レテラ・ロ・ルシュアールの書簡
アイシャさんは驚愕したように振り返った。その表情は硬く、強張っていた。だが、僕だと分かると、一瞬で安堵した表情に変わった。
「今の状態は?」
「新しく造った魂の塊を試しているところよ。あれをかざした途端、魔竜が大人しくなったの。まるで、何かに耐えるみたいにね」
確かに、近寄ったことで見えた魔竜の顔は、苦痛に歪んでいるようにも見える。
僕はふとアイシャさんを見た。彼女の表情はまた強張ったものに変わっていた。
「アイシャさ――」
「ヴォオオ!」
僕の声は轟音にかき消された。耳を塞ぎ、魔竜を仰ぎ見る。中央の首が大きく裂けた口で、咆哮を上げていた。
中央の首に意識を戻されるように、左右の首も轟くような雄叫びを上げる。
「ヴォオオオオ!」
「うっ!」
僕はさらに耳を塞ぐ手に力込めた。
「なんだよ。効かないじゃないか」
僕はぼやきながら顔を上げた。せめて、この行方だけは見届けなくちゃ。
結界のおかげか、不思議とさっきのような頭痛やめまい、呼吸困難は起きない。もしくは、魔竜の咆哮にも攻撃とただの雄叫びの二種類があるのかも知れない。
「――よ」
「え?」
突然途切れるような声が聞こえて、僕は斜め前にいたアイシャさんに目線を移した。彼女は、青ざめた表情で、両腕を抱き、がたがたと震えていた。
(アイシャさん?)
アイシャさんは、震える声で呟いた。
「ダメよ。やっぱりダメ……怖い」
「……どうしたんですか?」
僕が彼女に向かって手を伸ばすと、前方で激しい衝突音が響いた。
「なんだ!?」
僕は前方に向き直る。すると、魔竜がよろめく姿が映った。
「え?」
食い入るように見つめた視界は、次の瞬間、信じられないものを捕らえた。
燗海さんが矢のように跳び、魔竜の左側の首を、顎から頭へと貫いたんだ。そして燗海さんは、そのまま結界をも貫いた。結界は音もたてずにゆるやかに崩壊していく。
左の首は切れた弦のようにたわんで、地面に地響きを轟かせながら派手に落ちた。草原はあっという間に血に染まる。
「ヴィギャー!」
残った二首が怒号を上げて僕らを睨む。その刹那、
「ヒナタ!」
「分かってるよ。ジジイ!」
二つの声が重なるように響いて、左首から流れ出た血が、まるで生き物のようにうねり、動き出した。
それは、一瞬だった。
動き出した血液は、引かれるように弧を描き、天に舞い、魔竜の体内の血液をずるりと引きずり出した。
「ギャアアア!」
魔竜は断末魔の悲鳴を上げ、全身の血をごっそりと持っていかれて、干乾びた。それは本当に一瞬の出来事だった。
愕然と目を見開いたまま硬直している体に、突然重苦しいものが降ってきた。
「うわっ!」
ばたばたという重い音を耳が捉えた。
思わず閉じた目を開けると、全身は赤い液体でぐっしょりと濡れていた。だけどそれは僕だけじゃない。目で見渡せる範囲の、この草原が全て赤く染まっていた。
茫然とする僕の鼻を、金臭い臭いが衝いて、そのとき宙を舞った魔竜の鮮血が落ちてきたんだとやっと気づいた。
皆が安堵の息を吐くなか、疲労した体を引きずり、血まみれの顔で恍惚を浮かべながら、ヒナタ嬢は膝を突きジャルダ神への祝詞を唄い出した。
この人はやっぱり、異常だと思う。僕は半ば呆れて苦笑した。
「そうだ。アイシャさん――」
ふと思い出して、アイシャさんを見ると、彼女はもう立ち上がっていた。声をかけようと手を伸ばした。でも、彼女は僕を振り返らずに、手を後ろに伸ばして制止した。
「ごめん。レテラ。忘れて」
アイシャさんは拒絶するように言うと、踵を返して歩き出した。
「アイシャさん……」
哀しげな彼女の背を見送っていると、僕の肩に陽空が手をかけて寄りかかってきた。僕と同じく血まみれの陽空に邪険な瞳を向ける。
てっきり、またにやけた顔が肩越しに浮かんでると思ったのに、陽空の表情は真剣そのものだった。
「アイシャちゃん。まだ落ち込んでんのな」
「落ち込んでる?」
そういえば、そんな様子はあったな。