溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 エマヌエラさんは窓辺に立って目を細めていた。

 沈黙に耐えられずに、私はどうでもいいことを言った。

「ヘリコプターではないんですね」

 音が聞こえなかったので、直前まで来訪に気づかなかったのだ。

 おそらく船でやって来て、港から車で上がってきたのだろう。

「あんな野蛮な乗り物、ごめんです」

 それには私も同意する。

「ミケーレにも危険だからやめなさいと言っているのですよ。『時間をお金で買うんだ』なんて言ってますけど、命はお金では買えませんからね」

 お母さんは二枚の書類をテーブルの上に置いた。

「これは何ですか」

「信託財産の契約書です。日本語訳も作ってあります」

 私のお腹を冷たい目で真っ直ぐに見つめている。

「お腹の子にとって最善の解決策ということです」

 書類まで用意してあるのだ。

 隠してきたつもりでも、とっくに私の妊娠はばれていて、ドナリエロ家として万全の準備を整えてきたというわけだろう。

 私が専門用語の並ぶ書類に目を通していると、簡単に内容を説明してくれた。

「生まれてくる子供に、養育費として毎年十万ユーロを一生支払うという契約書ですよ。将来的な物価変動にも対応する付属条項付です」

 十万ユーロ……。

 一千万円以上を毎年……。

「その他に、必要であればドナリエロ財団から奨学金も支給します。世界最高水準の教育が受けられるでしょう」

 生活費以外に学費まで不自由しないというのだ。

 生まれてくる子供にとっては充分な生活保障だろう。

 エマヌエラさんがペンを差し出す。

「決して悪い話ではないでしょう。あとはあなたがサインするだけです」

 しかし私はサインできなかった。

 お母さんの一言が、心の奥に突き刺さった。

「ただし、子供はドナリエロ家で引き取ります。あなたは親権を放棄する。いいですね」

 私はペンを置いた。

「お金は受け取れません」

「どうしてですか」

 私はアマンダに席を外すように頼んだ。

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