レテラ・ロ・ルシュアールの書簡
* * *
結界の中に入ったマルは、少し緊張した面持ちで吸魂竜と対峙した。吸魂竜は少し警戒しながらも、すぐに舌を伸ばし、捕食体勢に移った。
舌が波打ち、甲高い音が響き始めると、マルは小さく悲鳴を上げて膝を突いた。
「円火(まどか)!」
紅説王が耳を塞ぐマルに向って小さく叫んだ。
(円火。それが、マルの本名か?)
僕は微かに片眉を跳ね上げて、紅説王を一瞥し、視線をマルに戻す。
マルは苦しそうに顔を歪めていた。僅かでも身体を動かそうとすれば、痛みのためなのか、苦しみのためなのか、悲鳴を上げて固まった。
(あれじゃ、印なんて結べないんじゃないか?)
僕は切迫しながら、目をマルに釘付けにし、ポケットからメモ帳を取り出した。
速記を始める。その刹那、マルの呻き声がした。
マルは力を失くして、突っ伏する。
「ヤバイ」
僕が呟いた瞬間、激しい破裂音がして、突風が吹きすさび、僕は顔を覆いながらよろめいた。
混乱する中、僕の目は紅説王を捉えた。
彼は呪符を手に持っていた。その呪符がまるで鞭のように撓って、吸魂竜にぶち当たり、悲鳴を上げて倒れ込んだ。
状況を理解するのに、一呼吸の間が必要だった。どうやら、紅説王があの呪符で、マルが張った結界を破り、そのまま吸魂竜を攻撃したらしい。
王は恐怖の色など微塵もなく、毅然とした立ち振る舞いで歩き、マルを抱きかかえた。そこにアイシャさんが駆け寄ってきて、王はマルをアイシャさんに任せた。
彼女はうんしょと唸りながら、マルを受け取ると足早に離れ、王はよろめきながら起き上がってきた吸魂竜を見据えた。
そして、僕の隣にマルを背負ったアイシャさんが来るのと同時に、素早く印を結んだかと思うと、マルよりも遥かに速いスピードで結界が張られた。
王と吸魂竜は、閉じられた結界の中で、互いに睨み合う。だが、紅説王には、恐ろしいほどの余裕が感じられた。
吸魂竜は大きな口を開いた。舌をうねらせる。僕は、心の中心で止めなければならないと思っていた。いわゆる理性だろう。でも、それを囲むように欲望が渦を巻く。
見てみたい。
そして、記したい。
僕の右腕は、ペンを走らせることを止めなかった。
そして、三度あの音は響いた。
しかし、何故か王はマルのようにはならなかった。まるで音を跳ね返すかのように軽やかな足取りで、吸魂竜に歩み寄った。
吸魂竜は驚いたのか、少したじろぐ様子を見せ、一歩後退った。
王は懐から、呪符を取り出した。緑色の長方形、おそらく二十センチくらい。
それを人差し指と中指の間に挟むと、軽く薙いだ。すると呪符は先程と同じように伸び、ものすごいスピードで吸魂竜を縛り上げた。
吸魂竜は唸りながらもがいたが、びくともしない。
王は、おもむろに吸魂竜の伸びたままの舌を触り、そのままなぞるようにして吸魂竜の口内に手を突っ込んだ。
「うわ」
小さく悲鳴を上げたのはアイシャさんだ。顔は見えないが、声音から察するに多分ひいている。僕の目は王に釘付けで、それどころではない。分散された意識を、王と竜に戻す。
王はしばらく吸魂竜の口内をまさぐっていた。口内というよりは、舌だろう。感慨深い表情を浮かべながら、王はその手を吸魂竜から放した。
そして何食わぬ顔で離れ、印を結んで王一人分の出口を作り、結界から出て来た。それと同時に呪符を破ると吸魂竜を束縛していた呪符は消えた。
「何を調べてたんですか? 今の技は?」
興奮しながら尋ねた僕に、王はにこりと笑みを返した。
「推測になる。もう少し調べてから、皆には報告することにしよう」
(ええ~!? そんなぁ!)
僕はがっくりと肩を落とした。
ふと振り返ると、アイシャさんがどことなく怪訝な表情で、気絶しているマルを見ていた。
「どうかしたんですか?」
思わず声をかけると、アイシャさんは我に帰ったようにはっとして、僕をちらりと見ると、すぐに紅説王に視線を投げた。
「紅説王。マルさんは、もしかして女性ですか?」
「え!?」
僕は目をむき、マルと紅説王を見比べた。
王は感慨なく頷く。
「そうだ。別に秘密にしていたわけではないぞ。マル――いや、円火は、昔から外見に頓着しなくてな。その上、一人称も僕だから、子供の頃から男に間違われていたんだ」
紅説王は懐かしむように笑んで、倒れているマルを見た。僕はどことなく微笑ましく思ったけど、視界の隅に映ったアイシャさんの瞳は暗く沈んでいた気がして、僕はアイシャさんの方を向いたけど、アイシャさんの表情はもう普通だった。
(なんだ?)
僕は怪訝に思いながら、彼女と一緒に研究室を出た。マルは、紅説王が抱えて医務室へ運んでいった。
僕は廊下を歩きながら、横に並んで進むアイシャさんに尋ねた。
「ねえ、アイシャさん。さっき暗い顔してたみたいだけど、どうしたの?」
なるべく軽い感じで尋ねると、アイシャさんはばつが悪そうな表情を浮かべた。
「あらやだ。見られちゃってたのね」
「まあ――」
それで? というような表情を作り、僕が促すと彼女はますます苦笑を浮かべた。
「ちょっとね。女性だと分かっていながら、しかも、幼い頃から知っている相手に危険なことをさせるのが信じられなくて」
まあ、確かにそうかもと思いながらも、僕は少しだけ紅説王の肩を持つ。
「でも、マルって止めてもきかなそうだし、最終的には助けたわけだし」
「……そうね」
アイシャさんはそう言ったけど、納得がいってないのは見え見えだった。
「ちょっと、納得いかないって感じですか?」
軽口をきくと、アイシャさんはふふっと笑った。これまた苦笑だ。