溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 ソレントの街は断崖の上にある。

 港から急な坂道を登ったところが市街地らしい。

 妊婦にはきついと思って崖を見上げていたら、名前を呼ばれた。

「美咲、来たか」

 大里選手がタクシーの窓から顔を出していた。

「乗れよ」

 私に選択肢はなかった。

 素直に乗ると、車は坂道を登っていった。

 崖の上の市街地にある小さな駅でタクシーが止まった。

 大里選手は五十ユーロ紙幣を差し出して運転手にイタリア語で何か言った。

 運転手さんは満面の笑みでグラツィエと言って去っていった。

「おつりもらわなくていいんですか。港からここまで、ほんのちょっとだったじゃないですか」

「口止め料だよ。俺がここにいたことを誰にもしゃべらないでくれって頼んだのさ」

「やましいところがあるからですか」

「まあな」

 軽く片目をつむってみせると、彼は二人分の切符を買って駅に入っていく。

「どこに行くんですか」

「雨で延期になったデートの続きに、ちょっとつきあえよ」

 ずいぶん昔のことのように思える。

 あの時はこんなことになるなんて思っても見なかった。

 駅に止まっている電車は、ソレントからナポリまでベスビオ火山の麓の街をつなぐベスビアーナ鉄道だった。

 平日昼間の始発だからか、私たちの他に乗客がいない。

 ボックス席の窓側に向かい合って座る。

 すぐにドアが閉まって、電車はゆっくりと動き出した。

 彼は何も言わない。

 私の方からたずねるしかなかった。

「取引って何ですか」

「約束通り、デートをしようってことさ」

「それで、どこに行くんですか」

「日本だろ」

 え?

 日本?

 この電車で?

 大里選手は真顔だ。

「どういうことですか?」

「あわてるなよ。ナポリまで一時間。最後のデートくらい、楽しませろよ」

 最後のデート?

「いいことを教えてやろうと思ってな」

 彼はニヤリと笑みを浮かべながらスマホを取り出した。

「あんたの恥ずかしい動画だ。見るか?」

 今ここで?

 彼はスマホの画面を私に向けた。


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