夏の終わりに
生暖かい風が頬をなぞる。
ゆっくりと吹き抜ける風は、夏休みが終わろうとも夏がどこかへ去るわけではないということをやんわりと私に教える。夏は暑い。暑すぎる。だがそんな夏だからこそ見える景色がある。趣。そんな難しいものは私にはよく分からない。だが、「エモい」という言葉は私たちに趣に浸る気持ちを表現させてくれる。この言葉を借りるならば、私の知る中で1番「エモい」のは、間違いなく夏の終わりであると言えるだろう。
私は、ボーイフレンドでもない男と、夜の川へ来ていた。手持ち花火をする為だ。何故彼と来たのかは私自身も分からない。ただ予定が合ったのが彼だったからというだけの理由だったのか、それとも以前少しばかり関係を持った彼に、傷ついた心を慰めて欲しいとでも思っていたのか。それは今となっても分からないままである。だが、一つだけ確かなことは、この夜の花火は、私が体験した花火の中で、ダントツに「エモい」花火であったということだ。
数日前、彼から連絡があった。「花火、しよう。」簡易的な文面の向こうにどんな思いがあったのかは私に分かるはずもない。いや、何も思って等いなかったのかもしれないが。それでも私は、「私も、花火したい。」と、迷わずに返信していた。念の為断っておくが、私は決して彼のガールフレンドでもなければ、彼に対して特別な思いを抱いている訳でもない。では何故2人で花火等をする気になったのかと言われれば説明し難いが、言い訳をするのならば、あの時の時の私は、荒んでいたのだと思う。当時付き合っていた彼氏に別れを告げられ、学業も交友関係も上手くいかず…間違いなく、傷つき、疲れ、荒んでいたのだ。
ともかく、そんな流れで共に花火をすることになり、20時近い少し遅めの時間に集まることとなった。
残暑の蒸し暑さの中、私は自転車を漕いで彼の待つ橋へと向かう。私が着くと、そこには既に自転車から降りてスマートフォンをいじる彼の姿があった。
「やあ。」
「久しぶり。」
そんなそっけない挨拶を交わし、自転車を並べて歩き出す。そして私達は花火を買うためにドラッグストアに向かう。彼の自転車はおばあちゃんのものなのだそうで、ギイギイと壊れそうな音を立てていた。
ドラッグストアに着くと、店の前には私の知り合いがたむろしていた。案の定、私達が横を通ると好奇の目を向けられたが、今はなんだかどうでもよく、気にしないことにして店内へと進んだ。夏休みの終わり間近ということもあってか、店に入ってすぐの見えやすい場所に花火の特売コーナーが設置されていた。
「どれにする?」
彼がきく。
「どれでもいいよ」
私がてきとうな返事をすると、彼はブンブン花火とかいう蜂の形をした変な代物と普通のジェット花火、それから線香花火を素早く選び取った。そのままレジへ向かおうとした彼は、急に思い出したように、「ライターとロウソク」と言った。どちらも彼が持って行くと言っていたものだが、おそらく忘れてきたのだろう。私達はライターのあるコーナーへと向かい、安価なライターを一つ手に取った。しかしロウソクは置いていなかったようだ。早々に諦めた私と彼は、ライターから花火に直接火を付けることに決め、会計を済ませて店を出た。
若干道に迷いながら河川敷へとたどり着いた私達は、自転車を土手の上に停め、荷物を持って河川敷へと降りる。私達は川縁で花火をするつもりだったのだが、川の流れと河川敷の間には背の高い草が生い茂っていて、とても進めそうになかった。
「どうしようか。」
少し困ったように私が呟く。
「うーん、ここでもいいけど。川の方へ行きたくない?」
そう言っていたずらっぽく笑う彼には不思議な魅力がある。
「仕方ないなあ」
つられて笑って私が了承すると、彼がゆっくりと歩き出す。それに続くように私も歩きだし、暗く静かな河川敷を2人で歩く。何故お互いの彼氏彼女とではなく、私達2人で歩いているのか。なんだか少し虚しいような気もしたが、くだらない話をして談笑して歩くと、不思議と心が落ち着く感じがした。
しばらく行くと、草むらの中に1本、石でできた道があった。その道は、異世界への入口のように、周りから浮き出た存在としてそこに存在していた。「ここから川に出られるんじゃない?」「行ってみよう。」慎重に道を進むと、突然川の冷たい水が足に触れた。「川だ。」いつもそこにあるとわかっているはずのものを、まるで初めて見つけたかのように彼は言う。目の前には私たちの膝くらいの高さの四角い形に加工された石がある。2人でその石に登ると私達の背丈は草の丈よりも少しばかり高くなり、辺りを見渡すことが出来た。四角い石は飛び石のように向こう岸まで点々と連なり、そのちょうど真ん中のあたりに、川から浮き出て島のようになっている所がある様子が伺える。私はその島に何か魅力を感じ、見入ってしまった。
「あそこでいい?」
彼が発した言葉が私を現実に引き戻す。
「うん、あそこで花火、しよう。」
月明かりだけでは川の上を渡るには心もとないので、スマホのライトを点灯し、足元を注意深く見ながら石の上を渡り出す。彼がどんどん進んでいく中、私はなかなか進めず苦労して、やっとの思いで島に降りることのできる石までたどりり着いた。先に着いていた彼は、そこにぼうっと突っ立っていた。
「もう、ちょっとくらい待ってくれてもいいじゃん…ねえ、聞いてる…?」
そう言って顔を上げた私は、目を見張った。そこに広がっていたのは、なんとも言えない幻想的な世界であった。川の本流からそれて流れ出た、幅の広く浅い川の中央に浮かぶ、全長6メートル程の島。川の水は透き通っており、底にあるたくさんの小石が月明かりを反射して輝いている。遠くにある高速道路のオレンジ色の光が、幻想的に水面に揺れ映る。川の音と虫の声だけが響いていた。あまりに現実離れしているその場所は、川の下流にある鉄橋から聞こえた微かな電車の走行音さえも幻想的に聞こえさせる程であった。
しばらく景色に見入っていた私達は、花火をしに来たことさえすっかり忘れていた。先に島に降りた彼は、私に手を差し伸べる。私は、彼の手を取り、ゆっくりと島に降り立った。
「花火、しに来たんだよね。」
私のその一言で彼は急に思い出したように手に下げたビニール袋に目をやった。
「あまりに綺麗な景色だから、花火のことなんてすっかり忘れてたよ」
そう言って、彼は笑う。
「ほんとにね。こんなに素敵な所があるなんて、知らなかった」
高揚を抑えきれず、少し上ずった声で私が言う。
「花火、しようか」
「そうね、そうしよう」
そう言って私達はようやく、花火の準備に取りそう言って私達はようやく花火の準備に取りかかった。
カチッ。カチッ。なんどやってもライターの火が付けられない。
「あーっもう!!交代!」
ライターを付けるのに予想外に苦戦している私は、口を尖らせながら彼にライターを渡す。
「ははは、下手だなぁ…僕がつけてあげるよ」
今度は、口をとがらせる私を見て笑った彼がライターの火をつけようとする。しかし、つかない。
「あれ、おかしいな…」
「Google先生に聞いてみようか」
「いや、この前やった時はちゃんとついたんだよ」
「はいはい」
意地を張る彼をよそ目に、私はGoogleで付け方のコツを検索する。
「丸いのを回して、火花が飛び散るあ間にガスの所を押すんだって」
「難しいな…」
シュバッ、シュバッと何度か火花が飛び散るが、なかなか火は点かない。
「も〜、はい、貸して」
そう言って差し出した私の手に、ライターを乗せようとした彼の手が触れる。だがしかし、残念なことに私達はこれくらいのことでときめいたりなどしない。いつもなら。ところが今日に限っては違った。幻想的な風景のせいだろうか。触れた手から相手の温もりが伝わる。トクンー。少しだけ自分の鼓動を感じる。それにしても何故彼は早く手をどけないのか。彼の様子を伺おうと顔を上げた私は束の間、彼と目が合った。そして私達は、弾かれたように手を離した。
「ご、ごめん」
「なんで謝るの」
「いや、なんでもない」
「…変な人ね。」
なんだかおかしくなって、少しの静寂の後、私が笑う。それに続いて彼も笑い出す。2人で笑い合っていると、いつの間にか私たちの間にはいつも通りの空気が流れていた。そう、これでいいのだ。私たちの距離感は、こうあるべきなのだ。ときめいたり、恋人同士になるなんて、とんでもない。私は先日付き合っていた彼の浮気が発覚して別れた日に、もう付き合わないと決めたのだ。付き合うことでいずれ険悪な仲になり別れるのであれば、友達のままでいい。きっとその方が良いしそうするべきなのだろう。そうするべきなのだ。
シュパッ。
「ついた!!!」
「本当?!」
火がついたことでここまで嬉しいとは。初めての感覚である。結局彼は火を上手くつけられず、私が先につけることに成功した。
「じゃあ、僕が花火を持つから、火をつけて」
「うん、わかった」
一本目の花火に火をつける。まずは定番のジェット花火。シュパパパっ。楽しい音をたてて火花が飛び散る。
「あちっっ」
「わわわ、大丈夫?」
「大丈夫よ」
少し親指に火傷をしたが、そんなことより花火が綺麗でしかたなかった。手持ち花火などいつぶりだろうか。もう2、3年はやっていなかったであろうこれは、こんなに綺麗なものだったのか。予想以上の美しさに心を奪われた私達は、次々と花火に火を灯した。
一通りジェット花火を消費し切った私達は、次にブンブンに火をつけることにした。
「いくよ?」
「OK」
ブンブンは地面に置いて点火するタイプの花火なので、私がライターから直に火をつける。なんて趣のないつけ方。そう思うが、ロウソクがないのだから仕方ない。
「火、ついた!」
「どんな花火かな」
私達は、期待に胸をふくらませる。しかしそれとは裏腹に、シュンっと小さな音を立てて火が消える。
「あれ??消えた…?」
そう言いながら私がブンブンを覗き込むと、彼もこちらの様子を伺いに近づいてくる。その瞬間。ピュルルっ、と軽快な音を立ててブンブンが宙へ飛び出す。
「ひゃぁっ!」
驚いた私は変な声を出して後ろに仰け反る。そして。バランスを崩した。転ぶーそう思った時。
「おっと。」
後ろにいた彼が傾いた私の体を支え、私たちの視線が交差した。
「あっ…ありがとう」
「どういたしまして」
2人の放つ言葉がぎこちない。
「変ね、いつもなら何も感じないのに。」
「いつもなら、異性とハグをしたって何も感じないくらいなのにな。」
「なんでかしら。」
「きっとこの場所のせいで緊張しているのを、ときめいてると思っているだけだよ。」
「そう、かもね。」
彼が私を支える手に少し力を入れたのが伝わってくる。やっと体を起こした私達は、長い間見つめあっていた。
「不思議ね。周りの景色が違うだけで、こんなにも感じ方が変わるなんて。」
「そうだね。僕、ここへは初めて来たんだけど、なんだろう…とても魅力的だ。」
「私も初めてよ。川のせいで岸での音が聞こえないし誰もいないから、世界に私たちしかいなくなってしまったような気持ち。」
「映画の話みたいだ。」
「映画なら、手を取って踊るところよ。」
「それじゃあ…踊ってみようか?」
彼がいたずらに笑う。考えるように少し間を置いた私は、いたずらに笑い返す。
「踊りましょ。」
「せっかくだから、映画の主人公になった気分で踊ろうか。」
「どうやって??」
「そうだな、まずは…」
私は、少しだけ胸をときめかす。でもこれは、彼には秘密。
「目を閉じて。」
「え?どうして?」
「いいから、ほら。」
仕方なく、私は目を瞑る。ふいに、唇に何かが触れる。それは、紛れもなく彼の唇であった。私達は数秒の間、静かに、優しく唇を重ねた。
そして私たちは半ば抱き合うようにして、ゆっくりと、静かに踊り出す。見つめ合ったり目を瞑ったりしながら、川の音のBGMに合わせてゆらゆらと体を揺らす。なんとも言えないほどに、幻想的だ。今ここにいるのが私の想い人であったらどれほどよかっただろう。でもそんな人は、もういない。
でも、いいのだ、これで。今が幸せなのだからそれでいい。邪な心で、この幸せを壊してはいけない。そう自分に言い聞かせる。それでも私の心は、少しずつ揺すられてゆく。彼が私の腰に手を回し、私はその腕をなぞるようにしてゆっくりと彼を抱き寄せる。吐息が交差する。幻想的すぎる雰囲気は、私達の間の何かを変えてしまいそうな程で、今の関係が崩れるのではないかと少しだけ不安に思う。そんな今、彼は何を考えているのか。それは私には分からない。だが、それすらも心地よい。何も思い悩むこと無く、互いに寄り添う。なんて素敵なことなのだろう。時が止まって欲しい。そう思った。私達の関係は、と問われれば、私ははっきりと答えることができない。恐らく彼も同じだろう。それほどに曖昧な関係なのだ。このままではいけないような気もしたが、私はそれ以上考えることはせず、束の間の踊りに浸った。
しばらく踊った後、私達はもう一度唇を重ねた。今度は少しだけ長く。ゆっくりと目を開いた私達は柔らかく笑い合う。その目は、どこか淡い悲しさを秘めている。それでも私達は互いに気付かぬふりをする。
「線香花火、しようか。」
「そうしましょう」
彼が私に、1本の線香花火を手渡す。私は幾分か慣れた手つきでライターをつけ、2人の線香花火に順に火をつける。パチ…パチ…パチパチパチっ。少しずつ勢いを強めた線香花火は、強く、優しく燃える。私達は黙って、それを眺める。どこからか風が吹き、線香花火がゆらゆらとゆれる。しゅわっぱちっ。風に煽られた線香花火から火が落ち、儚く散る。こうして夏は、終わっていくのだろうか。こうして私たちの青春は、儚く散り、過ぎてゆくのだろうか。
「夏が、終わるね。」
彼が独り言のように呟く。
「夏休みが終わるからって、夏が終わるわけじゃないよ。」
本当は自分でもその意味が分かっているくせに、私はそんな風に返す。ところが彼は、それでもなお、
「夏は終わるよ」
という。
「どうして?」
と私が尋ねると、彼は何かを諦めたような悲しい口調で言った。
「夏の季節がここに残っても、僕らの夏は終わるんだ。」
私には、彼の言うことが酷くよくわかった。
すっかり線香花火をやり切ってしまった私達は、手を取り合って飛び石を渡る。彼が反対側の手に持ったライトで足元を照らしてくれた。来る時よりも、ずっといい。ゆっくりと最後の石から降り、岸へ降り立った私達は、急に現実に引き戻されたような感覚に陥る。少しだけ、あの島が名残惜しい。
「どうする、もう帰らないとまずい?」
「私は、大丈夫。…だと思う」
「それじゃあ、鉄橋の方まで歩こうか。」
私は黙って頷く。彼は私の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出す。彼もあの島が名残惜しいのだろうか。いや、考えすぎか。ぽつぽつと会話を交わしながら鉄橋の下まで歩く。鉄橋の下に着いた私達は、コンクリートで塗り固められた土手にわけもなく並んで横たわり、それからしばらく、時たま頭上を通り過ぎて行く電車を見ていた。電車が通る度に眩しい光と強い風が私たちの上を吹き抜けてゆく。
「エモいね。」
私が呟く。
彼は何も言わず、ただ頷く。こういう気持ちの時、私は自身の語彙のなさに失望する。故人であればきっと、「いとをかし。」なんて表現をするのだろう。
ただの友達とは言えず、かと言って恋人ではない、それでいて親友とも形容し難い曖昧な二人。ただ並んで横たわっているのは、滑稽なようで、ロマンチックなようでさえある。なんて不思議なことだろう。私達は再び、互いの手を絡ませる。
突然、彼のスマートフォンからメロディーが流れた。
「電話だ」
彼が慌てた様子で電話に出る。
「…うん、ごめんって……わかった。…はい」
微かに聞こえてくる電話の内容を聞くと、恐らくそれは、彼の母親からだということが推測できた。電話を切った彼は、深い溜息をつく。
「ごめん、母さんが。」
「もうそろそろ、帰ろうか。」
スマートフォンの時計を見ると、じこくはもう22時を回っていた。
私達はのんびりと並んで歩き、もと来た道を戻り、自転車に乗って帰った。
去り際に、彼はこう言った。
「来年もまた、来れるかな」
私は、
「わからないよ」
と答えて少し微笑んだ。彼はこれ以上は何も言わず、ただ私を優しく包み込む。彼の体温を感じながら、私もそれに応じる。一呼吸してから、
「じゃあ、またね」
「うん、また」
と短い挨拶を交わして私達は各々の家へと自転車を漕いで帰った。家に着いた時、私の胸には彼のほのかに甘い香りだけが取り残されていた。
次の日の部活帰りに私は、彼と行った島を探した。だがその場所は、見つからなかった。それはただ単に夜の暗闇で見える景色と同じ景色の場所を昼間には見つけられなかったというだけかもしれない。はたまた私が道を間違って記憶したのかもしれない。しかしこの事が私の記憶をより一層ロマンチックにしたということは、紛れもない事実である。
この出来事の後、私たちの身になにか特別な事が起きたりするなんてことは無く、恋人になるなんてこともなかった。しかし私は今、とても満足している。あの日の思い出は、誰にも、無論自分達自身にも汚されることなく、綺麗で幻想的な記憶として私の心に留まり続けているからだ。きっと私は、こらからも毎年、夏の終わりになるとこの話を思い出すだろう。そうして私は想いを馳せるのだ。
私たちの"青春"に。
ゆっくりと吹き抜ける風は、夏休みが終わろうとも夏がどこかへ去るわけではないということをやんわりと私に教える。夏は暑い。暑すぎる。だがそんな夏だからこそ見える景色がある。趣。そんな難しいものは私にはよく分からない。だが、「エモい」という言葉は私たちに趣に浸る気持ちを表現させてくれる。この言葉を借りるならば、私の知る中で1番「エモい」のは、間違いなく夏の終わりであると言えるだろう。
私は、ボーイフレンドでもない男と、夜の川へ来ていた。手持ち花火をする為だ。何故彼と来たのかは私自身も分からない。ただ予定が合ったのが彼だったからというだけの理由だったのか、それとも以前少しばかり関係を持った彼に、傷ついた心を慰めて欲しいとでも思っていたのか。それは今となっても分からないままである。だが、一つだけ確かなことは、この夜の花火は、私が体験した花火の中で、ダントツに「エモい」花火であったということだ。
数日前、彼から連絡があった。「花火、しよう。」簡易的な文面の向こうにどんな思いがあったのかは私に分かるはずもない。いや、何も思って等いなかったのかもしれないが。それでも私は、「私も、花火したい。」と、迷わずに返信していた。念の為断っておくが、私は決して彼のガールフレンドでもなければ、彼に対して特別な思いを抱いている訳でもない。では何故2人で花火等をする気になったのかと言われれば説明し難いが、言い訳をするのならば、あの時の時の私は、荒んでいたのだと思う。当時付き合っていた彼氏に別れを告げられ、学業も交友関係も上手くいかず…間違いなく、傷つき、疲れ、荒んでいたのだ。
ともかく、そんな流れで共に花火をすることになり、20時近い少し遅めの時間に集まることとなった。
残暑の蒸し暑さの中、私は自転車を漕いで彼の待つ橋へと向かう。私が着くと、そこには既に自転車から降りてスマートフォンをいじる彼の姿があった。
「やあ。」
「久しぶり。」
そんなそっけない挨拶を交わし、自転車を並べて歩き出す。そして私達は花火を買うためにドラッグストアに向かう。彼の自転車はおばあちゃんのものなのだそうで、ギイギイと壊れそうな音を立てていた。
ドラッグストアに着くと、店の前には私の知り合いがたむろしていた。案の定、私達が横を通ると好奇の目を向けられたが、今はなんだかどうでもよく、気にしないことにして店内へと進んだ。夏休みの終わり間近ということもあってか、店に入ってすぐの見えやすい場所に花火の特売コーナーが設置されていた。
「どれにする?」
彼がきく。
「どれでもいいよ」
私がてきとうな返事をすると、彼はブンブン花火とかいう蜂の形をした変な代物と普通のジェット花火、それから線香花火を素早く選び取った。そのままレジへ向かおうとした彼は、急に思い出したように、「ライターとロウソク」と言った。どちらも彼が持って行くと言っていたものだが、おそらく忘れてきたのだろう。私達はライターのあるコーナーへと向かい、安価なライターを一つ手に取った。しかしロウソクは置いていなかったようだ。早々に諦めた私と彼は、ライターから花火に直接火を付けることに決め、会計を済ませて店を出た。
若干道に迷いながら河川敷へとたどり着いた私達は、自転車を土手の上に停め、荷物を持って河川敷へと降りる。私達は川縁で花火をするつもりだったのだが、川の流れと河川敷の間には背の高い草が生い茂っていて、とても進めそうになかった。
「どうしようか。」
少し困ったように私が呟く。
「うーん、ここでもいいけど。川の方へ行きたくない?」
そう言っていたずらっぽく笑う彼には不思議な魅力がある。
「仕方ないなあ」
つられて笑って私が了承すると、彼がゆっくりと歩き出す。それに続くように私も歩きだし、暗く静かな河川敷を2人で歩く。何故お互いの彼氏彼女とではなく、私達2人で歩いているのか。なんだか少し虚しいような気もしたが、くだらない話をして談笑して歩くと、不思議と心が落ち着く感じがした。
しばらく行くと、草むらの中に1本、石でできた道があった。その道は、異世界への入口のように、周りから浮き出た存在としてそこに存在していた。「ここから川に出られるんじゃない?」「行ってみよう。」慎重に道を進むと、突然川の冷たい水が足に触れた。「川だ。」いつもそこにあるとわかっているはずのものを、まるで初めて見つけたかのように彼は言う。目の前には私たちの膝くらいの高さの四角い形に加工された石がある。2人でその石に登ると私達の背丈は草の丈よりも少しばかり高くなり、辺りを見渡すことが出来た。四角い石は飛び石のように向こう岸まで点々と連なり、そのちょうど真ん中のあたりに、川から浮き出て島のようになっている所がある様子が伺える。私はその島に何か魅力を感じ、見入ってしまった。
「あそこでいい?」
彼が発した言葉が私を現実に引き戻す。
「うん、あそこで花火、しよう。」
月明かりだけでは川の上を渡るには心もとないので、スマホのライトを点灯し、足元を注意深く見ながら石の上を渡り出す。彼がどんどん進んでいく中、私はなかなか進めず苦労して、やっとの思いで島に降りることのできる石までたどりり着いた。先に着いていた彼は、そこにぼうっと突っ立っていた。
「もう、ちょっとくらい待ってくれてもいいじゃん…ねえ、聞いてる…?」
そう言って顔を上げた私は、目を見張った。そこに広がっていたのは、なんとも言えない幻想的な世界であった。川の本流からそれて流れ出た、幅の広く浅い川の中央に浮かぶ、全長6メートル程の島。川の水は透き通っており、底にあるたくさんの小石が月明かりを反射して輝いている。遠くにある高速道路のオレンジ色の光が、幻想的に水面に揺れ映る。川の音と虫の声だけが響いていた。あまりに現実離れしているその場所は、川の下流にある鉄橋から聞こえた微かな電車の走行音さえも幻想的に聞こえさせる程であった。
しばらく景色に見入っていた私達は、花火をしに来たことさえすっかり忘れていた。先に島に降りた彼は、私に手を差し伸べる。私は、彼の手を取り、ゆっくりと島に降り立った。
「花火、しに来たんだよね。」
私のその一言で彼は急に思い出したように手に下げたビニール袋に目をやった。
「あまりに綺麗な景色だから、花火のことなんてすっかり忘れてたよ」
そう言って、彼は笑う。
「ほんとにね。こんなに素敵な所があるなんて、知らなかった」
高揚を抑えきれず、少し上ずった声で私が言う。
「花火、しようか」
「そうね、そうしよう」
そう言って私達はようやく、花火の準備に取りそう言って私達はようやく花火の準備に取りかかった。
カチッ。カチッ。なんどやってもライターの火が付けられない。
「あーっもう!!交代!」
ライターを付けるのに予想外に苦戦している私は、口を尖らせながら彼にライターを渡す。
「ははは、下手だなぁ…僕がつけてあげるよ」
今度は、口をとがらせる私を見て笑った彼がライターの火をつけようとする。しかし、つかない。
「あれ、おかしいな…」
「Google先生に聞いてみようか」
「いや、この前やった時はちゃんとついたんだよ」
「はいはい」
意地を張る彼をよそ目に、私はGoogleで付け方のコツを検索する。
「丸いのを回して、火花が飛び散るあ間にガスの所を押すんだって」
「難しいな…」
シュバッ、シュバッと何度か火花が飛び散るが、なかなか火は点かない。
「も〜、はい、貸して」
そう言って差し出した私の手に、ライターを乗せようとした彼の手が触れる。だがしかし、残念なことに私達はこれくらいのことでときめいたりなどしない。いつもなら。ところが今日に限っては違った。幻想的な風景のせいだろうか。触れた手から相手の温もりが伝わる。トクンー。少しだけ自分の鼓動を感じる。それにしても何故彼は早く手をどけないのか。彼の様子を伺おうと顔を上げた私は束の間、彼と目が合った。そして私達は、弾かれたように手を離した。
「ご、ごめん」
「なんで謝るの」
「いや、なんでもない」
「…変な人ね。」
なんだかおかしくなって、少しの静寂の後、私が笑う。それに続いて彼も笑い出す。2人で笑い合っていると、いつの間にか私たちの間にはいつも通りの空気が流れていた。そう、これでいいのだ。私たちの距離感は、こうあるべきなのだ。ときめいたり、恋人同士になるなんて、とんでもない。私は先日付き合っていた彼の浮気が発覚して別れた日に、もう付き合わないと決めたのだ。付き合うことでいずれ険悪な仲になり別れるのであれば、友達のままでいい。きっとその方が良いしそうするべきなのだろう。そうするべきなのだ。
シュパッ。
「ついた!!!」
「本当?!」
火がついたことでここまで嬉しいとは。初めての感覚である。結局彼は火を上手くつけられず、私が先につけることに成功した。
「じゃあ、僕が花火を持つから、火をつけて」
「うん、わかった」
一本目の花火に火をつける。まずは定番のジェット花火。シュパパパっ。楽しい音をたてて火花が飛び散る。
「あちっっ」
「わわわ、大丈夫?」
「大丈夫よ」
少し親指に火傷をしたが、そんなことより花火が綺麗でしかたなかった。手持ち花火などいつぶりだろうか。もう2、3年はやっていなかったであろうこれは、こんなに綺麗なものだったのか。予想以上の美しさに心を奪われた私達は、次々と花火に火を灯した。
一通りジェット花火を消費し切った私達は、次にブンブンに火をつけることにした。
「いくよ?」
「OK」
ブンブンは地面に置いて点火するタイプの花火なので、私がライターから直に火をつける。なんて趣のないつけ方。そう思うが、ロウソクがないのだから仕方ない。
「火、ついた!」
「どんな花火かな」
私達は、期待に胸をふくらませる。しかしそれとは裏腹に、シュンっと小さな音を立てて火が消える。
「あれ??消えた…?」
そう言いながら私がブンブンを覗き込むと、彼もこちらの様子を伺いに近づいてくる。その瞬間。ピュルルっ、と軽快な音を立ててブンブンが宙へ飛び出す。
「ひゃぁっ!」
驚いた私は変な声を出して後ろに仰け反る。そして。バランスを崩した。転ぶーそう思った時。
「おっと。」
後ろにいた彼が傾いた私の体を支え、私たちの視線が交差した。
「あっ…ありがとう」
「どういたしまして」
2人の放つ言葉がぎこちない。
「変ね、いつもなら何も感じないのに。」
「いつもなら、異性とハグをしたって何も感じないくらいなのにな。」
「なんでかしら。」
「きっとこの場所のせいで緊張しているのを、ときめいてると思っているだけだよ。」
「そう、かもね。」
彼が私を支える手に少し力を入れたのが伝わってくる。やっと体を起こした私達は、長い間見つめあっていた。
「不思議ね。周りの景色が違うだけで、こんなにも感じ方が変わるなんて。」
「そうだね。僕、ここへは初めて来たんだけど、なんだろう…とても魅力的だ。」
「私も初めてよ。川のせいで岸での音が聞こえないし誰もいないから、世界に私たちしかいなくなってしまったような気持ち。」
「映画の話みたいだ。」
「映画なら、手を取って踊るところよ。」
「それじゃあ…踊ってみようか?」
彼がいたずらに笑う。考えるように少し間を置いた私は、いたずらに笑い返す。
「踊りましょ。」
「せっかくだから、映画の主人公になった気分で踊ろうか。」
「どうやって??」
「そうだな、まずは…」
私は、少しだけ胸をときめかす。でもこれは、彼には秘密。
「目を閉じて。」
「え?どうして?」
「いいから、ほら。」
仕方なく、私は目を瞑る。ふいに、唇に何かが触れる。それは、紛れもなく彼の唇であった。私達は数秒の間、静かに、優しく唇を重ねた。
そして私たちは半ば抱き合うようにして、ゆっくりと、静かに踊り出す。見つめ合ったり目を瞑ったりしながら、川の音のBGMに合わせてゆらゆらと体を揺らす。なんとも言えないほどに、幻想的だ。今ここにいるのが私の想い人であったらどれほどよかっただろう。でもそんな人は、もういない。
でも、いいのだ、これで。今が幸せなのだからそれでいい。邪な心で、この幸せを壊してはいけない。そう自分に言い聞かせる。それでも私の心は、少しずつ揺すられてゆく。彼が私の腰に手を回し、私はその腕をなぞるようにしてゆっくりと彼を抱き寄せる。吐息が交差する。幻想的すぎる雰囲気は、私達の間の何かを変えてしまいそうな程で、今の関係が崩れるのではないかと少しだけ不安に思う。そんな今、彼は何を考えているのか。それは私には分からない。だが、それすらも心地よい。何も思い悩むこと無く、互いに寄り添う。なんて素敵なことなのだろう。時が止まって欲しい。そう思った。私達の関係は、と問われれば、私ははっきりと答えることができない。恐らく彼も同じだろう。それほどに曖昧な関係なのだ。このままではいけないような気もしたが、私はそれ以上考えることはせず、束の間の踊りに浸った。
しばらく踊った後、私達はもう一度唇を重ねた。今度は少しだけ長く。ゆっくりと目を開いた私達は柔らかく笑い合う。その目は、どこか淡い悲しさを秘めている。それでも私達は互いに気付かぬふりをする。
「線香花火、しようか。」
「そうしましょう」
彼が私に、1本の線香花火を手渡す。私は幾分か慣れた手つきでライターをつけ、2人の線香花火に順に火をつける。パチ…パチ…パチパチパチっ。少しずつ勢いを強めた線香花火は、強く、優しく燃える。私達は黙って、それを眺める。どこからか風が吹き、線香花火がゆらゆらとゆれる。しゅわっぱちっ。風に煽られた線香花火から火が落ち、儚く散る。こうして夏は、終わっていくのだろうか。こうして私たちの青春は、儚く散り、過ぎてゆくのだろうか。
「夏が、終わるね。」
彼が独り言のように呟く。
「夏休みが終わるからって、夏が終わるわけじゃないよ。」
本当は自分でもその意味が分かっているくせに、私はそんな風に返す。ところが彼は、それでもなお、
「夏は終わるよ」
という。
「どうして?」
と私が尋ねると、彼は何かを諦めたような悲しい口調で言った。
「夏の季節がここに残っても、僕らの夏は終わるんだ。」
私には、彼の言うことが酷くよくわかった。
すっかり線香花火をやり切ってしまった私達は、手を取り合って飛び石を渡る。彼が反対側の手に持ったライトで足元を照らしてくれた。来る時よりも、ずっといい。ゆっくりと最後の石から降り、岸へ降り立った私達は、急に現実に引き戻されたような感覚に陥る。少しだけ、あの島が名残惜しい。
「どうする、もう帰らないとまずい?」
「私は、大丈夫。…だと思う」
「それじゃあ、鉄橋の方まで歩こうか。」
私は黙って頷く。彼は私の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出す。彼もあの島が名残惜しいのだろうか。いや、考えすぎか。ぽつぽつと会話を交わしながら鉄橋の下まで歩く。鉄橋の下に着いた私達は、コンクリートで塗り固められた土手にわけもなく並んで横たわり、それからしばらく、時たま頭上を通り過ぎて行く電車を見ていた。電車が通る度に眩しい光と強い風が私たちの上を吹き抜けてゆく。
「エモいね。」
私が呟く。
彼は何も言わず、ただ頷く。こういう気持ちの時、私は自身の語彙のなさに失望する。故人であればきっと、「いとをかし。」なんて表現をするのだろう。
ただの友達とは言えず、かと言って恋人ではない、それでいて親友とも形容し難い曖昧な二人。ただ並んで横たわっているのは、滑稽なようで、ロマンチックなようでさえある。なんて不思議なことだろう。私達は再び、互いの手を絡ませる。
突然、彼のスマートフォンからメロディーが流れた。
「電話だ」
彼が慌てた様子で電話に出る。
「…うん、ごめんって……わかった。…はい」
微かに聞こえてくる電話の内容を聞くと、恐らくそれは、彼の母親からだということが推測できた。電話を切った彼は、深い溜息をつく。
「ごめん、母さんが。」
「もうそろそろ、帰ろうか。」
スマートフォンの時計を見ると、じこくはもう22時を回っていた。
私達はのんびりと並んで歩き、もと来た道を戻り、自転車に乗って帰った。
去り際に、彼はこう言った。
「来年もまた、来れるかな」
私は、
「わからないよ」
と答えて少し微笑んだ。彼はこれ以上は何も言わず、ただ私を優しく包み込む。彼の体温を感じながら、私もそれに応じる。一呼吸してから、
「じゃあ、またね」
「うん、また」
と短い挨拶を交わして私達は各々の家へと自転車を漕いで帰った。家に着いた時、私の胸には彼のほのかに甘い香りだけが取り残されていた。
次の日の部活帰りに私は、彼と行った島を探した。だがその場所は、見つからなかった。それはただ単に夜の暗闇で見える景色と同じ景色の場所を昼間には見つけられなかったというだけかもしれない。はたまた私が道を間違って記憶したのかもしれない。しかしこの事が私の記憶をより一層ロマンチックにしたということは、紛れもない事実である。
この出来事の後、私たちの身になにか特別な事が起きたりするなんてことは無く、恋人になるなんてこともなかった。しかし私は今、とても満足している。あの日の思い出は、誰にも、無論自分達自身にも汚されることなく、綺麗で幻想的な記憶として私の心に留まり続けているからだ。きっと私は、こらからも毎年、夏の終わりになるとこの話を思い出すだろう。そうして私は想いを馳せるのだ。
私たちの"青春"に。