雨音
<彼の話>

夜の電車は、とてもじゃないが起きていられない。
どんなに起きていようとしても、ゆらゆら揺られるうちに瞼が閉じてくる。
乗り過ごさなければいいけどと思いつつも、寝る体勢に入る。

最近、授業もバイトも忙しい。今日だって、もう午前零時を回っている。
遊ぶ体力なんか残ってはいない、でもやりたいことが出来ているから幸せだと思う。

ガタン…。

突然の大きな音と周りのざわめきで目覚めた。
しかし、目を開けても辺りは真っ暗で、俺は状況を飲み込めなかった。

「何があったんですか?」

イヤホンを外して、隣に座っているサラリーマンに尋ねると、大雨のせいだと言う。
俺はお礼を言って、もう一度寝ようと顔を前に向けた。

その瞬間、ふっと明るくなった。
暗闇に慣れていた目にはつらくて、少し目を細める。

目の前から聞き慣れた音楽が聞こえてきた。

俺は驚いて、前を凝視した。
同じ着信音の人なんて、そこら中にいると分かっているけど見ずにはいられなかった。


あっ。


彼女だと、すぐに分かった。
髪の色が変わったくらいで気付かない程、鈍感ではない。


だって、彼女は……好きだった人。


元気そうだな。


俺はそう思った瞬間、少し不満や寂しさを感じたことに動揺した。

一体、彼女に何を望んでいたのだろう?
悲壮感でも放っていてほしかったのだろうか。
まだ俺のことを想っていてほしいとでも?

いつも、俺は自分のことで精いっぱいだった。
でも、そんなことは誰にも知られたくなくて、彼女に別れを告げた。
もう一度好きだと言われた時も、彼女の顔が見ていられなくて苦笑いしてごまかした。
いつだって彼女は、笑っていてくれたのに。
本当の俺を知ろうとしてくれていたのに。

「分かった。今までありがとう」
急に彼女の震えた声が蘇る。
怒ると思ったのに、彼女は寂しそうな顔をしてゆっくり俺に背を向けた。
本当は俺も好きだなんて、言えなかった。

自業自得だった。
あの時、俺と彼女の縁は切れた。


彼女は決して前を向かない。
俯いたままの彼女からは、何の感情も読み取れない。
俺の存在に気付いているのだろう。


こちらを見ないのは気まずいから?
それとも、嫌いになったか。
いや、もう興味がないのかも知れない。


理由を探す。でも分かるはずもなかった。
彼女にとって、きっと俺はもう『特別』じゃない。


そっと目を伏せた。
彼女が気付かないふりをするのなら、俺も気付くべきではないだろう。

ゆっくりと、自分が下りる駅に電車が止まる。
俺は立ち上がって、ドアに向かいつつ、少しだけ彼女に近付いた。
何も言わないのに気配を感じたのか、ほんの少し彼女の肩が強張る。


こんなに忘れられないなら、俺も好きだと言えばよかった。


俺は黙って彼女に背を向けて、電車を下りた。
そして、なるべく速く電車から離れたかった。

気を紛らせるために二十四時間営業の本屋に行こうと、家とは反対側の出口へ歩いた。
外は大雨で、激しい音が耳に痛い。


あっ。傘、忘れた。


最初は濡れていこうかとも思ったが、本屋に着いた時に不審に思われるのは嫌だ。
駅員室の隣のコンビニまで戻って傘を買おうと、振り返った。


人並みの中に立ち尽くす一人の女性が目にとまった。
その胸に抱いている物は、俺の傘だった。


彼女に何と声をかければいいのか、分からない。
今更何か伝えても、もう手遅れかも知れない。
上手く言葉にできないかも知れない。
でも、今度こそ逃げないで受け止める覚悟はあった。

彼女は周りを見渡していた。
目が合うのも時間の問題だろう。

俺は、雨音の中、真っ直ぐに彼女へ向かって歩いていく。


終わり
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