溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 日本へは連絡をしなかった。

 どうせ言われることは決まっている。

『ほら、だから言ったのに』

『やっぱりだまされたじゃない』

『もてあそばれているだけでしょう』

 そう言えば物事が改善されるとでもいうのなら甘んじて受け入れよう。

 でも、そこにあるのは『善意』という名のただの毒だ。

 もう、向こうに自分の居場所はないのかもしれない。

 漠然としていた気持ちが決定的なものに変わっていった。

 それを望んでここに来たのだ。

 ここで起きたことは私には必然だったのかもしれない。

 それでもまだ、私は迷っていた。

 ミケーレに知られるのは時間の問題だ。

 大きくなっていくお腹を隠し通すことはできないだろう。

 その前にするべき決断が頭をかすめる。

 この子の運命を決めるのも私なのだ。

 その考えが頭に思い浮かぶたびに、口の中に苦い唾液がわき出してきて不快な症状に悩まされる。

 新しい命と私の運命が静かに戦っているのだった。

 私は毎日散歩に出ていた。

 坂道を下って西の灯台に出て、灯台の下から断崖の遊歩道を歩く。

 カレンダーの上では秋というべき季節だったけど、少し過ごしやすくなっただけで夏と風景は変わらない。

 ときおり通り過ぎる遊覧船には満員の観光客がいて、陽気に手を振っている。

 イタリア民謡を合唱しているのが風に乗って聞こえてくる時もある。

 以前とは違って向こう側から歩いてくる人もいて、すれちがうときに広い場所で待っていてくれる。

 ハロウ。

 グラシアス。

 シェイシェイ。

 誰一人いなかった遊歩道に、様々な言語が飛び交っていた。

 青の洞窟の桟橋が見えてくる。

 港から遊覧船で来た観光客は、ここでゴンドラに乗り換えて小さな入り口をくぐることになっているらしい。

 でも今は観光客の姿はなく、桟橋に並んだいくつものゴンドラが退屈そうに波にもてあそばれている。

 ストライキが終わって島には観光客がもどってきたけれど、入り口が水没していて入れない状態がまだ続いているのだった。

 本当なら島で一番賑わうのはここなのだろうけど、今は逆に見捨てられた場所になってしまっている。

< 146 / 169 >

この作品をシェア

pagetop