溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 すうっと洞窟が息を吸い込んだかのようにゴンドラが飲み込まれる。

 一瞬暗くなって目の前に青い世界が現れる。

 天井に海の色が反射してすべてが青に満ちていた。

「起き上がってもいいですよ」

 おじさんがそっと告げる。

 静かだ。

 揺れる波の音が洞窟に反響するけど、それすらも青に溶けていって、次第にあらゆる感覚が奪われていく。

 サファイアの中に入り込んだかのように私は青そのものだった。

 海が青く光り、天井が青く輝き、私自身も青い光を放っているかのようだ。

 ゴンドラはゆっくりと洞窟の中を回っていく。

 そうか、これがこの世の楽園なのか。

 ゴンドラのへりに置いた手に水がひとしずくかかった。

 でもそれは波しぶきではなく、私の涙だった。

 青が涙でにじんでいく。

 視界がぼやけていく。

 私は青を取り戻すために、涙をぬぐった。

 おじさんがそっとささやく。

「シニョリーナ、仰向け」

 ゴンドラが外に出る。

 まぶしすぎて真っ白な世界が私を出迎えてくれる。

 起き上がって洞窟の出入り口を見ると、もう波に沈んで見えなくなっていた。

 船着き場でおじさんが手を差しだしてくれた。

「グラツィエ」

「ウエルカム」

「あの、お金は?」

「いらないよ」

 困惑している私におじさんが両手を広げた。

「きっと神様が見せてくれたんだろうさ」

 そうか、さっき聞こえたのは幻ではなかったんだ。

「あんたがあの崖の上にいるのを、見ていてくれたんだろうさ。だから神様が呼んだんだよ。あんたは神様のお客さんってわけさ。だからお金はいらないよ。楽しんでもらえたら、うれしいよ」

「ありがとう」

 日本語でお礼を言うと、おじさんは照れくさそうに「アリガト」と手を振ってくれた。

 私は崖の小道を上りながら生きる意味を噛みしめていた。

 そうか……。

 だから、私はこの子を授かったんだ。

 この子に楽園を見せるために。

 この子に生きる喜びを伝えるために。

 だから私は母親になるんだ。

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