溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 私は彼の手を握った。

 彼が立ち止まる。

「利用じゃありません」

「じゃあ、なんだよ」

「幸せにしてくれるって言ったじゃないですか」

「だから、俺は詐欺師だって」

「いえ、あなたは日本の至宝、大里健介です。言ったことは必ず実現する男です」

「だが、それは今すぐじゃない」

「それは占い師の逃げ口上です。本当の詐欺師なら、もっとうまくごまかすはずです」

 私は彼の手を離さなかった。

 彼は反対側の手で鼻の頭をかいた。

 雨に濡れた髪の毛が額に張りついている。

 それはまるで私たちの関係を暗示しているかのように波打っていた。

 ホテルに入ると、彼が私にカードキーを出すように言った。

 私が差し出した鍵を彼は受付の係員に渡した。

「チェックアウトしておいてくれ」

 え?

「それでいいんだろ?」

 私はうなずいていた。

「彼女の部屋にある物はあとで俺の部屋に運んでおいてくれ」と彼はホテルマンに依頼した。

「かしこまりました」

「じゃあ、俺の部屋に行こうか」

 ケンスケが私の肩に手をやってエレベーターへといざなう。

 これで私とミケーレの関係は終わったということなのだろう。

 どちらにしろ、こうなる運命だったのだろう。

 心の穴に砂時計の砂が一度にどさりと落ちる。

 その時が来たのだ。

 私はミケーレを裏切るのだ。

 私は彼と一緒にエレベーターに乗り込んだ。

 前は時間がかかると思ったエレベーターなのに、あっという間に到着してドアが開く。

 今朝までいた部屋の前を通り過ぎて、隣の部屋のドアの前に立つ。

 ふと、足が止まる。

 後戻りはできない。

 かといって、先へ進んでも道が開けるわけでもない。

 扉の向こうは楽園ではなく、破滅の淵だ。

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