溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 電車は崖沿いの街を抜けて開けた平原に出た。

 ベスビオ火山がそびえている。

 古代遺跡が見えてきた。

 ポンペイの遺跡だ。

 観光客が大勢乗ってきて、あっという間に席が埋まる。

 私たちのボックス席にも腰の太いイタリア人のおばさんが二人座った。

 ケンスケは窓の方を向いて顔を隠していた。

 電車は現代人の住む住宅と古代遺跡が混ざり合う混沌とした街を縫うように走っていく。

 時々光の加減で彼の顔が窓に映る。

 窓の中の彼は真っ直ぐに私を見つめていた。

 近代的な高層ビルが並ぶ風景が近づいてきた。

 彼が思いがけないことを言った。

「もうすぐナポリだ。あんたはそこから特急電車でミラノへ行く」

「どういうことですか?」

「だから、日本へ帰るんだろ」

 ベスビアーナ鉄道の地下終着駅に到着して、乗客がホームにあふれ出す。

 人込みから守るように彼は私の肩を抱いて、ゆっくりと歩いていく。

 エスカレーターを上がって地上に出たところがナポリ中央駅だった。

 日本と違って改札はなく、自由にホームに出入りできるヨーロッパ式の駅だ。

 彼はチケット売り場を素通りしてホームに停車している特急電車に向かっていく。

 相変わらず生ゴミの匂いが漂ってくる。

 妊婦にはきつい街だ。

 電車の乗降口前で手を振っている女性に見覚えがある。

「大里さん、チケット買っておきましたよ」

 アマンダだ。

「おう、ありがとさん」

 ほら、と彼が私に特急電車の切符をくれた。

「ナポリの空港はドナリエロ家の手が伸びているだろう。だから、この列車で終点のミラノまで行くんだ。そこからドバイ経由で飛行機を手配してある」

 これです、とアマンダが封筒に入った書類を取り出す。

 それはファーストクラスのチケットだった。

「日本への直行便だと把握されるかもしれないから、わざとドバイ経由にしたんだ。それに直行便にはビジネスクラスしかないんだが、ドバイ経由だとファーストクラスがあるんでね。いくら安定期でも、少しでもゆったりしている方が、妊婦にはいいだろう?」

「ありがとうございます」

「ここからはアマンダが案内してくれる」

「はい、任せて下さい」

「でも、大丈夫なの?」

 私が心配していると、アマンダは「大丈夫ですよ」と微笑んだ。

「ドナリエロ財閥との契約では、私は美咲さんの専属通訳ですので、あなたがイタリアを離れる場合は自動的に解雇となります。ですからもう私はドナリエロ家の使用人ではありません。フリーになったので、今日から大里さんに臨時で雇われました。日本まで同行します」

 アマンダが先に電車に乗り込んで席まで荷物を持っていってくれた。

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