302号室のふたり
 間に合えと踏み出した足で、俺はいつもの眼鏡を踏みつけてしまい、さっと片付けをすると、予備の眼鏡を慌てて掛けて部屋を飛び出した。
 現在の時刻は午前九時。まだ、不動産屋は始まっていない。となれば奈子が時間をつぶしている場所の目星をつけて、俺は駅前のカフェを目指して全力疾走した。
 奈子の部屋にあった小箱と、俺が奈子に用意した小箱をしっかりと握りしめて。

 徒歩なら十分、全力疾走で五分で駅前のカフェに着くと、そこのカウンター端に奈子を見つけた。

 「奈子……」

 声をかけると、奈子はビクッと肩を揺らすと振り向いて驚いた顔をする。

 「太一……。どうしたの?」
 いや、どうしたのじゃないよ。 とりあえず、息の上がった俺は奈子を逃さないようにぎゅっと背中から抱え込んだ。

 「えぇ!? ちょっと、太一?」

 オドオドとした奈子は少し新鮮で、捕まえたことで少し安堵の息をもらす。

 「奈子、お前引っ越すの? 俺といるの、嫌なのか?」

 抱え込んだ腕を少し緩めて、俺は奈子の顔を覗き込んだ。
 すると、奈子は苦しそうな顔をするので俺は、絶望的な気持ちになる……。

 「だって、太一昨日すごいチョコもらって来たじゃない。あれ本命でしょ? 彼女が出来たなら私が出ていかないと……」

 なんてことだろう。 あの後輩の嫌がらせの義理チョコを本命と間違われるなんて……。

 「あれは、塾の後輩講師がお返しを期待して高級チョコを義理で押し付けてきただけ。奈子がそのチョコを好きだから一緒に食べようと、しぶしぶ受け取ったんだ。そして、俺はこれを奈子に渡したかったんだよ」

 そう言って、俺は昨日渡しそびれた小箱を奈子の手に載せる。

 「これは?」

 「俺から奈子へのバレンタインプレゼント。最近、海外のバレンタインにあやかって男子が女子に渡しても良いって聞いたから」

 そういうと、奈子は大きな目をさらに見開いて箱を見つめる。

 「開けていい?」

 「うん。気に入るといいんだけど」
 
 俺が用意したのは可愛らしいドロップ型の石が三つ連なったピアス。
 去年、ピアスホールを開けた奈子は可愛いのが欲しいと雑誌を見つつ言っていたのを聞いていて用意した。

 「わぁ。可愛い……」

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