溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて

   ◇

 赤ちゃんは無事に生まれた。

 お産は大変だと聞かされていたし、私も覚悟はできていた。

 でも、いざ陣痛が始まってミケーレに病院に連れて行ってもらったら、まるでスリッパでも脱ぐみたいにスポーンと産まれてきて、私よりも産院の人たちの方があわてていた。

 ミケーレはその時ちょっとトイレに行っていて、産まれる瞬間に立ち会えなかったのを悔しがっていた。

 そんなちょっとお騒がせな赤ちゃんは女の子だった。

 娘の名前は『サクラ』になった。

 名付けてくれたのはパオラさん夫妻だ。

 日本の桜をまだ見たことがないというおばさんたちを来年のいい時期にご招待しようと思っている。

 ヨーロッパではサッカーシーズンが終わり、早くも移籍の話題が出始めていた。

 大里健介選手はサレルノFCを去って、ドイツリーグの下位チームに移籍した。

「イタリアではリーグ優勝という目標を達成したので、もう一度挑戦する心を取り戻したいと思い、ここに来ました。チームに貢献して欧州カップ出場資格の獲得を目指します」

 昨シーズンの活躍から考えれば、この移籍は不可解と受け止められたようだった。

 移籍して間もなく、あるお菓子のCMが日本でも流れ始めた。

 ゴールを決めた大里選手が熊のキャラクターと肩を組んでグミを食べている。

『少しくらいの息抜きは必要さ。この一粒のグミのようにね』

 彼のチームのスポンサーがお菓子メーカーだったのだ。

 CM向けの笑顔ではない。

 まるで少年のような笑顔だ。

 まさかとは思ったけど、おそらく移籍の本当の理由を知っているのは、世界中で彼と私だけだろう。

 ニュースがもう一つあった。

『大里選手が一億ユーロを寄付して財団を設立。海外を目指す若い選手を支援するプログラムを開始』

 一時帰国した彼の記者会見動画がインターネットで話題になっていた。

 半笑いの記者が挙手して質問した。

「ご自身のご結婚については? お子さんを将来サッカー選手に育成するプランについて聞かせてください」

 大里選手は表情を硬くし、声を抑えながら答えた。

「最初の質問がそれですか。がっかりですよ。そういう質問をしているから、日本のマスコミは百年遅れてるって言われるんでしょう」

 会見場が凍りつく。

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