拝啓ヒトラーさん
天才の国の住人
「春さん!」と聞き慣れた声。
「え!?」「ひろくん!」とキャアキャアと周りで弾む声。
春さん。春。私の名前だ、と思い当たる。
同じクラスの子たちが期待するような眼差しで私を見つめ、笑みをこぼしている。
放送部の声が遠くに聞こえる。
『一番に紙をとった野球部エース、期待の一年!前川広くんが向かったのはお姉さんの元だ!紙には一体なんて書いてあったのですかね〜!?』
『きっと「大切な人」ですよ。我が校誇りの前川姉弟の走りが見れそうですね!』
「春さん」ともう一度呼びかけられ、顔を上げる。
大きな瞳が私を見つめている。散歩前の犬のようにキラキラと期待に満ちた目。
2つ年下とは思えないほど引き締まった腕が、私の腕を掴む。
「来て!」と弾けるような笑顔で私を起こす。
走り出した彼に、私もなんとか足を動かす。
ワッと周りが沸いている。
「キャー!」「ひろくん!」「いいぞ姉弟!」
あらゆる声援と熱気が私の耳に入り込んでくる。
1年5組遠藤さん、1年3組佐原さん、2年4組北川くん・・・。
もつれそうになる足をなんとか動かす。
私の背をとっくに越した弟の、引き締まった脚が憎い。
息が上がる。ゴールテープを持っている竹森さん、権藤さん。今日は7月11日最高気温31℃。第46回体育祭。
走る。右足が痛い。
弟の腹部がゴールテープに触れた。
歓声がひときわ大きくなる。
あぁ、弟は本当に人気者だな、と私は茹だった頭で考えた。
快走により弟と私は見事、借り物競走で1位になったのだ。
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