溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 崖の上から見下ろしていると、急に私の心を黒い霧が覆い始める。

 つい二ヶ月前まではこの世の楽園だと思っていた。

 青い海と広い空を独り占めにして喜んでいた自分を呪いたい。

 いろんなことが短期間に降りかかってきてしまった。

 人生が私を追い越していったんだ。

 遥香の言う通り、私はだまされやすくお人好しで、だから実際こうしてイタリアでこんな目に遭っているんだろう。

『だから気をつけなくちゃだめだって言ったでしょ』

 やっぱり私は自分一人ではちゃんとしたことができない人間なんだ。

 目の前に水たまりがあるよと言われても、靴を濡らしてしまうような愚かな子供なんだろう。

 こんな私が母親になんかなれるわけがない。

 仕事もうまくいかなかった。

 逃げるようにやってきたこの場所で軽はずみなことをして……。

 だからこんな苦しみにさいなまれているんだろう。

 私には生きている価値なんかないんだ。

 崖の下に打ち寄せる波が白く砕け散る。

 その波の形がまるで私を呼び寄せる死神の手のようだ。

 私は呼ばれていた。

 本当の楽園を見せてあげよう。

 なんの苦しみもない、本物の天国を。

 寄せては返す波の間から声が聞こえた。

 さあ、おいで……。

 ……こっちだよ。

 さあ、来るんだ……。

 だが、それは死神の声ではなかった。

「チャオ、シニョリーナ! カモン! グロッタ!」

 グロッタ……。

 洞窟?

 青の洞窟のことだろうか。

 崖の下でゴンドラのおじさんが大きく手を振って私を呼んでいた。

「ユー、ラッキーガール! カモン!」

 私は足元に気をつけながら崖に刻まれた階段を下っていった。

 誰もお客さんがいないゴンドラ乗り場まで来ると、おじさんが興奮気味に手招きする。

「ファーストタイム、ハーフイヤー。ラッキー」

 半年ぶりに入れるということらしい。

 よほど小さいのか、桟橋からはどこが洞窟の入り口なのか分からない。

 おじさんは大げさな身振りでしきりに私に乗れと合図している。

 どうやら波の加減でまたすぐにだめになるかもしれないらしい。

 おじさんに手を引かれて私はゴンドラに足を踏み入れた。

「入り口は狭いからね。寝そべらないと入れないんだ。仰向けになって空を見てごらん」

 観光客になれているからか、分かりやすい簡単な英語で説明してくれる。

「レッツゴー」

 私はまるでリュージュの選手のように、ゴンドラの中で気をつけの姿勢で仰向けになって澄んだ空を見上げていた。

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