雨音
<彼女の話>
その姿を見つけた瞬間に、「あっ」と声が漏れた。
雨音が強くなるのを感じて、顔を上げた瞬間のことだった。
周りの不審そうな視線に気付いた私は恥ずかしくなり、小さく咳払いをした。
すぐに私に集まっていた視線は散らばって、また独りになった。
私は手に持っていた文庫本で、さりげなく顔を隠しながら、もう一度目線を前に向ける。
やっぱり、彼だ。
あの頃とあまり変わらない姿の彼は、イヤホンを付けたまま瞼を閉じている。
ゆらゆらと電車に合わせて揺れている。
彼の隣のサラリーマンが迷惑そうに睨んでいるが、そんなことに気付く様子もない。
もちろん、さっき私が声を上げた事も、
私が今見つめていることも、
多分私が目の前に座っていることにすら気付いていないだろう。
私だって、雨音を聞くまで、彼に気付かなかったのだから。
彼に最後に会った日から、何年経っているのか考えてみる。
一、二、三……、三年振りだ。
もっと長かったように感じる。
もうあの最後に言葉を交わした日は何十年も昔のことのようで、幻なんじゃないかとさえ思った。
でも、それと同時に久しぶりに顔を見たはずなのに、昨日会ったばかりのような気もしていた。
全然変わってない。
私は彼の目が覚めないのを良いことに、正面から見つめた。本当にあの日から変わっていない。変わったことといえば、制服ではなく私服ということくらいだ。
私は自分の髪に視線を移して苦笑する。今は茶色でパーマがかかっているが、当時は真っ直ぐな黒髪だった。
幼く見えるのが嫌で染めてしまったけど、彼に綺麗だと言われたのを思い出して、少しもったいなかったかな、と今更思った。
ザザザザー………
夜遅くの電車は異様なくらいに静かで、うるさいくらいに雨音が響いていた。
誰もがお互い干渉するようなことはなく、自分だけの世界に入っていた。
私だけが目の前にいる人を見つめていた。
話しかける…?
私は一瞬浮かんだ考えを心の中で笑って一蹴した。
今更何を話すの?
元気だった?大学はどう?友達は出来た?夢は叶いそう?つらいことはない?
…今、好きな人はいますか?
聞きたいことは次から次へと溢れてくるのに、実際に聞こうとは思わなかった。
いや、聞いてはいけない、と思った。
卒業式で、自分の気持ちを全て打ち明けたことを思い出す。
「別れてからもずっとあなたが好きでした」
その言葉を聞いた彼は、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
彼の表情が、私を拒絶していることは明白だった。
「分かった。今までありがとう」
そう言った以上、もう迷惑をかけてはいけない。
でも、彼にとってはもう、取るに足らない過去のことかも知れない。
ガタンと大きな音が鳴り、電車が停まって真っ暗になった。
騒々しくなった車両に無機質なアナウンスが流れたが、私はよく聞こえなかった。
「何が起きたんですか?」
暗闇の向こうで、気の抜けた―――でも聞きなれた低い声がする。
息が止まりそうだった。彼の声だと、すぐに分かった。
隣のサラリーマンが事情を話したらしく、彼は困ったように笑った。
とっさに俯いた私から彼の顔は少しも見えないが、同じ空間にいることを実感して、胸が締めつけられた。
ふっと車内が明るくなった。
それと同時に私の携帯電話が鳴る。
彼と別れてからも変えられなかった思い出の曲。
私は俯いたまま、友達から来た他愛のないメールに返信を打った。
彼はきっと私に気付かない。
髪の色の変わった私には、気付けない。
それから一回も前を向くことなく、電車に揺られた。
彼も口を開く機会などなく、ただただ時間は過ぎた。
時が止まればいいのに。
そうは願ったものの、彼の下りる駅に着く。
ドアが開く音がした。
彼が立ち上がる気配がして、その足音が少し近付いてきた…気がした。
でも、そんなはずない。
彼の足音が、ホームを踏んで遠ざかっていく。
私はゆっくりと顔を上げた。
もちろん、もう彼の姿はなかった。
あっ、傘。
私はいつも彼が使っていた傘を手に、電車を下りていた。
そして、人込みを掻き分けて階段を走った。
雨音はだんだん激しくなる。
私の鼓動も激しく鳴っている。
彼は傘を持つ私を見たら、どう思うだろうか。
驚く?怖がる?それとも、あの時みたいに苦笑いを浮かべる?
それでも今は、届けたい気持ちが勝っていた。
いや、ただ会いたいだけかも知れない。
それが、自分勝手だと知っていても。
改札を抜けて、周りを見渡してみた。
彼の家の方の出口まで走ってみた。
彼の姿はもうどこにもなかった。
もう会えない。
私はその傘をそっと抱きしめた。
服が濡れることなど気にならなかった。ただ彼の気配が愛しかった。
すれ違う人たちが不思議そうに私を一瞥していくことなんて、気にならなかった。
やっぱり好き。
忘れようとしていただけ。私はまだ彼が好きなのだと痛感する。
傘は窓口に届けて、帰ろう。そう思ったのに足は動かなかった。
私はただただ人が行き交う中で、立ち尽くすことしか出来なかった。
彼がいない駅を見渡しながら。
<彼の話>に続く。
その姿を見つけた瞬間に、「あっ」と声が漏れた。
雨音が強くなるのを感じて、顔を上げた瞬間のことだった。
周りの不審そうな視線に気付いた私は恥ずかしくなり、小さく咳払いをした。
すぐに私に集まっていた視線は散らばって、また独りになった。
私は手に持っていた文庫本で、さりげなく顔を隠しながら、もう一度目線を前に向ける。
やっぱり、彼だ。
あの頃とあまり変わらない姿の彼は、イヤホンを付けたまま瞼を閉じている。
ゆらゆらと電車に合わせて揺れている。
彼の隣のサラリーマンが迷惑そうに睨んでいるが、そんなことに気付く様子もない。
もちろん、さっき私が声を上げた事も、
私が今見つめていることも、
多分私が目の前に座っていることにすら気付いていないだろう。
私だって、雨音を聞くまで、彼に気付かなかったのだから。
彼に最後に会った日から、何年経っているのか考えてみる。
一、二、三……、三年振りだ。
もっと長かったように感じる。
もうあの最後に言葉を交わした日は何十年も昔のことのようで、幻なんじゃないかとさえ思った。
でも、それと同時に久しぶりに顔を見たはずなのに、昨日会ったばかりのような気もしていた。
全然変わってない。
私は彼の目が覚めないのを良いことに、正面から見つめた。本当にあの日から変わっていない。変わったことといえば、制服ではなく私服ということくらいだ。
私は自分の髪に視線を移して苦笑する。今は茶色でパーマがかかっているが、当時は真っ直ぐな黒髪だった。
幼く見えるのが嫌で染めてしまったけど、彼に綺麗だと言われたのを思い出して、少しもったいなかったかな、と今更思った。
ザザザザー………
夜遅くの電車は異様なくらいに静かで、うるさいくらいに雨音が響いていた。
誰もがお互い干渉するようなことはなく、自分だけの世界に入っていた。
私だけが目の前にいる人を見つめていた。
話しかける…?
私は一瞬浮かんだ考えを心の中で笑って一蹴した。
今更何を話すの?
元気だった?大学はどう?友達は出来た?夢は叶いそう?つらいことはない?
…今、好きな人はいますか?
聞きたいことは次から次へと溢れてくるのに、実際に聞こうとは思わなかった。
いや、聞いてはいけない、と思った。
卒業式で、自分の気持ちを全て打ち明けたことを思い出す。
「別れてからもずっとあなたが好きでした」
その言葉を聞いた彼は、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
彼の表情が、私を拒絶していることは明白だった。
「分かった。今までありがとう」
そう言った以上、もう迷惑をかけてはいけない。
でも、彼にとってはもう、取るに足らない過去のことかも知れない。
ガタンと大きな音が鳴り、電車が停まって真っ暗になった。
騒々しくなった車両に無機質なアナウンスが流れたが、私はよく聞こえなかった。
「何が起きたんですか?」
暗闇の向こうで、気の抜けた―――でも聞きなれた低い声がする。
息が止まりそうだった。彼の声だと、すぐに分かった。
隣のサラリーマンが事情を話したらしく、彼は困ったように笑った。
とっさに俯いた私から彼の顔は少しも見えないが、同じ空間にいることを実感して、胸が締めつけられた。
ふっと車内が明るくなった。
それと同時に私の携帯電話が鳴る。
彼と別れてからも変えられなかった思い出の曲。
私は俯いたまま、友達から来た他愛のないメールに返信を打った。
彼はきっと私に気付かない。
髪の色の変わった私には、気付けない。
それから一回も前を向くことなく、電車に揺られた。
彼も口を開く機会などなく、ただただ時間は過ぎた。
時が止まればいいのに。
そうは願ったものの、彼の下りる駅に着く。
ドアが開く音がした。
彼が立ち上がる気配がして、その足音が少し近付いてきた…気がした。
でも、そんなはずない。
彼の足音が、ホームを踏んで遠ざかっていく。
私はゆっくりと顔を上げた。
もちろん、もう彼の姿はなかった。
あっ、傘。
私はいつも彼が使っていた傘を手に、電車を下りていた。
そして、人込みを掻き分けて階段を走った。
雨音はだんだん激しくなる。
私の鼓動も激しく鳴っている。
彼は傘を持つ私を見たら、どう思うだろうか。
驚く?怖がる?それとも、あの時みたいに苦笑いを浮かべる?
それでも今は、届けたい気持ちが勝っていた。
いや、ただ会いたいだけかも知れない。
それが、自分勝手だと知っていても。
改札を抜けて、周りを見渡してみた。
彼の家の方の出口まで走ってみた。
彼の姿はもうどこにもなかった。
もう会えない。
私はその傘をそっと抱きしめた。
服が濡れることなど気にならなかった。ただ彼の気配が愛しかった。
すれ違う人たちが不思議そうに私を一瞥していくことなんて、気にならなかった。
やっぱり好き。
忘れようとしていただけ。私はまだ彼が好きなのだと痛感する。
傘は窓口に届けて、帰ろう。そう思ったのに足は動かなかった。
私はただただ人が行き交う中で、立ち尽くすことしか出来なかった。
彼がいない駅を見渡しながら。
<彼の話>に続く。
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