あの夏を思い出さない
白い大きな背中が、私の特等席でした。寄り掛かって腕を回して耳をぎゅっとつけると、いつも佑の音が聴こえていました。自転車が時折カラカラと鳴って、反対の耳に風の音と一緒に入ってきて、その全部が私の中で混ざり合う、あの時間が大好きでした。
とくん、とくん、とくん、とくん。それはずっとずっと続くはずの音でした。
***
佑は隣のマンションに住む幼なじみでした。進路決めの時に告白して、同じ高校に進んで、私たちは毎日ずっと一緒でした。
「蛍、俺さ……夏休みに引っ越すんだよ」
「え? 今、なんて……」
梅雨が明けそうで明けない、蒸し暑いある日の帰り際のことでした。Uターンして来た道を戻る姿勢になった佑が、急にそんなことを言いました。
煩くなり始めたセミの声が、筋向こうの商店街から聞こえる流行の曲が、通り過ぎる散歩中の犬の荒い息が、その瞬間にものすごい大音量で頭にぐわんと鳴り響いて、私はステレオのスイッチを切るみたいにしゃがみ込んで耳を塞ぎました。
何も聞きたくない、今のはただのノイズだ、そう思ったんです。
「聞けよ」
「やだ!」
「聞けってば! 転校とかじゃねーから!」
「ち、がうの……?」
耳を塞ぐ私の手を佑がほどいて言いました。離れ離れになってしまうと思ったのは私の勘違いでした。
「でも塾もあるし引っ越し準備でバタバタすっから、夏休みあんま会えねえなと思って。先に謝っとく」
「なぁんだ、よかったぁ。もう、驚かせないでよね」
「ごめんな。でもちょっとラッキーとか思った」
「なによ」
「お前のそんな顔みれた」
「あ……」
佑は、いつも不意打ちで唇を盗んでいきました。ずるい。この時だって、そんな風にいつもの、他愛ない、だけど私にとっては大切な、そんな特別だけど普通の、また明日、のキスだったんです。
「花火大会は時間作るから、浴衣買っとけよ」
「うん」
「じゃまた明日な」
――また明日は、来ませんでした。
学校で知らせを聞いた時はぜんぜん信じられませんでした。あり得ない! 絶対に信じない! 誰か嘘だよって言って! そんな気持ちでいっぱいでした。
泣きだす女子。
騒ぐ男子。
いるはずの佑がいない机。
鳴らしても鳴らしても出てくれない佑のスマホ。
昨日の感触がまだ残る唇……。
あの日から、私はずっとあの夏にいるのです。