溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 パオラさんと二人きりになる。

 丘の下から風に乗ってかすかに波の音が聞こえてきた。

「ここはね、私が生まれ育った家なのよ」

「そうなんですか」

「両親が亡くなって以来、長いこと使ってなかったけど、結構きれいでしょ」

「掃除が大変だったんじゃないんですか」

「仕事だもの。たいしたことなかったわよ」

「ありがとうございます、パオラさん」

「それにしてもなつかしいわね」

 窓から見える地中海に目を細めながら、パオラさんは急に昔のことを語り始めた。

「私たちね、ここで初めて結ばれたのよ」

「ジュゼッペさんですか?」

「彼ね、もう夢中で私にしがみついてきてね。今でこそ、無愛想なくせに、昔は結構情熱的だったのよ。ちょっと魚臭かったけどね」

 魚臭い?

 パオラさんは壁に掛かった額の写真を見つめている。

「昔はね、あの人漁師だったのよ。親の手伝いで海に出てたの。エビを捕っては、うちに持ってきてくれてね」

「へえ、そうだったんですか」

 いろいろな思い出の詰まった家。

「自分の家だと思って使ってね。家は人が住んでいないと傷んでしまうから」

 おばさんは水道やガスの具合を確かめてから、ミケーレの別荘に戻っていった。

 一人になって南向きの窓から海を眺める。

 太陽の光に照らされた地中海はきらきらとまぶしい。

 遠くでヘリコプターの音が聞こえる。

 ミケーレがナポリに向かって出発したのだろう。

 寝室にはベッドが整えられていて、私のスーツケースが置かれていた。

 中には財布が入っている。

 日本で交換してきたユーロはほとんど減っていない。

 ナポリのバス代を払ったくらいで、全然使う機会がなかった。

 私はアナカプリの街まで買い物に行くことにした。

 自分の食事くらい用意しなくちゃ。

 これからここで、『生活』するのだ。

 いつまでになるかは分からない。

 でも、自分のことは自分で決めて、自分でやる。

 これからどうなるのかは分からないけれど、目を閉じてじっとしていても何も始まらない。

 きゅるるとお腹が鳴る。

 さて、何を食べようかな。

 私は白い家を出て丘の上から地中海を横目に街へ向かって歩き出した。

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