸魂竜に近寄っちゃダメよ。今、重力が倍になってるから。貴方も潰れちゃうわよ、レテラ」
ちゃめっ気たっぷりに言って、アイシャさんは僕にウィンクした。僕の胸は思いがけずに高鳴る。
惚ける僕を余所に、アイシャさんは稟とした声音で指示を出した。
「さあ、今のうちに結界を」
アイシャさんに促され、陽空はその場を離れ、マルは印を結んだ。すると、吸魂竜を半透明なものが取り囲み、すぐにそれは見えなくなった。
アイシャさんは両手を下げた。
吸魂竜は、ふらふらと立ち上がる。
「だ、大丈夫なの?」
僕は混乱して語調を焦らせた。
「もう結界で囲んであるから平気だよ」
マルが安堵の息をつきながら答えた。
「そっか……。ん? 結界ってことは、マルってまさか――王族?」
「そうだよ」
マルはあっさりと頷いた。
僕は叫びながら、頭を抱えてうずくまった。
「僕としたことが! そんなことにも気づかないなんて!」
思えば、マルは最初に会ったときから結界術を使っていたじゃないか。研究室の存在ですっかり頭から抜け落ちてた。
マル本人に取材に行っても、結局研究のことになっちゃって、しかもそれが興味深いから、ついついマルについて尋ねることが出来ないでいたんだ。
「黙ってるなんて、ずるいじゃないか!」
半泣きで顔を上げると、マルは苦笑した。
「別にわざわざ言うほどのことでもないだろ」
「言うほどのことだろ!」
僕が突っ込むと、マルはけたけたと笑って、
「王族ったって、二条の、しかも末席だもん。同じ二条でも、青説殿下とは全然違うのさ」
唄うように言って、「それより研究、研究」と、吸魂竜に向き直った。僕はマルをじっと見つめる。
条国の王族は、本家の三条と分家の二条という二つに分けられると聞いたことがある。
マルは分家にあたるわけだ。案外、マルは気楽な立場にあるのかも知れない。研究オタクの彼にとって、今の地位は満足出来るものなのかも。
「なあ、後で詳しく聞かせてくれよ」
「何を?」
マルはきょとんとした瞳で僕を振り返った。
「マルについて」
「僕のことなんか知って、何が楽しいのさ」
マルは、まるで分からないというように首を傾げた。
「楽しいよ。少なくとも僕は」
「僕も大概だけど、レテラも相当変わってるよね」
マルは苦笑してから、
「良いよ。でも、後でね。今はこっちが先だから」
「うん。だよね」
僕はしっかりと頷いて、紅説王に手を貸して王を立たせた。王は、痛みで顔を顰めながらも毅然としていた。さすがだ。
「では、始めよう」
王の号令の下、僕らは動いた。僕と、おそらくアイシャさんと陽空も何をするのか知らないので、マルの指示に従って動く。
僕は準備しておいたゲージから兎を捕り出し、アイシャさんと陽空は臨戦体制をとる。
「僕の合図で兎を結界の中に入れて」
「分かった」
僕は静かに頷いた。冷たい汗が頬を伝ったのを感じる。吸魂竜が落ち着くのを見計らって、
「行くよ!」
マルが号令をかけた。次の瞬間、透明だった結界は、油が混じった水のように波紋を広げ、その部分だけの色が微かに色が変わって見えた。
そこだけ、結界がなくなったんだ。
僕は、その穴目掛けて兎を投げ入れた。ちょうど兎の大きさよりも、一回りほど大きいだけだった穴に、兎はものの見事に飛び込み、着地した。
それを見届けると、すぐに結界は閉じられた。
それからはもう、待つのみだった。
吸魂竜が兎の魂を食べるまで、ひたすら待ち続けた。
恐怖と警戒の色を強く滲ませた吸魂竜は、中々兎に向き合わず、ただひたすらに僕らを睨む。放たれた兎は最初こそ逃げ惑っていたが、その内隅の方で大人しくなった。
二時間ほど経った頃、陽空が腰を浮かした。皆立って待っていたのに、こいつだけ座ってたんだ。本当、良い性格してる。僕だってメモしたい気持ちを抑えてるってのに。
陽空は王に向って言った。
「すんません。俺、そろそろ大丈夫ですかね?」
「ああ。結界を破られることもないだろうから、大丈夫だ。ありがとう」
紅説王は優しく微笑んで退席を許可した。
紅説王って、良い人だよな。バルト王だったら、絶対ありがとうなんて言わない。それは威厳を保つためなのか、性格なのかは分からないけど、紅説王の場合、食客にもこんな態度では、親しみ易い反面、なめられる危険があるような気がする。それにしても――。
「こんなにわくわくするものを見ないなんて、どうかしてるよな」
僕はぼそっと独りごちた。
陽空は、部屋を出る前にアイシャさんにこそっと話しかけた。僕は反射的に耳をそばだてる。聴覚に関しては、絶対的な自信がある。案の定密かな話し声を僕の耳は捉えた。
「俺と一緒に行かない?」
「いいえ。私は、ここにいます」
「……大丈夫か?」
「平気ですよ」
アイシャさんはにこっと笑った。
「……そっか。じゃあな」
陽空は残念そうに笑って、研究室を出た。
(やーい。ふられてやんの)
僕は心の中で嘲笑していたけど、陽空がアイシャさんに大丈夫かと訊いたとき、真剣な表情をしていたことも、アイシャさんがぎこちない笑みだったことにも、このときは気づいてなかった。